第1章「詩音の嘘」
春の風が、制服の裾を軽やかに揺らす。卒業式を数日後に控えた昼下がり、校庭は、準備に追われる生徒たちのざわめきで満ちていた。そんな中、私は、校舎裏の静かなベンチに腰掛け、黙ってスマホの画面を見つめていた。
“通知”は、もう来ていない。それでも、毎晩、午前三時になると、胸がざわめく。スマホが震える気がして目を覚ますが、そこに通知は表示されていない。
──あれ以来、何も変わっていないようで、確実に何かが変わってしまった。
そんな曖昧な焦燥の中にいると、足音が近づいてきた。
「ねえ、あかり」
振り返ると、詩音が立っていた。いつものように軽やかな笑顔……ではなく、少しだけ伏し目がちで、不安げな面持ち。
「ちょっと、話したいことがあって……」
詩音が真剣な顔をするなんて、滅多にない。
私が頷くと、彼女は隣に腰を下ろした。そして、スマートウォッチを外し、手のひらの上でじっと見つめる。
「実はさ……あの“通知”、私も前に受け取ったことあるの」
心臓が跳ねた。
思いがけない告白に、私は言葉を失った。
「ちょうど一年前くらい。ううん、正確には、去年の卒業式の頃かな。夜中に、スマホに“午前三時の通知”が届いてさ。しかも、差出人不明で……内容は、『お前は、誰の記憶に残るのか』って」
その言葉が、私の中で不気味な反響を生む。あの夜、私が見た“黒い影のアイコン”と、同じ類の存在が、詩音にも接触していたのか。
「そのときは怖くて、すぐスマホを初期化して……何もなかったことにした。でも……あかりが“同じ通知”を見たって聞いて、どうしても放っておけなくて」
「じゃあ、ずっと黙ってたの?」
問いかける私の声には、少しだけ責める響きが混じっていたかもしれない。
けれど、詩音は俯いて、小さく頷いた。
「ごめん。本当は、もっと早く言うべきだった。でも、忘れたふりしてたんだ。あの夜のことも、通知のことも、全部……だって、怖かったから」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。
この不思議な現象は、私だけに起こっているわけじゃない。詩音にも、そしてきっと他にも……“記録されなかった記憶”に触れてしまった人たちがいる。
詩音は、そんな「交信者」のひとりだった。
「その通知、もう来てないの?」
「うん。初期化してからは。でもね……最近また、スマートウォッチの挙動が変なの。夜中にアラームが鳴ったり、アプリが勝手に開いたり。もしかして……って思って」
私は無意識に、自分のスマホを握りしめていた。
午前三時の通知。
もう一人の私。
記録されなかった彼。
全てが繋がっているとしたら──その先に、何が待っているのか。
そのとき、ふとスマホの画面が明るくなった。
画面に表示されたのは、白いアイコン。
──通知:03:00 新着メッセージ(差出人不明)
本文:『次は、“廃園”』
その言葉に、全身が粟立った。
“廃園”──それが、次の舞台だ。
私は立ち上がり、詩音の手を握った。
「……行ってみよう、詩音。今度は、ふたりで」
彼女は驚いたような顔をした後、少しだけ微笑んで、頷いた。
ふたりの足音が、春の風に溶けていく。
“記憶の空白”を辿る、新たな扉が、静かに開かれようとしていた。
第2章 廃園の扉
その夜、私は眠れなかった。
天井の隅を見つめながら、何度も自問する。
詩音のあの言葉は、どういう意味だったのか。
「全部、嘘だよ」──そう笑った彼女の顔が、焼き付いて離れない。
親友として過ごしてきた日々、支え合った思い出、ふざけ合った会話の数々。
あれも、全部“演技”だったというの?
いや、そんなはずない。詩音が嘘をつく理由なんて、あるはずがない。
でも――あの目だけは、本気だった。
午前二時をまわった頃、スマホがブルッと震えた。
寝ぼけた頭で画面を確認すると、またしても「差出人不明」の通知が届いていた。
──03:00 新着メッセージ(差出人不明)
本文:『残響は、廃園にて』
その一文を見た瞬間、身体中に鳥肌が立った。
“廃園”──それが意味する場所は、ひとつしかない。
市内のはずれにある、かつての植物園。
陽と過ごした温室のある場所。彼が最後に私を導いた、あの記憶の地。
まるで誰かに呼ばれているように、私は再び服を羽織り、スマホを握りしめて家を出た。
街灯の明かりがまばらな夜の道を、一人、音もなく歩く。
風は冷たく、湿った空気が肌をなぞるたびに、現実感が削られていく気がした。
──そこに、“まだ何か”が残っている。
植物園の前にたどり着くと、門は開いたままだった。
以前訪れたときには、鍵がかかっていたはずなのに。
それどころか、門の隙間からは淡い光が漏れていた。
私は、ゆっくりとその中へ足を踏み入れる。
かつて遊歩道だった場所は、荒れ果てていた。
割れたアスファルトの隙間から雑草が顔を覗かせ、放置されたベンチには錆が浮いていた。
それでも、どこか懐かしさを感じてしまうのは、あの温室の記憶がまだ胸に残っているからだろう。
そして──私は見つけた。
温室の跡地。
今はもう屋根の一部が崩れ、ガラスもほとんどが割れてしまっている。
けれど、構造の一部は奇跡的に残っていて、かつてここが“花の楽園”だったことを、かすかに思い出させる。
その扉の前で、誰かが立っていた。
黒いフードを被った、その人影は──詩音だった。
「……来たんだね、あかり」
その声に、私は一瞬、足を止めた。
それは確かに詩音の声だった。けれど、どこか違う。
優しさも、軽やかさも、あの明るいテンションもなかった。
「どういうこと……? なんでここに……」
問いかけると、詩音は振り返った。
月明かりに照らされた彼女の瞳は、まるで鏡のように澄んでいて、けれどその奥に、私の知らない“もう一人の詩音”がいた。
「ここはね、君が“選ばなかったすべて”が流れ着く場所なんだって」
「……え?」
私は理解が追いつかなかった。
言葉の意味が、まるで霧に包まれているように曖昧で、掴めない。
「私もね、君と同じように“選ばれなかった側”だったんだよ」
その一言が、心臓を突き刺すように響いた。
「詩音……それって……」
「私は、彼の“もう一つの世界”での親友だった。陽の隣で、ずっと君を見てた。“そっちの君”は、少しだけ私に冷たくて、でもそれでもいいと思ってた。君が幸せなら、それでいいって思ってたんだよ」
詩音は静かに笑った。だけどその笑みは、どこか歪んでいた。
「でも──彼がいなくなってから、私は何も残らなくなった。“私”という存在さえ、君たちの記憶の中から消えてしまった。ねぇ、あかり。“選ばれなかった記憶”って、どうなると思う?」
私は、答えられなかった。
「この“廃園”はね、忘れられた記憶たちが最後にたどり着く場所なんだって。陽だけじゃない、私も、きっとその一部だった」
「待って、それって……私が忘れてたってこと?」
「ううん。君が“選んだ”から。君が今の世界を選んだから、“こっちの私”は消えていった。でもね、それが悪いって言ってるんじゃない。ただ……知ってほしかっただけ」
詩音の声が、風に乗って揺れる。
「私がここにいるってことだけでも、君の中に残っててくれたら、それで、いいんだ」
その瞬間、スマホが震えた。
──通知:03:03 新着メッセージ(差出人不明)
本文:『扉は、開かれた』
目を上げると、温室の扉がゆっくりと開いていく。
中からは、淡い光が漏れ、風が草の香りを運んできた。
詩音は微笑んだまま、そっと言った。
「さぁ、行って。あなたを待ってる“誰か”が、この先にいるよ」
私は一歩、扉の向こうへと踏み出した。
廃園の奥へ──忘却された“記憶の源”へ。
第3章 記憶の泉にて
温室の扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
夜の冷たさが和らぎ、ほんのりと湿った空気が肌を撫でる。花の香り……いや、記憶の香りが漂っている気がした。目の前に広がるのは、確かに“廃墟の温室”のはずだった。
けれど──そこに広がっていたのは、失われた記憶が色濃く息づく楽園だった。
ガラスの屋根はひとつ残らず元の姿に戻り、床には花々が咲き乱れ、壁面を蔦が優しく這っていた。どこからか湧き上がるように光が差し込み、温かな輝きが空間を包んでいる。
そして、その中央に、それはあった。
──記憶の泉。
透明な水を湛えた小さな泉が、まるでこの世界の中心かのように静かに湧いていた。
私は、自然とその縁に歩み寄る。水面を覗き込むと、そこには──無数の映像が揺らめいていた。
誰かの笑顔、涙、声、触れ合い、離別、再会。
それらは、記憶の断片だ。それぞれが、誰かの人生のワンシーンであり、同時に“もう誰にも思い出されなくなった瞬間”たち。
泉の表面に、ふと知っている顔が浮かんだ。
──陽。
彼が笑っていた。誰かと話していた。けれど、その隣にいたのは、私ではなかった。
陽の隣にいたのは、もう一人の“あかり”。
温室の映像とは違う。そこには、もうひとつの時間軸の中で、違う道を歩んだ私がいた。彼女は、私と似ていて、でも決定的に違う。その“あかり”は、陽の未来を共に生きるはずだった存在。
彼女は言葉を発さず、ただ静かに陽の横顔を見つめていた。
その視線に、愛情と哀しみが同時に込められていた。
──まるで、最初から結末を知っている物語の登場人物のように。
私は、手を伸ばした。
泉の水に触れたその瞬間──
視界が反転した。
私は、あの日にいた。
あの温室で、陽が白いシャツの袖をまくりながら、植物の世話をしている光景。
その傍らで、私は彼に笑いかけていた。
──いや、違う。“私”ではない。もう一人のあかり。
私は、彼女の記憶の中にいる。
その視線、その心音、その笑みの温度。すべてが、私に流れ込んでくる。
彼女がどんな想いで陽を見ていたのか。
どれほど深く、どれほど強く、彼を想っていたのか。
──「あかり」。
そう呼ぶ声が、すぐ隣で響く。
彼の声だ。
私は振り向く。そこにいたのは、まだ記憶の中で生きている“陽”。
「ねえ、もしさ。ある日突然、全部が夢だったって言われたら、どうする?」
「え……?」
陽は笑っていた。冗談のように、でもどこか真剣な眼差しで。
「例えば、この温室も、君も、僕も、誰かの記憶の中にしか存在しない世界だったら……君は、それでも、僕といたことを信じてくれる?」
私は──もう一人のあかりは、何も言えなかった。
ただ、うなずいた。
その沈黙こそが、最大の肯定だった。
視界が、徐々に薄れていく。
映像が、記憶が、音が、色が、私から離れていく。
目を開けると、私は再び泉の前に立っていた。
胸が苦しかった。
言葉にできない感情が、喉の奥に詰まっていた。
彼と過ごしたもう一つの時間。
私が知らなかった私。
そして、その“私”が失ったもの。
ふと、泉の奥に、別の影が映った。
それは、詩音だった。
彼女もまた、そこにいた。
同じ泉を見つめ、同じ記憶を辿り、同じ痛みを抱えていた。
「……見えた?」
どこからか、声がした。
その声は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。
私は、頷いた。
「全部、見えたよ」
そして私は、そっと呟いた。
「ありがとう、詩音。私、ようやく……わかった気がする。私がここにいる意味も、あなたがここにいる理由も」
泉の中で、再び光が揺れた。
それは、再生ではなく──告別の光だった。
“記録されなかった記憶”に、静かに幕が降りようとしていた。
私は、ここから歩き出さなければならない。
選ばなかった未来と、選んだ現在。
その両方を胸に刻んだまま──私は、私の明日へ向かって。