ダンジョン周囲の地熱は推定で五十五度を超えた。地球の奥底から湧き上がってくるマントルの影響だ。その熱に温められた地下海は熱い。まるで熱湯風呂の如く、入ろうとする者を拒む。厄介なことは他にもあった。地下海は今、魔潮汐力の影響で上げ潮となっている。呪われた月の引力のせいで通常の潮汐力よりも更に強くなっており、十年に一度あるかどうかの大きな上げ潮だ。まかり間違って、その激流に攫われたら、ひとたまりもない。地下海の渚は危険がいっぱいと言っていいだろう。
今も、それら自然と超自然の力が炸裂している。地底海水温の上昇と異様に強い魔潮汐力が大きな高波を巻き起こしたのだ。大波が岸辺に激しく打ち寄せる。岩をも砕く勢いだった。
地下海の岸辺に停泊していた反重力クルーザーは、その直前に海面から飛翔した。湧き上がる波から反発するように、その鋼鉄船体がグングン浮き上がる。間一髪だった。ただし危険が去ったわけではない。上も下と同じくらい危険なのだ。地下海の上には硬い岩盤がある。高く飛びすぎると、その岩盤つまり超巨大ダンジョンの天井に激突する恐れがあるのだ。
超高温の温泉と同じくらいに熱い地下海が起こす上昇気流は半端ない。竜巻を起こしかねないほど激しい烈風が反重力クルーザーを煽る、煽る! 地下海を包含する超巨大ダンジョンの天井が見る見るうちに迫ってきた。天井の巨石が急接近する。画面いっぱいに石の壁が広がった。ぶつかる! と多くのライブ配信視聴者が目を瞑ったことだろう。
実際に配信されていれば、の話だが。
「こんな感じのオープニングを考えています」
ダンジョン配信希望者ロッド・スチュアートスキー氏(仮名)は、そう言った。オンライン会議の出席者たちは考え込んだ。
この会議はネオページが主催するダンジョン配信企画に関するものである。ダンジョン配信希望者を広く募集し、その中から選ばれた者にネオページでダンジョン配信をやらせよう、という計画だった。つまり、会議の出席者とは、企画に応募したダンジョン配信希望者から優秀な配信者を選抜するためのコンテストの審査員なのである。
審査員たちは腕を組んだり、難しい顔をして天井を見上げたり、貧乏ゆすりを始めたり、ペンの先でデスクを突いたり、といったパフォーマンスを各自が存分にやって見せた。その様子が配信されているので、ややオーバーアクションである。不安そうなダンジョン配信希望者ロッド・スチュアートスキー氏の表情も映り、それを見ている視聴者から「緊張しているな」とか「頑張れ」とか「もう諦めとけ」などのコメントが書き込まれる。
審査時間のリミットが来た。審査員たちの顔が分割された画面に映ると、その中の一人、審査員アルファ(仮名)が言った。
「ちょっと違うよね」
別の審査員ベータ(仮名)も言う。
「え、これがダンジョン、みたいな戸惑いがあるよね」
違う審査員ガンマ(仮名)が訊ねる。
「君は、どういうダンジョンをイメージしているのかな?」
質問されたダンジョン配信希望者ロッド・スチュアートスキー氏が答える。
「巨大な地下空間です」
他の審査員デルタ(仮名)が訊く。
「具体的に説明してみてよ」
手元のメモに視線を落としてロッド・スチュアートスキー氏が読み上げようとすると、審査員エプシロン(仮名)が遮った。
「ちょっとさあ、メモを見て言うのやめてよ。それくらい、頭の中に入れておいて。自分で考えたんでしょ?」
ダンジョン配信希望者は首を横に振った。
「いいえ。考えたのは僕じゃありません」
興味深げに審査員ゼータが(仮名)訊ねる。
「誰が考えたのさ?」
「放送作家です。正確には、動画配信の放送作家ですが」
審査員エータ(仮名)が気障な仕草で髪を掻き上げた。
「ふ~ん、台本ありなんだ」
台本があってはいけないような口調だった。その嫌味を意に介さない様子でロッド・スチュアートスキー氏は言った。
「説明を始めます。このダンジョンは巨大な地下空間です。内部に海や山があります。地下世界と言って構いません。そこが冒険の舞台です」
ロッド・スチュアートスキー氏は説明を続けようとしたが、審査員シータ(仮名)が止めた。
「え、ちょま、ねえ、ちょっと待ってよ。ダンジョンなのに地下世界って、何それって感じなんだけど」
首を傾げてロッド・スチュアートスキー氏は言った。
「ダンジョンは地下にあるのが普通ですけど」
「いや、そういう意味じゃなくってさ」と審査員イオタ(仮名)が言った。それだけでは言い足りなかったようで、付け加える。
「そういうイメージは、何か違うのさ。一般的な視聴者たちにとって、ダンジョンは地下迷宮なのよ。廊下と部屋だけしかない狭い空間なのよ。そこに海とか山とか、要らなくねって話なのさ、実際のところ」
「そう、実際のところ、これは違うって思うんだ」と審査員カッパ(仮名)が、ロッド・スチュアートスキー氏が配信予定のダンジョンの構想をまとめた仕様書を指先で突く。
審査員ラムダ(仮名)は言った。
「大方の意見は出揃ったようだな。ダンジョン配信希望者ロッド・スチュアートスキー氏の企画案は没とする」
納得した様子を見せないロッド・スチュアートスキー氏に審査員ミュー(仮名)が通告した。
「とっとと失せろ、ロッド・スチュアートスキー。お前は用なしだ」
苦虫を嚙み潰したようなロッド・スチュアートスキー氏のアップにコメント欄が湧く。その大半が罵声だった。その画面が別の人間の顔に切り替わる。
「ネオページ主催ダンジョン配信企画希望者、オーカミング・アイムカミング(仮名)です。よろしくお願いします」
オーカミング・アイムカミング氏は手元の資料を読み上げた。
「ダンジョン配信始めました――この企画を目にしたときに思い浮かんだのは、そのフレーズです。ライブ配信の興奮、うっかり映りこんでしまうハプニング、承認欲求とスリルの融合――命がけの配信に、思わずコメントが止まらなくなるような鮮度抜群の物語を大募集! という募集要項にピッタリの配信をご紹介します。まさに――こんな「ダンジョン配信」が見たい!――そのものです」
ダンジョン配信希望者オーカミング・アイムカミング氏が用意した資料には、こんな文面が印刷されていた。
・超地味配信者なのにファン数100万人な理由は!?
・【やらせ疑惑浮上】超人気配信者の配信は台本通り
・再生数10回未満の底辺配信者はレアスキル持ち!
「これを全部やります!」とオーカミング・アイムカミング氏は言い切った。
その直後、審査員ニュー(仮名)は言った。
「これ全部、募集要項に書いてあったネタだよね」
オーカミング・アイムカミング氏は目を輝かせて頷いた。
「はい、募集要項に全部あります。これらの要素をすべて盛り込みました!」
審査員クサイ(仮名)は苛立ちを露わにした。
「それってオリジナリティーがゼロってことでしょ。それは駄目だよね」
目を見開いたまま固まったオーカミング・アイムカミング氏に審査員オミクロン(仮名)が通告する。
「駄目出しされましたので、あなたの企画案は却下となりました。さようなら」
釈然としない表情のオーカミング・アイムカミング氏がアップにコメント欄は再び盛り上がった。ほとんどが敗者への罵詈雑言である。しかし、その顔がフェードアウトすると逆の意見が目立ち始める。
「なんかかわいそうだよね」
「募集要項に書いてあることを網羅しようとしてブッ叩かれるって、何なの?」
「じゃ書くなよ運営」
「非道すぎるね」
「調子ぶっこいてんじゃねっての」
「もう見ない」
そんな声が上がる中、次のダンジョン配信企画希望者が画面に現れた。
「ウィッチントン・クラフトワークス・ワン(仮名)と申します。どうも。どうぞ、お見知りおきを」
ウィッチントン・クラフトワークス・ワンと名乗る人物の言葉は聞き取りにくく、神経に触る不快なものだった。コメント欄は、それに関する記述で満ち満ちたが、当人は気にせず続けた。
「プチコン05・ダンジョン配信で現代ファンタジーとのこと。私には、このジャンルへの興味が以前よりあり、好機来たれりと思い、応募した次第です」
ここで言葉を切る。白髪混じりの黒く長い髪が揺れた。咳払いしたためだ。ウィッチントン・クラフトワークス・ワン氏は低く小さな声で「失礼」と謝罪した。そして彼はグラスの中の液体を飲んだ。喉仏が上下するのが見えた。グラスを置く。それから話し始める。
「私が暮らしていた街は、常に茶色く濁った大きな川を挟んで、その両岸に広く長く続いていた。川岸には堤防のある場所とない場所があり、堤防の無い場所は氾濫原で湿地になっているところもあれば農地に利用されているところもあった。倉庫が建っている場所もあった。倉庫街に利用されている土地は元々は漁師たちの集落があったということだった。そもそも、この街は、その漁師の村から始まったとも聞いたことがある。しかし私が暮らしていた頃は、その面影は何所にもなかった。小さなガラス窓が壁の高いところに開いただけの、何が収められているのか分からない、赤煉瓦で造られた倉庫が並んでいただけだった。私が住んでいた下宿は、その倉庫街の近くにあった。その下宿を私が選んだのには理由がある。堤防のある土地の建物は、家賃が高めだった。洪水の危険が少ないからだ。下宿代を安く済ませようとすると、そういった地形は選べない。安全性よりも安さを優先したわけだ。だが、私が暮らしていた間は、一度たりとも水害に襲われたことはなかった。その分、別の恐怖が私を襲ったわけだが。さて、その恐怖についてお話させていただこう。それは私が、下宿の管理人であるマムートシ老人(仮名)から、ちょっとしたバイトの噂を聞いたことから幕を開けた。この老人は、私が、わずかな下宿代にも事欠く金欠人間に同情し、その話を聞かせてくれたのだ――実際は、私が下宿代を払えず夜逃げする事態を恐れたのかもしれない。いずれにせよ、下宿代を滞納することが、しばしばあった私にとって、その儲け話は渡りに船だった。報酬は悪くなかったのだ。ただし若干の危険が伴った。そのバイトとは、とある悪漢が暮らしている建物を監視する仕事だったので、その悪漢の出方次第では万が一の事態が想定されるというのだ。ただしマムートシ老人が言うには、それほどの危険はないということだった。食事代が出るというのも私にはありがたかった。金のなかった私は、本来であれば出てくるはずのマムートシ老人の手料理――彼は昔、海軍のコック長だったのだ――を抜くことで下宿代を減らしていたのだ。彼の美味い料理を我慢して食べずに毎晩毎晩空腹と戦っていた私は、食事代が出る! という、ただそれだけで感激した。実際は、食事代は出ず、パンと水が提供されただけだったが、それは良しとしよう。何はともあれ出てこない夕食を補うだけの栄養が得られるバイトに私が強い興味を抱いたのはご理解いただけると思う。さあ、話は、とある悪漢についての説明に移る。その悪漢や、その関係者について、もしも詳しく知っている方が、今この配信を見ている視聴者の中にいるとしたら……私の立場は危ういものになるかもしれない。この命の喪失か、あるいは、それ以上に恐ろしいことが私を待ち受けている結果になるかもしれないのだ。こんな言い方をすると、詳しい話を聞きたくなる方が現れるかもしれない。だが、もうしばらく、私が事情を話すときが来るのを待っていて欲しい。これから話す。いや、順を追って話すべきだろう。その理由というのは、これから私がする奇々怪々な話をきいていただければ分かることだと思うのだ。話を戻そう。その悪漢は、大変な金持ちだった。悪いことをして金を稼いだわけである。その悪事というのは、非合法な密輸品の取り引きだと私はマムートシ老人から説明された。不法な商取り引きで入手した品々の荷揚げが行われている現場が、例の倉庫街だった。こう話すと、私が、その倉庫街で見張り番をするような印象を受けるかもしれないが、それは誤解だ。私が見張りをしていたのは別の場所だ。倉庫街から川を隔てて工場街があった。人によっては不釣り合いに思うのかもしれないくらい立派な眼鏡橋を渡り――その橋は地元の人間から泪橋と呼ばれていた――堤防から続く石畳の広い道を歩くと両側が工場だらけになるのだ。この界隈の工場が朝夕の労働者を吸収し、代わりに煙突から盛大に煤煙を吐き散らしていた。そのおかげで喘息になる者もいたが、幸いなことに、私の呼吸器官は無事だったので、その工場街から続く急峻な坂道を休まずに登ることができた。その急な勾配を超えたら住宅地がある。当時は、その丘の上が街で一番の高級住宅街だった。背後の野原から吹く風が、工場の煙を追い払ってくれていたのだ。もっとも、今も高級住宅街かというと、違うらしい。戦争で街の半分近くが焼け野原になった後で再開発され、新たに宅地分譲されたらしい。かつての瀟洒な雰囲気は失われたが、それなりに華やかに賑わっているようだ。腹を減らした家族や独り者が行くファミリーレストランが流行っていると聞いた。あの丘の地面の下に何があるのかも知らず、楽しげ振る舞い、空腹を満たしているのだ。それならば、あの立派な建物たちの文化財を壊してしまったとしても仕方のないことだろう……と諦めが付くというものだ。しまった、話が脱線してしまった。悪漢の監視をしていた話に戻すとしようか。その悪漢は巨大な屋敷に暮らしており、その敷地は高級住宅地の一角を占拠していると言って良かった。そう、占拠している、という言い方で、まったく問題がない。その屋敷から漂う異臭は耐えがたいものだった。他の土地では嗅ぐことのできないような悪臭が絶えず敷地内から発散されていたのだ。その近隣の住人が迷惑に思ったのは間違いない。しかし、その悪漢が恐ろしくて、不満を言い出すことができず、その周囲から引っ越してしまうのだ。たとえ抗議したとしても、その悪漢が選挙のたびに指定する政治家が握り潰してしまうから同じことだったろうが。さて、そういった具合だったから、その悪漢は敵が多かった。そんな一人が私に監視の場所を与えてくれたと思ってくれ。私がいたのは、その悪漢が住む屋敷を真正面に見る建物の一室だった。そこに籠もり、悪漢の屋敷に出入りする人間をチェックするのである。出入りする人間は少なかった。食べ物や日用品を運ぶ悪漢の手下くらいのものだったのだ。最初は緊張して監視に当たっていたのだが、悪漢の手下が屋敷に出入りする時間が朝夕の二回で時刻が一定であることに気付くと、それ以外の時間を持て余すようになった。私は本を持参することにした。リュウ・ウォーレスの書いた『ベン・ハー』や、漢詩入門それから異世界恋愛小説あるいは美少年のボーイズラブ等を読んだ。そのために退屈しなくて済んだ。だが……今にして思えば、そのバイトをすべきではなかったのだ。そうすれば、怖い思いをしなくても済んだだろう。あるいは、もっと読書に集中すべきだったろう。物語に没入していたら、私は悪漢の屋敷に謎の訪問者が現れたことに気付かなかったに違いないからだ。しかし、私は見てしまった。黒い帽子に黒眼鏡を掛けた、全身が黒ずくめの格好の見慣れない男と女が、その屋敷を訪問した瞬間を。そのことを私は、私を雇っている男に伝えた。その男は、いつも夜遅くに現れた。私と監視の仕事を交代するためだ。そして翌朝、私と再び監視の仕事を交代するのである。さて、私は見知らぬ二人連れの男女が姿を現したことを報告し、帰ろうとしたら、男に呼び止められた。男は言った。ここで見張りをしていたのは、その二人が現れるのを待っていたからだ、と。その甲斐があった、と男は笑い、私に付いてくるよう言った。何所へ向かうのかと尋ねると、悪漢の屋敷に乗り込むのだと男は答えた。冗談じゃない、と私は言った。それは不法侵入だ、自分は逮捕されたくないと私は拒んだ。だが、男はボーナスを弾むと言った。臨時収入のチャンスに私の小鼻が膨らむ。もしも警察に捕まったら、無理やり脅されて協力させられたのだと言い張ることに決めて、私は男の手伝いをすることにした。悪臭対策で鼻に栓をして、準備完了。男が秘密の道具で屋敷の門の鍵を開ける間、私は背後で周囲の様子を窺っていた。警官も街の住人も動物も通りかからなかった。私たちは門を開け、邸内に入った。屋敷の外は立派だったが、内装も凄かった。天井や壁に付けられた照明から放たれる黄色い光に映し出された室内装飾品は、どれも見るからに高そうだったのだ。当時の私は芸術品に詳しくなかったのだが、その内部を飾る装飾に目を奪われたことを今も鮮明に思い出せる。体を硬直させている私の肩を揺すり男は行くぞと言った。どうやら男は屋敷の内部に詳しいようだった。迷わずに歩き出す。私は男の後に続いた。やがて男は地下へ続く階段を降りた。階段を降りた先に地下室があった。そこは屋敷の地上部分に比べると、非常に殺風景な場所だった。天井や壁のわずかな照明以外は灰色の石材しかないのである。その地下室は壁面にしろ、床にしろ、その石材でガッシリ固めてあるが、それだけだった。こんなところに何の用があるのか、と私は訝しく感じた。男は壁面の一部を擦った。すると、その部分が人一人が通れる程度に開いた。男は中に進んだ。そこに何の用があるのか、私に説明は一切ない。若干どころではない不安を抱えたまま、私は後に続いた。中は真っ暗だった。私は左右の壁に触りながら前進した。幾つか枝分かれしている箇所があり、そこに到達すると男は私に右へ行くか左へ進むか手短に指示を出した。しかし、そう言われても前が見えないのは困った。幸い、男は小さな懐中電灯を持っていたので、その明かりのおかげで私は迷わずに済んだのである。男は進むにつれて動きが慎重になった。足音を忍ばせるようになったのだ。私も男を真似た。だから私たちの靴音は小さくなった。その代わり別の音が聞こえてきた。暗い調子の単調な低い地鳴りのような音波だった。魂を削り取られるような響きで、ずっと聞いていると心が病むと私は特に根拠もなしに思ったが……その憶測は必ずしも的外れとは言えないだろう。やがて私たちはホールのような広い場所に出た。天井は高い。懐中電灯の明かりが照らした箇所はアーチ状になっていた。その弓型の天井が向こうの方まで続いていると思われた。奥まで行かなかったが、私の推測は間違っていなかっただろうと思う。そのホールらしき空間の左右の壁には穴が開いていた。木製の板の扉がはめ込まれたものもあったが、大半は空虚な闇があるだけだった。その入り口の一つに男は向かった。その内部は小部屋になっていた。ここも、ここに来るまでにあった通路やホールの壁と同じ材質の灰色の石材で造られていたが、ここまでとは違い、前方の壁が崩れていた。左右の壁は崩れていないし、天井も無事だったが、私は不安に駆られた。この部屋の天井や壁面の石組みが今にも崩れてくるのではないかと思ったからである。私は土砂の生き埋めになるのは嫌だった。私は昔、生きながら埋葬されたことがあるのだ。医師の誤診だと私は思うが、記録の上ではそうではない。ちゃんと医学的に死亡確認され、万が一にも生き返らないようにと、宗教的な処置までされてから棺を墓の下に埋めたというのに、私は生き返ったのだ。棺の蓋をこじ開け、土を掘って地中から地面に這い上がったときの感動と解放感は格別だった。それというのも、棺の中で呻いている時間が最悪だったからで、そのときの思いが蘇るのは断固として反対なのだ。ゆえに私は、男を置いて引き返そうとした。そのときだ。左右の壁の中から人影が湧いた。黒い帽子に黒眼鏡を掛けた、全身が黒ずくめの格好の見慣れない男と女だった……が私は、その二人組に見覚えがあった。そう、この屋敷に入るところを見たのである。二人の男女は私の前に立ち塞がると、何だか分からない言葉を言った。何を言っているのか分からなかったが、歓迎の挨拶をしているようには思えなかった。全身から憤怒のオーラを漂わせた二人が万歳するように両手を高く上げて私に迫ってきた。私は、護身用に隠し持っていたナイフを抜くか、それとも聖なるオカリナを出してピーヒャラプーと吹こうかどうしようかと迷った。私の予感では、その二人は、この世のものではない気がしたのだ。二人の男女は超自然的な存在であり、ナイフによる物理的な攻撃には耐久性があると踏んだ私は、レアスキルである<魔物を躍らせるリズミカルでダンサブルな曲をオカリナで吹く、拭くよ!>を使うことにした。生き埋めになって生き返り、元の人生を再開しようとした私は、死者の生き返りがもたらす社会的混乱を考えて、自嘲した。そして第二の人生を送ることにしたのだが、そのときに役立ったのが、このレアスキルだった。そう、今回も<魔物を躍らせるリズミカルでダンサブルな曲をオカリナで吹く、拭くよ!>は効果を発揮した。二人の男女は踊り出したのだ。それは男と女の本能的な行為を連想させるセクシャルなものだった。墓の下で蘇る前は再生数10回未満の底辺配信者だった私は、己の不運を呪った。これが配信されていたら、私は超地味配信者なのにファン数100万人を超えていたことだろう。運営によるアカウント削除の理由ともなりそうだったが。いずれにせよ、私の行く手を阻む素振りを見せた二人の男女は、私を妨害できなくなった。今こそ、逃げ出すチャンス! と私は駆け出そうとしたが、背後の男に呼び止められた。思わず振り返ると、男は私に短い棒を突きつけていた。男は言った。これは魔法の杖だと。そして、抵抗したら魔法の攻撃をするぞ、と私に警告した。何を言ってんだあ、このバカな奴め。そんな風に思わなかったわけでもないけれど、私は警告に従うことにした。私の第六感が超自然現象の恐怖に震えていたからだ。そんな私に男は言った。台本通りにやらないといけないんだ、モブは余計な真似をするな、と。男はダンジョン配信者だったらしい。いや、正確には超人気配信者だな。本人が、そう言っていた。嘘かもしれないが。まあ、とにかく、男は私の行為に不満だった。こんなことをされると【やらせ疑惑浮上】と書かれると怒っていたのだ。知るかボケ、と私は思った。そのときレアスキル<魔物を躍らせるリズミカルでダンサブルな曲をオカリナで吹く、拭くよ!>の効果が切れた。正気に戻った……と言っていいのか分からないが、セクシャルでボップなダンスで忘我の世界に没入していた二人の、と言うか二体の魔物の男女は、何だか急に恥ずかしくなったのか何なのか、怒り狂った。鉤爪の生えた手で私を引き裂こうと飛び掛かってきた。私はダッシュで逃げた。出口があると思われる方向へ突っ走る。魔法の杖を持った男が呪文を唱える声が聞こえた。私の体に強い衝撃が走った。思いっきり転ぶ。起き上がる。寝ていたら八つ裂きにされるかもしれないのだ、呑気に寝転がってはいられない。走る。来た道らしき通路を駆け抜けると、地下室に出た。そこの照明に男の姿が浮かび上がる。見覚えがあるような、ないような……思い出す。この屋敷の主人の、悪漢だ。悪漢は両手に黒猫を抱えていた。猫好きだった私は、とても可愛い猫ですね、と本音を言った。その言葉を聞いて、悪漢の表情が和らいだ。彼は言った。猫好きに悪い奴はいない、と。そして私に、ここは引き受けた、早く逃げろ、と言った。そのお言葉に甘えることにして、私は地下室から逃げ出した。屋敷の玄関を出る瞬間、恐ろしい絶叫を聞いた。人間の出す声とは思えなかったが、魔物の声かと言われても、比較してみないと分からない。とにかく、誰かが絶叫したのは確かだ。誰の絶叫はは知らなくていいのだろう。調べに戻るくらいなら、永遠に謎でいい。私は屋敷を出ると、自宅の下宿へ一目散に駆けた。部屋に戻り、鍵を閉め、やっと一息ついた。ずっと用足しをしてなかった。洗面所に行くと、鏡に”どこまでも追いかけてやる”と暗褐色の絵の具で書いてあったので、すぐに逃げ出した。あれは絵の具ではなく血だったのかもしれないが、もう戻れない、引き返せない。それ以来ずっと、私は逃げている。今回も、何かあれば逃げる。すぐに。ご清聴ありがとうございました」
審査員と配信視聴者たちは困惑した。唐突に話が終わったからだ。しかし彼らは華麗にスルーした。ウィッチントン・クラフトワークス・ワンと名乗る人物の背後に怪しいオーラが立ち昇っていたからだ。その禍々しい瘴気にあてられたのか、配信視聴者たちの中には体調を崩す者が多数いたという。
邪悪なオーラと一緒にウィッチントン・クラフトワークス・ワンの姿が消えると、画面が明るくなった。そして最後のダンジョン配信希望者が現れた。その人物は自らを、配信者ユリアヌスだと名乗った。彼は自らをローマ皇帝ユリアヌスの生まれ変わりだと言い、転生前の思い出を語った。親戚である当時のローマ皇帝に迫害され、地下牢に閉じ込められた幼少期。運命の変転で自らがローマ皇帝になった青年時代。そしてキリスト教の優遇政策を改めたためキリスト教徒から「背教者」と呼ばれるようになった体験を語り、話を終えた。
審査の結果、今回のネオページ主催ダンジョン配信企画コンテストは、受賞者なしと決まった。