山のふもとの小さな港町の隅っこに、一軒の揚げ屋がある。
船乗りや旅人を相手に、男と女の本音と建て前が、二つながら交わる場所。
空には満天の星があって、見上げる窓ガラスごしにもよく見えた。 「…いっそ、あたしと逃げて下さいな」
屏風に描かれた桜の花びらがぼんやりと灯りに浮かんで、窓の隙間からの寒い風にもこそとも揺れず、夢見心地でいる。
真っ赤な蒲団の中で白い肌と黒い髪が映える。
「あたしがいいとおっしゃってくだすったじゃないですか」
今夜のアキの客は、客というには心を入れすぎて、
「仕事があるのさ、どうにもならん」
そんなつれない答えでも、返ってくるだけでとろけそうな気持ちになる。
「そんな事言って、あければまたあのお大尽のところに寄りっぱなしのくせに」
「しがないゴロツキをここまで立ち直らせてくれた恩のあるひとさ、裏切れんよ」
「…お嬢様と祝言あげるそうじゃない」
客はアキの言葉にふふ、とため息のように笑った。
「金と仕事のためさ。ずっと心はお前のものだよ」
「まあ、信じていいのかしら」
「大きい仕事の後は必ずお前に逢ってきた、それは信用できないのかい」
「…今夜だけは、信じてあげようかしらねぇ」
アキがこの揚げ屋に、山里の食い扶持を減らすために身売りされてきてもうずいぶんになる。
二十歳も過ぎたのも何年前か。
「タケさん、雪じゃないかしら」
憎い事を言う今夜の客に当てつけるように、窓をあける。風と一緒に白いものが吹き込んできて、明かりが寒そうに震えた。
「ね、タケさん」
客も起き上がって、キセルにタバコをつめる。明かりにキセルをかざして火をつけようとしたが、アキはそれを押しとどめた。
「ダメよ、タバコは」
「どうして」
「タケさんには似合わないわ。なんだか御隠居みたい。あたしより若いのに」
「三つぐらい」
タケさんと呼ばれた客はそういいながら、アキをもう一度蒲団の中に抱き込んだ。
「タケさん、痛い」
アキはしばらく無邪気に布団の中ではしゃぐが、じきにおとなしく包まれて、
「…ね、タケさん」 と囁く。
「あたしと逃げてくださいな。いくらそこに心がないと言ったって、他の女と一緒にいるタケさんなんて見たくない」
「…」
タケさんは、今度はマッチを取り出して、キセルに火をつけた。苦い顔で一服する。
「じゃあ、春になったら旅に出ようか」
「たび?」
「この街を過ぎる桜の波と一緒に…北に…一月でも二月でも」
「本当? …うれしい」
タケさんが任されている船会社の仕事に、そんな長く休みなど取れるものではないことは、アキにはわかっている。
その場に楽しさを添える虚実ないまぜの言葉が、この部屋では彩りであり、空気にとけるほどたくさん交わされてきた。
「タバコはとがめないのか」
「今は嬉しいからいいわ」
「なんだかねぇ」 タケさんはキセルの中を吸い果てると、伸び上がってから明かりを消し、アキを抱き寄せる。
夜はまだ、二人が一つに蕩けあうには十分すぎる程長かった。
揚げ屋にいい身なりをした御婦人がやってきて、アキに用があるらしい。
アキ以外の女達は、座敷のふすまを細く開けた前に鈴なりになって、中の様子を伺っている。
そこからは背を向けてみえるアキと差し向いの御婦人は若く作って三十絡みに見せているといったところで、化粧のおかげか少々派手な印象を受けた。
「ここまで私がわざわざやってきた理由はもう分かっていると思うけれども」
そういう御婦人の顔を、アキはしんねりと見ている。この御婦人は、タケさんが一緒になると言う、この港を仕切る船会社の娘の母親なのだ。
噂によればこの御婦人は後妻だが、なさぬ仲の娘はこの御婦人によく懐いているらしい。
「タケさんと別れて下さる?」
「え?」
「娘の婿になるひとに、こんな女がいるとは、世間に対して申し訳ないですからね」
「あたしがいたら邪魔ですか」
「邪魔じゃなかったら、わざわざ、こんな場所にまで来ません」
「別にかまわないじゃない。タケさんは仕事のためにいやいやお嬢様といっしょになるんだし。その足りない分をあたしが引き受けるんだ、悪いことじゃないよ。
タケさんには、お嬢様との子供作る分は残せっていうよ、それでいいでしょ」
「ま」
御婦人は顔を真っ白にして激高した。
「なんといおうとも、タケさんは別れていただきます。娘の一生の大事にこんな傷が残ったままでいい事なんてありませんからね」
そして、手提げの中から、投げるように紙切れを出す。白紙の小切手らしい。
「好きなだけ金額を書き込みなさい。…もっとも、あなたに字が書けるなら」
アキはそれを突っぱねようとしたが、
「…たしかに、渡しましたからね」
御婦人はそれも見ずに荒々しく部屋を出ていく。
「…」
アキはその後ろ姿を黙って見送ったが、ふすまの向こう側で一部始終を見ていた誰彼が、
「なにさ、ひと昔前まではここでおんなじ仕事してたくせに」
「あのお大尽に見初められて、あんな御婦人風ふかせて、まぁ」
「道でも挨拶なんてしやしない」
とつぶやきながら去ってゆく。それも聞き流しながら、アキは小切手をくしゃくしゃと丸めて、そばの火鉢に放り込んだ。
炭にいぶされてふつふつと立つ煙りはとうとう小さな炎になって、薄暗い部屋を一瞬明るくした。
タケさんはそれからしばらくこなくなった。港では、荷物の積み下ろしが忙しい。近くの大きい港が、冬の嵐で壊れてしまったのだそうだ。タケさんがいる船会社は、かわりに、そこでの仕事を請け負ったらしい。きっと、忙殺されながらも笑いは止まらないのだろう。
その忙しさの合間を縫うようにして、タケさんの結婚の知らせもはいってきた。馬車を雇って、街中を派手に練り歩いたらしい。もっとも、籠の鳥のアキには、見る事すら許されなったが。
「いやあ、あれは今までにない立派な祝言だった」
その夜来た客はそう唸ったが、そんな客をアキはとことんつれなくあしらった。もうあの客は来ないだろう。
「タケさん、あたしのとの約束、覚えているかしら」
タケさんがまたやってくるようになったのは、この祝言の日から半月も立たない時のことだった。
冬の嵐の棚ぼたで増えた資金をもっと増やそうと、船会社の社長は危険な取り引きに手を出して、危惧通りに失敗をしたのだ。
資金は増えるどころか、増えるだろう資金を当てにして起こした新事業も波に乗らず、その借金を相殺するために田畑まで処分するらしい。
「旦那はもう半死人なんだよ。社員と奥様だけで何とかもっているようなものさ」
タケさんはため息を付いた。
「でも、何があっても、お前との約束だけは守るから」
「ほんと? うれしいわ」
アキはその言葉に素直に喜んだ。タケさんが通ってくれる口実に言ったのだと喜んだ。
いい夢を見た。どこともわからない桜色の中に、自分とタケさんがただよっていた。
「ね、タケさん」 目をさますと、タケさんが、隣のアキの気配に身じろぐ。惚れた男の寝顔は可愛いものだ。
「あたしとお嬢様と、どっちが可愛い?」 しかし、彼の意識はもうろうとしたままで答えなかった。
しかしとうとう、ある日、タケさんは悲鳴をあげるようにいった。
「奥様はなんて無茶をなさったんだ…!」
奥様は自分なりに、傾いた会社を何とかしようとしたらしい。だが、善人面して近付いてきた高利貸を信用してしまったがために、いまはその取り立てにおわれているらしい。
社長は、ちょっとした風邪を医者に見せてあげられないままになくなったとか、葬式が余りにも質素で、話を聞かないと、町のだれにも分からなかったそうだ。
「おれは奥様を守らなきゃいけないんだ、旦那が大事にした人なんだから」
「でしょうね」
タケさんは、長い事頭を抱えていた。店に来てアキと会ったはいいが、何もしないで帰って行った。
それがある日、アキと揚げ屋の主人の前に、どん、と、札束が置かれた。
「これでどうか、アキを俺に」 と、タケさんは頭を下げた。
「…」
出された二人は答えようがなく、やっと、アキが、
「タケさんは、それでいいの?」
と口を開いた。
「金策に、俺のものまで何でもかんでも全て売って、借金を何とかして、そして残ったのがこの金だ。
俺のものを売った、俺の金だ。
いつかあんたに聞いた年季からすれば、これだけあれば十分のはずだ。
俺が恩を感じてるのは、亡くなった旦那にだ、奥様じゃない。もう、あの人には愛想が尽きた。旦那の失敗を見てなかったのか…
お嬢様も、親を一人にはできないからと、そのまま」
主家へ最初で最後に刃向かったタケさんは言い切って、
「アキ」
と顔をあげた。
「隣の港に、桜が来た」
どこからか、店の外の暖かい風が入ってくる。なんとなく甘い芽吹きと若葉の香りがする。
港には、小さな客船が、アキ達を待っている。
荷物はふろしき包みが一つだけ、空いた片手はタケさんとしっかり握りあい、雪もほとんどなくなった港への道を歩く。
そして、俯いた若い女性がひとり、人買いらしい、人相にかげりのある男につれられていくのとすれちがう。
タケさんはそれに一瞥をくれるだけだったが、アキには、すぐにそれが彼の奥さんになったお嬢様だとわかった。振り向くと、その二人は、今アキが出てきたばかりの揚げ屋の中に入っていった。
そういえば、とアキは思い出していた。確か自分がここに来た時も、今日みたいな春のかけ出しの頃で、やっぱり、揚げ屋から出てくるこういこう人とすれ違ったのだ。
なるほど。確かにあれは、あの奥様だったのかも知れない。