「お前を堕としに来た」
静寂を裂くように、その声は告げた。
夜の礼拝堂。燭台に残った灯火が揺れ、神父テアはゆっくりと顔を上げる。
錠をしたはずの堂内。それなのに目の前に男が立っている。
「そうですか。でもその前に、ひとつだけ忠告を」
テアは立ち上がり、胸元の十字架に手を添える。
「神の前でそのような不躾な言葉は許しません」
男は笑った。黒く艶やかな髪を揺らし、黒のローブを
「……面白い神父だな。もっと堅物かと思ったのに、けっこう挑発的じゃない?」
「それはあなたが“淫魔”だからですよ。よく教会に来られましたね」
「へえ……神父のくせに、ずいぶん強気じゃないか」
男はぐいと身を乗り出し、テアの胸元に手を伸ばす。
けれどその指が触れる寸前、テアの手が彼の手首を掴んだ。
「貴方の思い通りにはなりません。早々にお引き取りを」
「……お前、本当に人間なのか?こんなに心が動かないなんて」
「残念ですが私の心はすでに他に捧げてありますので」
「……へえ?『神様に』とかそんな感じ?」
「……近いですが違います」
「神父なのに随分と淫乱なんだな」
「何とでもどうぞ」
テアは男の手を放し、背を向けた。
「さっさとお引き取りを。淫魔さん」
セラフィムは呆れたように息を吐き、目を細めた。
「……ま、いいけどな。難しいほど堕とし甲斐があるし。……それより淫魔じゃなくてセラフィムって呼べ」
テアはもう返事さえしない。
「……また来るからな」
その姿に、これ以上ここにいても無駄だと感じたセラフィムは、そんな捨て台詞を吐いて姿を消した。
「はあ……」
詰めていた息を吐き、テアは体の力を抜く。
「良かった~!帰ってくれて」
実は足も震えていたし、やばいくらいの汗もかいていた。声が裏返らないようにするだけで精一杯だったのだ。
「何だよ……本当に……どうしてこんな目にばかり遭うんだ」
テアは頭を抱えて聖書に突っ伏す。そもそもこんな廃墟みたいな教会に来たくて来たわけじゃ無い。
しかもたった一人で。
礼拝に訪れるべき近くの限界集落の村人は、とっくに皆、寿命を迎えてしまったらしく廃村となっていて、ここにいても教会を綺麗にするくらいしか仕事はないのに。
「神様、どこにいるんですか。酷いです」
そもそもこんな所に赴任する事になったのは、神の下僕であるはずの司教のせいなのだ。
生まれてすぐ教会に捨てられていた自分を、神父になれる十八歳まで育ててくれた事は感謝しているが、司教に淫らな真似を要求されて、キッパリと断ったらこのような終わりのない巡業の旅を余儀なくされたのだ
「嫌だな。怖いからもう来ないで欲しい」
テアは先ほどのセラフィムと名乗った淫魔を思い出して震えた。
淫魔だけあって確かに美しい容姿をしていた。彫刻のような逞しい体も、整った目鼻立ちも。
あの金色の目で見つめられると恐ろしさに背筋が凍り、立っているのがやっとの状態だったのだ。もう二度とお目にかかりたくない。
「心に決めた人がいて助かった……ありがとうラファエル」
テアは天に向かって祈りを捧げる。
ラファエル───それはテアの恋人だった男だ。
ただし、『前世』での話だが。
彼のことを思い出したのは、十五の誕生日を迎える前夜だった。ただの夢だとは思えない現実味のある彼の姿に、テアは前世の記憶だと確信したのだ。
その日からテアは、神に祈るのと同じくらい、彼──ラファエルに向けて祈りを捧げて来た。いつか会えますようにと毎日毎日祈り続けて来たのに、司教といいあの淫魔といい……変なものにばかり目を付けられる。
「ラファエルは今どこにいるんだろう。いつか会えるだろうか」
金の髪に翠の目、全てが光り輝いて美しい彼の姿を思い出し、テアはうっとりと夢見心地になる。
何の楽しみもないこの教会生活で、夢で彼に会える事だけが唯一の癒しなのだ。
「さて、今夜も会えるかな」
テアは寝室で横になり、ベッドサイドにある蝋燭の火を吹き消した。
翌日、テアは庭で聖書の一節を写本していた。
黒衣の来訪者は、当然のようにその前に現れる。
「おはよう、神父さま。今日は拒まないでくれる?」
「……また来たんですか。しつこいですね」
「毎日来るよ、だって俺も仕事だから。お前を堕とすって決めたからな」
「仕事……か」
「ああ。“神父を堕天させる”なんて、悪魔の勲章になると思わないか?」
テアは筆を止め、はじめてその顔に笑みを浮かべた。
「つまり……貴方は私を堕とすことだけが目的だと」
「なんだ?まさか俺がお前を好きだから来たとでも思っているのか?そんな心配いらない。体だけでいいから」
最低だ。
……分かってる。淫魔とはそういうものだ。だが、面と向かって『体だけ』と言われて
「哀れですね」
「……哀れ?」
「誰かを“堕とす”ことしか知らない者など、実に寂しいですね」
セラフィムの表情から、ほんの一瞬だけ、余裕が消えた。
「……神父ってさ、ほんとにずるいよな」
「ずるい?」
「“あわれだ”とか、“寂しい”とか。そんなふうに言われたらさ、 流石の俺でもちょっと、泣きそうになるだろ」
テアは何も答えなかった。
ただ静かに、まっすぐにセラフィムを見ていた。
何だか懐かしい気がするのだ。
何がと言われても困るが、強いて言えばこの雰囲気だろうか……。
前世ではラファエルともこんな風にふざけながら過ごしていたのかもしれない。
「……まあ、泣きたかったら泣いてください。ただし、面倒なので帰ってからにしてくださいね」
「本当に冷たいな」
「優しくする理由がありませんので」
テアはノートを閉じると、礼拝堂に戻った。
その日から毎日、セラフィムは教会を訪れた。慣れてしまうと最初に感じた恐怖感などまるでなくなり、むしろ今では掃除だ洗濯だとこき使っている。
「テア、礼拝堂の掃除が終わったぞ」
「ありがとうございます。……お茶でもどうぞ」
「美味いな」
何の変哲もない、畑で採れた茶葉を干して炒ったものですが。テアが心の中でそう呟く。
「きっとテアが入れたものだからだろうな」
……ほら来た。
この淫魔は事あるごとにテアを褒める。
それが常套手段だと分かっているので少しも嬉しくないのだが。それでも育った教会ではこんな風に褒められる事は一度も無かった。
「きっとテアが作る料理も美味いんだろうな」
「……淫魔なのに食事をするんですか?」
「するよ。食べなくても死なないが、心の栄養って奴かな」
「……では食べていきますか?」
「いいのか?じゃあご馳走になろう」
……実はテアは料理が好きだ。こんな辺境の地なので自給自足だが、僅かな食材を集めては毎日楽しく料理を作っている。
「仕方ありませんね。まあ毎日よく働いてくれているので特別です」
そう言いながらも、久々に腕を奮うことが出来ると、テアの胸は高鳴っていた。