思わず「冗談だろ」と言ってしまった。いまどきそんな馬鹿な話があるかと笑おうともした。しかし、久しぶりに会った元父親の表情を見て本気なんだと悟った。
「五十年ぶりのしきたりなんだ。どうか承知してほしい」
やや年を取っても男振りの変わらない元父親が目の前で頭を下げている。その隣では母さんが「頭を上げて」と元父親の背中を撫でていた。寺の坊主ながら剃髪の必要がない白髪交じりの髪を揺らし、元父親が頭を上げる。
「どうか
再び告げられた言葉に、俺は膝に置いた両手をグッと握りしめた。
男が男の花嫁になる――それは平安時代から続く寺のしきたりなんだそうだ。どういう理由でそんな馬鹿げたしきたりができたのかは知らないが、今年は五十年に一度のしきたりの年らしい。しかも百五十年に一度の大事な節目の年でもあるのだという。
百五十年前なら、こうしたしきたりを行うのもわからなくない。きっと古い寺には守らなければいけない色々なことがあるのだろうし、寺を支えてくれる檀家や周囲の人たちの意見もあるだろう。伝統が長ければ長いほど、おかしいと思ってもやめられないしきたりなんかがあるのはよく聞くお約束だ。
しかし、いまは百五十年前でも五十年前でもない。道には自動車が走り、街はガス灯で照らされ、大きな船が外国からこの国へ、また外国へと渡る世の中だ。古くから寺町として有名なあの町にも舶来品を扱う店があり、百貨店や西洋風の劇場だってできたと聞いている。
それなのにしきたりだからと言って、なぜ男の俺が男の花嫁にならなくてはいけないんだろうか。
(しかも相手がイッセイなんて、冗談にも程があるだろ)
「……イッセイはなんて言ってるんだよ」
「了承済みだ。あとはおまえの返事だけなんだ」
なんてことだ。いや、あいつなら父親に頼まれれば嫌とは言わない気がする。小さい頃からどんなことにも動じない奴だったことを思い出し、ハァと小さなため息が漏れた。
「
母さんは俺の名前しか口にしなかったが、顔を見れば「承知しなさい」と言っているのは丸わかりだ。
母さんはいまでも元父親に思いが残っているのだろう。だから何度再婚話がきても断っていたに違いない。俺が覚えいてる限り、二人はとても仲が良い夫婦だった。それなのに八年前のあの日、二人は突然離婚してしまった。
どうして離婚したのかはわからない。でも、母さんは元父親のことを忘れられずにいて、俺の知らないところで連絡も取り合っていたのだろう。今回のことを相談され、気持ちが残っていた母さんはこうして俺と元父親が直接話をする場を用意した。
(でなけりゃ息子が義理の息子だった男の花嫁になるなんて馬鹿げた話、受け入れるはずないよな)
そう、俺の花婿になるイッセイ――
・・
結局俺は花嫁の話を受け入れることにした。何度渋ってもやって来るし、そのたびに母さんと元父親とのやり取りを見せられるのもしんどい。しかも最後は母さんまで受け入れるように俺を説得し始めた。男の俺が花嫁になるなんて母親としては複雑な気持ちだろうに、「受け入れたほうがあなたのためなのよ」とまで言われては断り続けることもできなくなる。
俺が了承するとすぐに準備が始まった。といってもやるのは行列に参加する人たちに連絡をしたり花嫁衣装を用意したりするだけで、そちらは連絡を残すのみという状態だった。俺がギリギリで頷いても大丈夫なように用意していたのだろう。
(今日も暑いな)
こんな残暑厳しい盆の日に、俺はイッセイの花嫁になる。
「いまは旧暦じゃなくて新暦でやることになったっていう以前に、男の花嫁ってのを変えればいいのにな」
しかも由緒正しい寺らしく和装での結婚式だ。おかげで慣れない着物姿はやたらと蒸す。
「何か言った?」
「なんでもない」
そう答えたら「もうすぐ出発だから食べてしまいなさい」と言って母さんが部屋を出て行った。俺はため息をつきながらも、言われたとおり豪華な仕出し弁当の残りを平らげるべく無言で箸を動かす。
花嫁花婿には食事の時間なんてないから、いまのうちに食べておけということなのだろう。慣れない帯は苦しいが、化粧をしているわけでも角隠しを被っているわけでもないから食事がしづらいということはない。
俺はひたすら目の前の料理を口に入れた。そうでもしないと余計なことを考えてしまいそうだったからだ。
(俺が花嫁なんて、イッセイはそれでいいのかよ)
了承してから俺は一度もイッセイに会っていない。嫁入りが決まった後は嫁ぐ日まで花嫁と花婿が顔を合わせないのもしきたりなんだそうだ。親が離婚してから義理の兄たちに会うことはなかったから、それはかまわない。ただ、今回のことをイッセイがどう思っているのかだけが気になった。
ふと、八年前のことを思い出した。母さんと家を出て行く日、イッセイは離れたくないと言わんばかりに俺の手をギュッと握っていた。何も言わなかったが、握る手も俺を見る目も出ていかないでと言っているように見えた。あまりに強い眼差しだったからか、イッセイの目がホオズキのように赤く見えたのを覚えている。
(そういやあの日もこんな暑かったっけ)
玄関を出たすぐ脇には檀家の誰かが届けてくれたのか、立派なホオズキが並んでいたのを思い出す。
(俺だって離れ離れになんてなりたくなかった)
いつもと違うイッセイの様子に胸が詰まる思いがした。この手を離したくない――そう思ったものの、十歳の俺にそんな我が儘をいうことはできなかった。言えば母さんを一人にしてしまうとわかっていたからだ。
家を出た日、俺はそれまでの思い出を封印することにした。うれしかったことも楽しかったことも何もかも、イッセイと過ごした時間のすべてを封印し思い出さないようにした。そうしなければ悲しくて泣きじゃくってしまいそうだったからだ。
「輝智、時間よ」
母さんの声がした。障子の向こうから何人もの話し声が聞こえる。行列に参加する人たちが揃ったのだろう。ふと見た窓の外は手をかざしたくなるほどの晴天だった。真っ青な空に入道雲がこれでもかと映えていて、蝉の声はいつも以上にうるさくまさに“蝉時雨”といった具合だ。
汗まみれになったコップを掴み麦茶を一気に飲み干す。「よっこいしょ」と言いながら立ち上がった俺は、慣れない着物の裾をひょいと掴んで上がり