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アジサイの色
アジサイの色
焼魚圭
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年06月23日
公開日
5,585字
完結済
森の中から現れた。 アジサイのドレスを身に纏った女性は濁りを剪定鋏で切り裂いて、今日も歩く。 ある家に大きな濁りの気配を見て、濁りと化す前にと濁りの気配の原因である少年と共に過去へと潜り、動き出す。 これは、未来ではなく今を変えるための物語。 ※本作品は「pixiv」「ノベルアップ+」「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しております。

第1話 アジサイの女

 紫色のドレスは陽ざしの世界を舞う。森に入り、木陰に染められてもなお色の薄い紫の落ち着きや鱗のように散りばめられた生地は誰もがアジサイを連想してしまう。これまでの人生の欠片が刺さっているような、そんな色合い。さしている傘は日傘でなければ晴れ間の空が眩しくて、日傘であるなら意味を持つ。本体の上に咲いている作り物のアジサイはドレスよりも濃い紫。傘に至っては青い生地に所々ピンクの破片を得ている。

 森の緑の中でスカートの裾を揺らしながらなにもないはずの正面を見つめる。首に下げた雫のネックレスが揺れ、この世に注がれてもいない雨の代わりを務める。伸ばした手が森の緑に薄紫を添えて、その場に咲いていない紫色の花を宿らせる。

 伸ばされた手に重ねられた空気の手はすぐに消え、そこに残された一枚の折りたたまれた紙を見つめて女の目は不穏な曲線を描いた。

「そう、やっぱり」

 指でつまみ、紙を開いて歩き出す。ブーツの底が踏む木々の破片や荒い土は歩き心地の悪さを形にしてしまう。

 進んだ先には開かれた道と空気の濁りが漂っている。濁りはただそこで浮いているだけのようにも見られるものの、女が見つめた途端に蛇の姿を取って襲い掛かって来る。空間を泳ぐようにうねる細長い体が気持ち悪さを加速させていた。

 それを素手でつかみ取り、姿を持たないそれを見つめ続ける。この女の薄緑の目だけが捉えている景色。それがこの蛇の姿をした濁りというものなのだろう。

 女は日傘を持っていた手を放した。傘が落ちて行く。下りるそれは女の姿を隠し、やがては地の斜め下を向いて隠すことすら出来なくなる。

 姿を現した女の手には剪定鋏が握られており、蛇の姿をした濁りは悲鳴を上げる。いつの間に切られたのか、体は逸れ、上半分は空中を漂い始める。

 続いて蛇の姿が輪郭を失い空気中に散り行く。襲い掛かろうとしていた他の空気の濁りも同じように散って身を潜めてしまう。

 アジサイの女は盛大にため息をついて再び正面を見つめた。

「困ったものね、これだから雨の方が好き」

 雨の日には存在できない空気の濁り、重々しく重ねられた透明の塵の如きものは明らかな穢れ。

「素直に通して欲しいものね」

 歩き続け、市街地へと足を踏み入れる。そこに住まう人々は女の姿を目にするや否や隣に立つ身内や友達といった人々にひそひそと何かを告げる。

 言葉と共に空気中にまき散らされる空気の濁りを見つめてわざとらしい程に大きなため息をついて顔を下に向けて左右に振った。

「私の敵をこれ以上生み出さないでちょうだい」

 言葉は虚しく消え、誰もが奇異の目で見つめる。そんな中で女はあるアパートを見つめ、その目を閉じる。

「そう、二階の三号室の子ども部屋ね」

 右腕を緩く伸ばし、手で風をつかもうとして、しかしながら手から肘にかけてを覆う花びらたちが風の気配を通さずため息は零れ落ちる。

「弱い」

 素肌がむき出しの細い二の腕がかろうじて風の緩やかな様を感じ取り、女は窓を見つめる。

 足を上げ、何かを踏む。更にもう一歩踏み出して空気中にある何かを踏み、浮いていた。

 そして向かった二階の三号室の窓を軽く叩き、カーテンが開かれるのを待つ。再び窓を叩き、反応を待つ。

 開かれたカーテン、向かい合う幼さを残した少年の顔は驚きに目を見開いていた。

 窓が開かれると共に少年は驚きの感情を言葉に乗せた。

「誰ですか、なんで、ここ二階ですし」

「風を踏み台にね」

 余裕の表情を浮かべながら告げるものの、常に流れ去る風が窓から身を引きはがそうとするがために忙しなく足で見えない地面を、風の地を踏んでその場に留まっており、足は軽い疲れを訴えていた。

「それより上げてちょうだい」

 少年の返事を待つまでもなく靴を脱いで窓枠を跨ぐように大きく足を上げる。乗り越える際に軽く零した吐息が少年の頬に赤を差し込んでいたものの、彼の心情になど構うことなく話を続ける。

「あなた、落ち込んでいるのでしょう」

 首を左右に振るものの、女は頭を拳で軽く小突いて言葉を奏でる。

「素直に言って。人の花びらが伝えてくれたもの」

 紙を広げて見せる。少年は目を見開いて紙へと弱々しい手を伸ばす。

「どうしてそれを」

 少年が紙を受け取ると共に彼女の目の中に宿る紙の形が姿を変えて行く。取った形は折れた黒と緑のチェック柄の傘、梅雨の中で仕事を果たせなくなってしまったそれを見つめて女は問いを放る。

「これはただの傘じゃないわね」

 少年は静かに頷き、表情に影を乗せながら弱い声で伝え始めた。

「これは友だちので、貸してもらったんですけど」

 眉は顰められ、今にも涙をこぼしてしまいそうな瞳が感情の揺れを示している。女は少年の背を撫でてドアの向こうへと目を凝らす。

「大丈夫、まだ実物は残っているでしょ、取ってきて」

 目を白黒させる少年は辺りを見回し、口は何も言葉を持たないまま微かな動きを取るだけ。

「早く取ってきてちょうだい」

 言われるままに部屋を出て、手に取り戻ってきた少年の手に納まった傘を、あらぬ方向へと曲がったそれを見つめて少年の瞳を覗き込む。

「これがあなたの濁り」

 瞳に吸い込まれ、少年の思い出の中に手を伸ばしていく。雫のネックレスは世の中を澄み渡り、少年の微かにこげ茶を残した程度のほぼ黒と呼んでも差支えのない瞳に染み渡り、景色は水に溶けたように歪んでいく。これは鉢の中の出来事だろうか。それ程までに歪み、現実味を失うものの女はただ微笑んで見せる。少年の目は見開かれ、視界に眠る手が、体が、全てが水の中へと沈むイメージに驚愕を覚えていた。

「素直な反応ありがとうね、かわいい子ちゃん」

「馬鹿にしないでください」

 頬を赤らめながら膨れさせた少年の目には妙な羞恥心が宿る。そんな正とも負ともつかない感情の変化を見つめて女は微笑みのつぼみを大きな笑顔の花へと開いてみせるのだ。

 続いて景色の捻じれは失われる。分厚い雲を映し出した窓と見覚えのある木の床、雨を防いでもどこか湿っぽさを持った埃っぽいその場で少年はうろたえ、高くて濁りなき声を響かせ感情を形にした。

「これは学校か、なんで、今何時」

 一方で先ほどの笑顔を消し去り微笑みで覆う女はピンクに色付いたアジサイのドレスの裾を持ち上げて顔を傾けながら柔らかな感情を作り上げる。

「あなたを救うための一歩」

 それからブーツに覆われた足で一歩を踏んで、少年の方へと回って見せる。いつの間に裾から手を放していたのか、空気を取り入れながら広がるドレスがふわりと舞って少年の心に温かな気持ちを落とす。

「そして私が救われるための一歩」

 少年は女が纏っているドレスを指し、頭に差し込まれたらしい一つの疑問を伝えるべく口を開く。

「おねえさん、ドレスの色が」

 女はドレスを見つめ、折りたたんだ傘もまたピンクに染まっている事を確かめた上で特に表情を変える事もなく答える。

「アジサイだから変わる事もあるわ」

 それから少年の目を覗き込む。その目は恐らく薄緑から別の色へと変わっている事だろう。

「そもそも正しい色なんてないのが私。あなたも服を着替えるでしょう、今もね」

 少年は自分が纏っている服に目をやり、現状を理解した。一歩後ずさり、目を見開いて女に向ける。

「いつの間に制服に」

 いつ着替えたものか。分からないのだろう。しばらく目を泳がせた後、女の方へと鋭い視線を向ける。

「もしかしてあなたが着替えさせましたね。男って言っても体見られるの恥ずかしいですよ」

「見てないし見れるものなら是非ってところかしら」

 微笑みを崩さない彼女の本音に気が付くはずもない。むしろ誰にも悟らせないために身に着けた微笑みだった。



 廊下を踏む度にワックスが半端に削れた木々は独特な音を立て続ける。教室のドアを開いて中へと入る。少年はその様に大袈裟な手ぶりで慌てを表すもの、女はただ微笑みを保ち続けるだけ。

「安心して、誰も見ていないもの」

 冷静の黒い瞳を取り戻したようで少年は辺りを見回しながら安堵のため息をついてみせた。

「分かりやすくてかわいい子」

「馬鹿にしないでください」

 途端に教室中の視線が動きを揃えて少年の方へと向けられる。集中砲火の標的にされているようで焦りを、アジサイのようなドレスという目立つ格好の女の事など見えいのか、彼らは何一つ疑問を抱かない。独り言だと思われたことによって羞恥の赤を頬に差し込んだ。

「ほうら、ここでは私の事なんて見て欲しい時にしか見てもらえない、予想外なんて中々起きなくてね」

 そう告げる彼女はどこか寂しそうな顔を浮かべ、そのまま少年の表情に変わってしまう。このままでは少年が怪しまれてしまうだろう。女は微笑んだまま告げる。

「おねえさんがついてないと思って普通に過ごして」

 そのまま少年は進む。恐らくこのまま過ごしていけば少年に傘を貸した友だちにも会える事だろう。

 女の予想のままに出来事は流れる。

 席へと向かって行く少年の肩を叩き明るい笑顔を作る人物が告げる。

「授業なんて来なくてよかったんだぜ」

 嫌気が差すほどの明るさに女は思わず目を細めてしまう。わざとらしいそれは奥に別の感情を秘めているように思えて仕方がない。

「流石にサボれないって」

「そうかよ、俺なんてクソ先公の時だけ行ってないぜ、テストも満点、悔しいだろうな」

 言葉に感情、二つは揃っていないような微かなズレが生じている。表情も軽く引き攣っており、楽しそうに話しているとは思えない。

――奥に隠しているものが本音か

 人間の罪、本来持ち合わせているはずの美しさを損ねたその花を見つめていた女が纏うドレスが純黒へと染まっていく。アジサイが持ち得ないはずの色、彼女の今の心情は黒に隠され、それでも分かりやすい心の欠片がため息となって零れ落ちた。



 それは夕方の空とは思えない色をしていた。分厚い雲が輝きを覆い、灰色の空を広げている。

 女の目が向いた先では傘を差した少年とそれを囲む同じ制服を着た男たちの姿が薄っぺらな影となって映し出されており、男たちは少年に迫る。

「囲んで殴り込むつもりかしら」

 大きなため息を挟み、降り注ぐ雨の音に掻き消されてしまいそうな声で呟く。

「情けない」

 女は真っ黒に色付いたアジサイのドレスを揺らしながら少年をかばうように入り込み、男たちに向かって刃の鋭さを持つ視線を投げつける。

「囲んで殴ろうだなんて」

 女の姿は男たちの顔を歪める。女の言葉は男たちの眉毛を大きく吊り上げる。

「弱いのね」

「なんだと」

 叫びながら殴りかかってきた男の手首をつかみ、他の男に向けて放り投げる。

 再び立ち上がる男は目を見開いた。

「なんだよ、それ」

 震える瞳は場違いな姿をした女の手に納まる包丁を捉えて大きく震えていた。女は微笑みながら少年の後ろにて腕を組んで立つ男に剪定鋏を向ける。

「あなたがこんな事しようって言ったのかしら」

「ちが、俺は……頼まれ、ただけ、だ」

 男は首を横に振りながら一歩後ずさりした。情けない表情に女はため息で返した。

「扇風機みたいに首なんて振って」

 強気の表情を浮かべていた他の男もまた、震えながら後ずさりしていく。女は今日だけで何度目になるのか覚えていないため息の回数を更に重ねる。

「集団で襲い掛かるしか能のない弱い人。力なんて弱さを誤魔化すアクセサリーでしかないのかしら」

 相も変わらず怯える少年に傘を閉じるよう告げ、鋏を仕舞ってアジサイの傘の中に入れ、例の傘を手に取る。

「濁っているわ」

 そう呟くや否や少年の手に納まる傘を取り、壁に向かって投げつけた。ほぼ直進、微かなカーブを描きながら進む傘は女が狙った壁にまで飛ぶ事無く、黒いアスファルトの上、車道と歩道を隔てる白い線と交差を描く形で地に留まった。

「出てきたらどうか、見てるの、知ってるから」

 女が声を響かせると共に壁の向こうから制服姿の男が一人、現れた。男の顔を目にして少年は驚きの言葉を口にせずにはいられなかった。

「なんで」

 男の姿に女は軽い笑みをこぼす。教室にいた時に少年と話し、嘘の心情を塗っていたあの男。彼はアジサイのドレスの女を見つめて乾いた笑いを上げ、少年へと視線を映して無機質な情を向けた。

「なんで分かったんだ、気持ち悪いな」

「気持ち悪くて結構、元凶さん」

 女の声には余裕が見えたものの、その目には何が映されているのだろう。異様な焦りを少年は見て取った。

「で、かわいい子ちゃんを困らせて何がしたかったのかしら、元凶さん」

 元凶さんは空気の湿度からはほど遠い乾いた笑いを浮かべながら女を上目遣いの流し目で見つめながら鼻で笑う。

「別に、こいつを悲しませるのが楽しいだけだ」

「濁り切っているわ、救いようもない程に」

 そんな言葉が元凶さんの顔に鋭い笑みを作り上げ、まさに地獄絵図の断片、そう呼ぶにふさわしい感情が湿った空気の中を漂う。女はため息をついて口を開く。

「あなたみたいなののせいでかわいい子が困るの、二度と近づかないで」

 女は少年の肩に手を乗せたまま振り返り、彼の同級生の救いようのない濁りを背に、歩き出す。

 気が付けばアジサイのドレスは再び薄紫へと色を変えていた。

 少年の頬を撫でながら歩き続け、薄汚れた階段をゆっくりと上り、家のドアの前に立つ。

「暴いちゃいけないところまで開いて見せたけど、あなたはどうする」

 少年は顔を下ろしてドアの隅を見つめ、しばらく沈黙を作った後にか細く頼りない声で力強く告げた。

「出来るだけ彼らと関わりたくない」

「よし」

 少年を返した後、目を閉じて再び開いた。迎えた景色が晴れたアパートの下である事を確認して森の方へと歩みを進める。しばらく歩いたのちに小さなスーパーマーケットを目にして歩みを止めた。

「そうね、にごり酒でも買って帰ろうか」

 それから財布を開きながら入ろうとするものの、小銭の数に失望を覚えながら、札束の幻を見ようとするも現実をしっかりと突きつけられ、そのまま森の方へと引き返した。

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