「あれは、私が童貞だった頃です」
幹雄先輩が語り始めた。薄暗い照明が彼の顔に影を刺す。目の奥が鋭く光った。僕と宮城は、幹雄先輩を挟むようにして座り、神妙な面持ちで次の言葉を待っていた。
幹雄先輩は渋い。彼が座っていると、こんな大衆居酒屋でもドラマのワンシーンのような気がしてくる。年齢は僕の一つ上だが、先輩との間には人間としての深みがひどくある気がした。歳を重ねるごとに増していく陰影、それは恋愛経験の有無だけでは語れない何かがあった。僕たちが軽薄な学生生活を送っている間に、先輩は何か深い闇を覗き込んできたのだろうか。
カラン。先輩の持っているグラスが音を立てる。氷が溶けて、ハイボールの琥珀色が微かに薄くなっていた。
「とある紳士淑女の集まりに私は参加していました。男女共に3人ずつ。互いの知見と価値観を交換し、自己の魂を向上させる為に開かれた会合です」
合コンのことである。
「相手は大学生ですか?」
宮城が尋ねた。彼の声には期待と羨望が混じっていた。
「確か、学習院女子」
「学習院!」
宮城が声をあげた。居酒屋の他の客がちらりとこちらを見る。だが、僕も宮城と同じ気持ちだ。
「お嬢様大学じゃないですか!」
「かもしれません。実際、彼女たちの言動にはそのような雰囲気が漂っていました。気品があり、優雅で、そしてなによりもご両親を大事にしていた。なにせ全員門限が8時でしたから」
「それは」
言いかけた言葉を僕は飲み込む。『単にそれは脈が無かったんじゃないんですか?』。
だが、次に先輩の口から出てきた言葉は、僕の愚かな疑いをあっという間に砕いた。
「そして、その中の一人と後日会うことになりました」
「会えたんすか!?」
宮城の目が輝いた。僕も身を乗り出していた。合コンで出会った男女が本当にデートをすることがあるなんて!
「あの日は、そうですね。8月中旬の、うだるような日でした」
先輩は窓の外に目をやった。まだ肌寒い春の夜だというのに、まるでその日の熱を思い出しているかのように。
「我々が訪れたのは遊園地です。多摩地区にある、そう大きくはない遊園地。彼女の名前は優子さんと言いました。白いワンピースに麦わら帽子が似合う、美しい女性でした。『今日は宜しくお願いします』。私のところまで駆け寄ってきた彼女は深々とお辞儀をしました。ワンピースから覗く彼女の白い肌に、薄い唇に、私は見惚れてしまいました」
先輩の声に、微かな陶酔が混じった。僕と宮城は息を殺して聞き入っている。だが、先輩は続きを話そうとしない。
「やはり、止めておきましょう。失った恋を話すなんて野暮なことです」
「待ってくださいよ!」
宮城が声を上げた。
「ここでやめるなんて無いです!」
「僕も同感です。既に頭の中では優子さんの姿が形作られてしまっています」
先輩は口を閉じ、グラスを傾けた。
「そうですね。砂漠を歩き出した人間はオアシスを見つけなければならない」
意味は分かっていなかったが僕も宮城も強く頷いた。そうです、オアシスです!
「とにかく、彼女とのデートは素晴らしいものでした。メリーゴーランドでは子供のようにはしゃぎ、観覧車では静かに互いの好きなものを語り合いました。優子さんは何をしても上品で、それでいて無邪気で、一緒にいるだけで心が躍りました。私は何度も右ポケットの財布に手を当てました。もちろん、避妊具が入っていました」
当然だ。僕らが愛読する紳士向けの書物や動画では盛り上がった男女があらゆる場所で性行為に励む様子が描かれている。いつそんな展開になっても良いよう最善の準備を尽くす先輩に僕は痺れた。
「楽しい時間はあっという間に終わるものです。帰りは優子さんを送りました。その日、ご両親に無理を言って門限を伸ばしてもらったらしく、22時に家に着けば良いとのことでした。ただ、彼女の最寄駅に着いた時には21時30分を過ぎていました。それほどまでに彼女との時間は甘美だったのです。私は焦りました。万が一、優子さんがご両親に怒られてしまっては大変です。私はその時、彼女と結婚するイメージまで出来ていました」
当たり前だ。紳士たるものデートをするのならそれくらいの覚悟でなくては。
「私は優子さんについていきます。彼女の自宅の周りは薄暗いらしく、私は家の前まで彼女を送るつもりでした。5分ほど歩いたところで彼女が公園に入りました。そこを通るのが近道なのだと。公園から続く林道を抜け、薄暗い一画を我々は歩きました。古い樹木が月の光を遮り、菊の花の匂いが私の鼻腔を刺激したのを覚えています。時間は大丈夫だろうか。私がそう思ったまさにその時、彼女は足を止め、私に向き直るとこう言ったんです。『帰りたくない』」
「おお……」
宮城がごくりと唾を飲み込む。鼻息が荒い。
「それで? それで先輩は?」
「私は、首を横に振りました。そして彼女にこう告げたんです。『君は帰るべきだ』」
「あり得ない!」
宮城が立ち上がった。椅子が床に擦れる音が響く。
「女性にそこまで言わせて帰らせるなんて!」
「優子さんは?」
「彼女は悲しそうな表情を浮かべ、私の前から姿を消しました」
「当然だ!」
宮城がかぶりを振った。「もったいないことを」
「先輩」
僕は先輩に尋ねる。
「はい」
「8月の中旬、と言いましたよね。もしかして、お彼岸ですか?」
少しの間を置き、先輩は「ええ」と答えた。
「それって」
「そうです。あなたが想像した通りです」
「なんだよ、なんの話だ?」
先輩と優子さんは林道を通り抜けた先の薄暗い一画を歩いていた。そこでは菊の花の匂いがした。お彼岸の時期に菊の花といえば。
「優子さんが帰りたくないと言ったのは墓地だったんですね」
「はぁ?」
宮城が目をぱちくりとさせている。
「素晴らしい」
先輩は目を細め、僕を見ている。
「その通りです」
お盆の季節。死者がこの世に帰ってくると言われる時期。優子さんはこの世に留まり続けたいと先輩に伝えた。そして先輩に断られた彼女は。
「優子さんが先輩の前から姿を消したって言うのは
「比喩ではありません。文字通り最初からそこにいなかったかのように消えてなくなりました。呆然とする私のすぐ横には彼女の名前が刻まれた墓石だけが残っていました。
静寂が座敷を支配した。
「長々とつまらない話を申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそ」
「信じられない」
宮城はそう言うと目の前のジョッキを一気に飲み干した。
「ただ、今日の状況があの時と少しだけ似ていたので」
「あぁ、なるほど」
僕は周囲を見渡す。ここは6人用の座敷。僕と先輩と宮城は横並びに座っている。目の前の席は、他大学の女性3人が座るはずだった。ドタキャンである。
「お待たせしました」
店員がやってきて、山盛りポテトフライを置いていく。6人分。予めコースで予約している為、変更はできないらしい。
「これもまた、いつか良い思い出になります」
先輩は優しく笑うと、ポテトフライに手を伸ばした。