かつて、青藍の瞳を持つ紺髪の少年がいた。
穏やかな心を持つ彼は、人間たちに捕らえられ、禁術によって「青龍」へと変えられてしまう。
その身は重い鎖と封印術で縛られ、誰も近づかぬ深き洞窟へ閉じ込められた。
──長い、長い時が流れる。
外の世界の光も音も届かぬ洞窟の奥で、青龍はずっと待っていた。
誰かが自分を倒し、武具としてこの洞窟から連れ出してくれる日を。
やがて、一人の男が洞窟へ足を踏み入れた。
漆黒の髪、紅の瞳を持つその冒険者は、あらゆる力を極めた者。
青龍はその気配に驚き、警戒するも、すぐに頭を垂れた。
「殺してください。そして、貴方の武具にしてください」
声は届かなかった。
冒険者には龍の言葉は理解できなかったのだ。
敵意のない龍の姿を前にして、冒険者は剣を振るうことをためらい、立ち去ろうと背を向けた。
強き者の大きな背中が、遠のいていく。
──この機を逃せば、もう……
龍は必死に叫んだ。届かぬ声と知りながら。懇願するように。
洞窟に、龍の叫び声が響く。
「どうか……お願いです」
耳をつんざくように響く龍の声。
冒険者が振り向くと、低く低く頭を下げた龍の姿があった。
その姿に、冒険者はなぜか「倒すべきだ」と感じた。
──敵ではない。だが、この龍を倒す必要がある。
冒険者は剣を振るい、青龍を倒した。
すると、眩い光とともに、青龍は一つの指輪へと姿を変えた。
澄んだ蒼い宝石があしらわれた美しい指輪だった。冒険者はそっと拾い上げ、指にはめた。
これが青龍の新たな人生の始まりだった。
指輪となった青龍は、冒険者の指に身を預け、初めて見る世界に心を躍らせていた。
市場の賑わい、鳥のさえずり、焚き火の音が響いてくる。夜の街のあたたかな光に、朝日に照らされた海の香り。
閉ざされた洞窟では決して感じることのなかった、生きた世界の音と光、匂いがある。
(……とても綺麗)
ある日、冒険者が街角の屋台で焼きたてのパイを買って、嬉しそうにかぶりついた。
香ばしい匂いに包まれながら、思わず頬を緩める主の顔を指輪はじっと見つめていた。
(……なんて、美味しそうに……)
その表情に、青龍は胸の奥が温かくなるのを感じていた。
「共に生きている」と思えた瞬間だった。
それからというもの、冒険の合間に見せる主のささやかな笑顔や、ちょっとした失敗に誤魔化しながら笑う姿も、どれひとつと見逃さなかった。
主の全てが、笑顔が、青龍にとっては宝物のような光景だった。
(……あなたが笑うと、私も楽しい)
かつて人であった龍は、今や武具として、冒険者のすぐそばにいる。
楽しい毎日を過ごし、青龍はとても幸せだった。
しかし。
冒険者は日々、戦う。
幾度もの戦いを共にくぐり抜けた。
そこで指輪は数え切れぬほどの主の傷を目にした。
けれど自分は、ただの指輪。
この姿では、彼を守ることができないのだ。
主が深手を負うたびに、龍の心は震えた。
もっと貴方の力になりたい──そう願った。
ある日。
敵が異常なほどに強すぎた。
冒険者は深手の傷を負い、戦場に倒れてしまう。
──このままでは、危ない。
(守りたい……もっと、傍で支えたい)
龍は、深く強く、そう願った。
その祈りに呼応するように、青龍の魂が震え、熱を帯びていく。
長い時の中で蓄えてきた力が、溢れ出した。
(守りたい……もっと、傍で支えたい)
青龍は、深く、強く、祈るように願った。
(どうか……!)
蒼い光が辺り一帯を照らす。龍が気づいた時、既に姿を変えていた。
指輪に宿った龍の心が形を成し、美しい一枚の盾となったのだ
輝く龍の鱗の中に、小さな蒼い宝石がひとつ。それらは上品に煌めいている。
盾にしてはあまりにも繊細な装飾だった。
「あなたの特別な盾でありたい」という青龍の思いが、無意識に現れてしまったのかもしれない。
──これで、主を守ることができる。
冒険者は盾を見て目を見開いていた。
青龍──盾は主に見つめられ、中心が熱くなるのを感じた。
だが、見つめ合っている場合ではない。
敵はまだ倒していないのだ。
冒険者は盾を手にすると、立ち上がった。
そう、共に、敵を倒すのだ。
この盾は冒険者の手に不思議なほどに自然に馴染んだ。
まるで初めから、こうなることが決まっていたかのようで、戦いの最中にも主の驚きが盾に伝わる。
盾は、思わず笑みを漏らした。
(ふふ……私は……貴方の盾ですから……)
斬撃が飛び交う戦場。
金属音が耳を打つ。
敵の攻撃は容赦がなかった。
盾を叩き、突いてくる。
その度に、盾は傷ついた。
擦れて、打たれて、削られて。
だが、それでも構わなかった。
(私が貴方を守りたいのだから……)
敵の攻撃は鋭く激しかったが、盾にとっては、どれもかすり傷程度に小さなもの。
(この程度、痛くも、苦しくもない)
痛みを感じないほどに、盾の心は高ぶっていた。
そして見事、冒険者は勝利を収める。
(お役に立てた……)
青龍はこの日、盾となり、これが初めての戦いとなった。指輪だった頃よりも、はるかに幸せを感じていた。
戦いを終えて。
森を抜け、風通しの良い野原にいる。
木漏れ日の気持ちいいこの場所で、少しばかり休んでいた。
木の幹に背を預けて座る冒険者の傍らに、盾は静かに置かれている。
あたたかく柔らかな風を感じながら、盾は主を見つめていた。
ふと、手が伸びてくる。
そっと抱きかかえられ、膝の上に置かれた。
「……美しいな」
優しい響きが降ってきた。
青龍の心が、ぶわりと浮き立つ。
冷たい金属の中にいるはずなのに、とても熱く感じてしまう。
蒼い石がきらりと光った。
この気持ちを、どう処理してよいのか分からない。
(……あの……えっと)
「傷が付いてしまった……」
冒険者の手が、そっと表面に触れる。
(……っ……!)
思わず、震えた。
(……こんなにも……私は……)
主の手が、盾を優しく撫で始める。
(ぇ……ぁ、まだ、心の準備が……)
これは、ただの手入れである。
しかし、青龍にはあまりにも心地の良いもの。
まるで肌に直接触れられているような、そんな感覚だ。
くすぐったさと嬉しさが混ざり合い、どうしようもなく戸惑う。
ここで、盾を磨くための布がどこからともなく現れ、それはゆっくりと縁を滑り始める。
時折、きゅっ、きゅう……と音を立てながら。
(あ……って、そんなところまで……)
「んっ……」
声など出ないはずなのに。
“音にならない声”が、いや、“声にならない音”がこぼれてしまう。
恥ずかしさに、盾は震えた──小さな微振動。
主の手が、鱗のひとつひとつを丁寧に撫でる。
ぞくりと背筋に刺激が走った。
「っ……ん、……待っ……て……ぁっ」
冒険者の手のひらが、指が。
布越しでも熱が伝わってくる。
何度も何度も、優しく、軽やかに触れてくる。
盾は堪えきれずに身を捩った。いや、実際には身を捩ることはできなくて。
盾の内側で、なんとなくそんな気持ちになっていた。
手入れの最後に、また優しい響きが降ってくる。
「これからも、共に戦ってくれるか」
この上ない幸せだ。もちろんです、と盾は心を込めて答えていた。
青い宝石がきらりと光る。
盾はこの優しい主とともに、新しい冒険の旅に出る──。
まだ見ぬ世界に心躍らせながら。