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シンフォニー・オブ・サイレンス ―残響の調律―
シンフォニー・オブ・サイレンス ―残響の調律―
はくこ
ホラー都市伝説
2025年06月23日
公開日
5,586字
完結済
その“音”は、愛か、狂気か。 幼い頃の事故で両親を亡くしたサウンドアーティスト・結城響は、都市の「音」を再構成する作品《都市の呼吸》を携え、デジタルアートギャラリー《レゾナンス》に招かれる。だが、展示空間《残響の間》で耳にしたのは、人間には聴こえないはずの異常なノイズと、記憶の奥に潜んでいた“音の亡霊”だった――。 AIアシスタント《アリア》の警告、高梨慧というライターとの邂逅、そして主任キュレーター・神崎零の真意。 浮かび上がるのは、「感情を音に変える」狂気のシステム《オラクル》と、過去を音響として再現しようとする執着の愛。 音に囚われた記憶を、少女は調律できるのか。 そして“静寂”は、赦しとなるのか――

第1話 音の亡霊

 都市は音で溢れている。

 それは、人間には聞こえない微細なノイズさえも含まれる――彼女にとっては、だ。


 結城響の耳は、世界を「音」で捉えていた。

 カフェの奥で交わされる囁き声、地下鉄の鉄骨が軋む微かな震え、スマートフォンの画面から漏れる高周波ノイズ。それらすべてが、彼女の創作を形作る音だった。


 同時に、耐え難い刺激でもあった。


「アリア。環境音、絞って」


 そう囁くと、耳元のイヤーカフから、穏やかな応答が返ってくる。


「承知しました。集中モードを有効にします。現在の集中度は83%。最適化を開始します」


 響の脳波、心拍、視線――それらをリアルタイムで解析するパーソナルAIアシスタント「アリア」は、彼女の精神状態に応じて周囲の音環境を制御する。


 ノイズが、静かにフェードアウトしていく。

 代わりに、微かに調整されたホワイトノイズが、彼女の集中を保っていた。


 目の前に広がるのは、自身の最新作「都市の呼吸」の音響マッピング。

 都市の中に埋もれた非言語的な感情を、音のレイヤーとして構成したインスタレーション作品だ。

 その最終調整のために、彼女は招かれていた――かつて音楽学校だった跡地に建てられた、最新鋭のデジタルアートギャラリー《レゾナンス》へ。


 その名前を聞いた瞬間から、胸の奥がざわついていた。

 忘れていたはずの記憶が、どこかでざらりと音を立てた気がした。


 《レゾナンス》――共鳴。

 そしてそこは、かつて響の両親が命を落とした、忌まわしい事故の現場でもあった。


 響には、あの日の記憶がほとんどない。

 メディアが「試験的音響システムの不具合」と報じた事故。だが、両親がなぜそこにいたのか、何をしていたのかは、記録にも残されていない。


「アリア。旧音楽学校と事故に関する情報を集めて」


「検索開始。結城健一様・美香様との関連情報も含めますか?」


 少しだけ、胸が詰まる。だが、頷いた。


「……含めて」


 検索結果が、ディスプレイに連なっていく。

 過剰な見出し、切り取られた映像、語るべきことのない人間たちの憶測。


 彼女が欲しいのは、「音」そのものだ。

 あの日、あの空間に鳴っていた“なにか”の痕跡。言葉ではない、残響。


数日後、響はようやく連絡を取る決意をした。

 相手は、高梨慧。元新聞記者にして、現在は都市伝説やデジタル事件を専門とするライターだった。


 《はじめまして。あなたのブログで、旧音楽学校の事故に触れているのを拝見しました。

 結城響と申します。私は、その事故で両親を亡くしました。話を聞かせていただけませんか》


 SNSで送ったメッセージに、返答は早かった。


《……君が“その響”か。正直、驚いたよ。

 あの事故の生存者が、自分から連絡をくれるなんて思ってなかった》


 オンラインでの通話は、最初から緊迫感に包まれていた。


「先に確認するけど、君は今、レゾナンスに関わってるのか?」


「ええ。私の作品が展示されています。《残響の間》で」


「……じゃあ、すでに見たかもしれないな。あの“異常な音”。まるで、亡霊みたいな波動を持った音を」


 慧の声には、恐怖と興奮が混ざっていた。


「僕はずっと調べてきた。あの事故は、ただの技術トラブルじゃなかった。

 旧音楽学校の中では、ある実験が行われていた。それが、《情動共鳴音響》という技術だった」


「……感情を音にする?」


「そう。ある女性の脳波、心拍、感情パターンを、AIで“音”として定量化しようとした。

 それを空間全体に共鳴させる実験だった。被験者は、当時、神崎零にとって――特別な存在だった」


「彼女……は?」


「事故で死亡した。でも、死に方が不自然すぎる。最後に彼女が弾いたピアノの録音データが残ってる。

 それはただの演奏じゃない。“叫び”に近い、壊れた感情そのものだったよ」


 慧が送ってきた当時の記録映像には、確かに存在していた。


 黒髪の女性。鍵盤に指を置いた瞬間、周囲の配線が暴れ、照明が明滅し始める。

 そこに、零が近づいていく。彼は彼女の名を呼び、手を伸ばす――しかし、彼女はその手を振り払う。


 「私を音にしないで……!」という声。


 次の瞬間、彼女は《システムの核》に、自らの身体を重ねた。


 映像はそこで切れていた。


 響の手が震えていた。

 その女性は、どこか懐かしく思えた。そして、あの残響の間で聞いた旋律――それは、彼女が最後に奏でた曲と酷似していた。


 アリアが言った。


「ヒビキ様、脳波と感情波形に異常な共鳴が発生しています。

 過去の音響データと、あなたの記憶が、同期を開始しようとしています」


「……どうして」


 彼女の脳裏に、過去の断片が溢れ出す。


 事故の日。五歳の自分が、廊下に座っていた。

 その扉の向こうに、ピアノの音。

 扉の隙間から覗いた先にいたのは――あの女性。そして、若き日の零。


 二人の間には、説明できないほど強い“何か”があった。


 響の両親が止めようとした瞬間、システムが暴走する。


 音が暴れ、部屋が歪み、叫びが響く。

 そして――光に包まれた空間で、響は彼女と視線を交わしていた。


「あの人は……最後に、私を見たんだ」


 アリアが警告する。


「オラクル・システムが再起動しました。神崎零の意図によるものと思われます」


 響は立ち上がった。すべての断片が繋がった。

 そして、彼女は決めた。


「アリア。私の作品、《都市の呼吸》をインターフェースにリンクして。

 この“狂気の共鳴”に、別の音をぶつける」


「了解しました。作品データを再構成。オラクルへの転送準備完了」


 《残響の間》へ向かう足音は、静かだが確かなリズムを刻んでいた。


〜 過去の調律〜


 《残響の間》――その名の通り、空間の端々に“音”が潜んでいた。

 ホールの中央に鎮座するのは、漆黒のピアノのようなオブジェ。だが、鍵盤はなく、表面には発光する回路が螺旋状に広がっていた。


「あれは、AI統合型音響システム《オラクル》です」

 傍らでそう告げたのは、ギャラリー主任の神崎零だった。


「人の感情波形、脳波、視線情報を音響に変換し、空間に拡張する装置です。あなたの作品と非常に相性が良いと思いまして」


 完璧な説明。そして完璧な笑み。

 だが響は、その笑顔の下に、どこか計算された「沈黙」を感じていた。


 そして次の瞬間――


「警告。異常な音波を検知。超音波領域でのノイズを確認。構造的整合性に危険あり」


 アリアの冷静な声が、耳元で震えた。


 視界の端に、白いノイズが走る。

 響の周囲に、透明な“何か”が波紋のように揺れた。


 見えたのは、制服姿の少女。

 揺れる髪、古い廊下、割れた窓。


 そして聞こえたのは、ピアノの不協和音。

 痛みすら伴う、刺すような高音だった。


「……大丈夫ですか?」


 零が、まるで見透かしたように声をかけてくる。

 その視線は、冷静すぎて不自然だった。


 ――この空間には、何かが“いる”。


「アリア、さっきのノイズ。再解析して」

「解析中……パターン一致。旧音楽学校事故当時の音響実験記録と酷似」


 響の手は、知らず震えていた。


〜再現される感情〜


 響は、慧から得た情報と、アリアの解析結果、そして自分自身のフラッシュバックが全て繋がったのを感じた。


 神崎零は、あの事故の当事者だった。そして、彼が愛していたのは、あの事故で命を落とした、響の母だったのだ。彼女の母は、零の恋人であり、情動共鳴音響システムの中心人物だった。零の目的は、愛する女性――つまり響の母――の感情と記憶を、この《オラクル》を使って完全に再現することだったのだ。


 零は、響に一歩、また一歩と近づいてきた。

「君の聴いた“音の残滓”こそ、愛の証明だ。彼女は、このシステムに『同化』したんだ。私は、それを完璧なものにしてやる。感情も、記憶も、そして彼女の愛も、全てを。そして、二度と私から離れないように」


 彼の目に宿るのは、狂気にも似た執着。

「君は、幼い頃、あの事故の場にいた。君の両親は、彼女の『情動共鳴音響』の研究を支援していた。君は、彼女のピアノを、その耳で直接聞いていた。君の記憶の奥底には、彼女の音と、感情の『残滓』が残されている。そして、君は今、彼女と同じ周波数に共鳴し始めている!君の感受性と血縁こそが、彼女の“再構成”に必要だ」


 零がそう言い放つと、《オラクル》が鈍い唸り声を上げ、その黒い表面に無数の光の筋が走った。まるで心臓が脈打つかのように、部屋全体が共鳴音で震え始める。


 「ヒビキ様、緊急事態です! 《オラクル》が、ヒビキ様の脳波パターンと完全に同期しようとしています! このままでは、ヒビキ様の意識が《オラクル》に吸い込まれてしまいます!」アリアが、かつてないほど緊迫した警告を発した。


 響の全身に、言いようのない感情が流れ込んできた。それは、母の悲しみ、零の狂おしいほどの執着。頭が割れそうに痛み、視界が二重になった。目の前には、血のように赤黒い染みが広がる壁、そして狂気に歪む母の顔が、ARではない現実のように浮かび上がった。


〜静寂のレクイエム〜


 「私は……負けない!」響は、震える手でアリアに指示を出す。「アリア、私の作品、《都市の呼吸》の全データを、《オラクル》にアップロードして! 全てのノイズを抽出し、再構築して!」


 「危険です! システムが衝突し、ギャラリー全体が崩壊する可能性があります!」アリアが叫んだ。


 「構わない! やって!」響は決意した。この狂気を終わらせる。


 響は、自身の音響感性を研ぎ澄ませた。彼女の作品「都市の呼吸」は、都市に潜む無数のノイズ、つまり「歪み」を、新たな「秩序」として再構築するものだった。それは、かつて母の感情を増幅させ、狂気に陥れた「情動共鳴音響」とは、真逆のアプローチだった。


 《オラクル》のオブジェに、響の作品データが光の奔流となって流れ込んでいく。同時に、ギャラリー全体に、無数のノイズが響き渡った。それは、デジタル化された都市の鼓動、人々の囁き、失われた記憶の断片、そして、母の苦しみと、零の狂気を内包した音だった。


 零は、響の行動に驚愕し、苦しみにもがき始めた。彼の周囲に、あの女性――響の母の怨念が、より鮮明なAR映像となって現れ、彼を責めるように囁いた。「裏切り者……」「なぜ私を解放しない……」。


 「やめろ! 彼女は私のものだ! 誰にも渡さない!」零は、錯乱して《オラクル》に手を伸ばした。しかし、彼の指は、オブジェに触れる寸前で止められた。


 ギャラリー全体が、響の奏でる音で満たされた。それは、かつて「情動共鳴音響」が暴走した時の破壊的な音とは異なり、混沌の中から生まれる、新たな調和の音だった。響の音は、零の執着を解き放つかのように、母の魂を慰めるかのように、空間に広がっていく。


 AR映像の母の姿は、苦痛の表情から、次第に安らかな微笑へと変わっていった。そして、彼女は、静かに零に手を差し伸べた。


 零の全身から力が抜け落ちた。彼の目から、一筋の涙が流れ落ちる。彼は、母のAR映像に手を伸ばし、そして、静かにその場に倒れ込んだ。彼の顔には、狂気ではなく、深い疲労と、ようやく安堵したかのような表情が浮かんでいた。彼の心から、母への「再現欲求」が、ようやく消え去ったかのようだった。


 母のAR映像は、響に向かって、静かに頭を下げた。そして、光の粒子となって、空間に溶けていった。


 《オラクル》の青白い光が、ゆっくりと消えていく。激しかった共鳴音も、次第に静まり、ギャラリーには、心地よい、微かな「残響」だけが残された。


 その時、響の耳元で、アリアが微かな音を拾った。それは、ノイズの中から抽出された、ある音声データだった。アリアはそれを、響のイヤホンに直接流した。


 「――レイ、このままじゃ響も――」


 それは、紛れもなく、響の母親の声だった。事故の瞬間に、母が零に語りかけた最後の言葉。母は、自分ではなく、幼い響の身を案じていたのだ。そして、零がその真実から目を背け、母親の愛を歪んだ形で再現しようとしていたことが明らかになった。


 「ヒビキ様、システムは安定しました。全ての危険は解除されました」。アリアの声が、響の耳元で安堵と共に響いた。


 響は、その場に座り込んだ零を見つめた。彼は、意識を失っているようだった。もはや、あの完璧で冷たいキュレーターの面影はどこにもない。ただ、愛する者を求め続け、その愛を歪ませてしまった、哀れな男の姿がそこにあった。


 ギャラリーの奥から、駆けつけた高梨慧の足音が聞こえた。彼は、惨状を見て息を呑んだが、響と零の無事を確認すると、安堵の表情を見せた。


 「君がやったのか……響。あのノイズは、これで……」慧は、響の作品が、あの悲劇的な過去を終わらせたことを理解したようだった。彼は、この「音の真実」を、いずれ記事にするだろう。


 響は、ゆっくりと立ち上がった。彼女の耳には、もはや不気味なノイズは聞こえない。代わりに聞こえるのは、都市の穏やかな呼吸と、そして、かすかに残る、あの母の「愛のレクイエム」の、清らかなメロディーだった。それは、もはや悲劇の音ではなかった。過去を乗り越え、未来へと繋ぐ、静かな**シンフォニー・オブ・サイレンス**だった。


 響は知っていた。過去の記憶は、デジタルデータとして、永遠に消えることはない。しかし、その記憶に、どのような「音」を与えるかは、私たち自身の選択にかかっているのだと。**デジタル化された感情の残滓**は、狂気にも、癒しにもなり得る。**AIと人間の「感情理解」のギャップ**は、時に恐怖を生むが、それを乗り越えるのもまた人間の力なのだ。


 彼女は、ギャラリーの出口へと向かった。アリアは、彼女の耳元で、そっと囁いた。


 「ヒビキ様、現在の精神状態は極めて安定しています。集中度も100%に回復しました。素晴らしい音を、ありがとうございました」。


 響は、アリアに微笑みかけた。そして、「静寂こそが、最後の愛だったのかもしれない」と、心の中で呟いた。彼女の心には、過去の残響を乗り越えた、静かで、確かな「調和」が響いていた。


(完)

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