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第3話

 二人並んで地蔵菩薩を祀った閻魔堂の前を通り過ぎ、母家とは反対側にある部屋へと向かった。すっかり暗くなった廊下を吊提灯の明かりがゆらゆら照らしている。


(こっちに来るのは初めてだよな……)


 閻魔堂の先はいつも薄暗く、部屋の障子もぴしゃりと閉じていたからか昔から近づいてはいけない雰囲気がしていた。なんとなく当時の気持ちを思い出し、歩みが遅くなる。そのことに気づいたのか促すようにイッセイが優しく手を引いた。

 部屋の前に到着すると、イッセイがすっと障子を開けた。


「ようやく二人きりになれたね」


 手を引かれるまま部屋に入ると、真っ先に目に入ったのは真っ黒な布団だった。二人並んで寝ても余るほどの大きさで、枕元にあるのが行燈だからかどこか怪しげに見える。


「……真っ黒な布団ってあるんだな……」


 間抜けな言葉にイッセイが「これもしきたりの一つだよ」と答えた。


(しきたりってのはやっぱり変なのが多いんだな)


 ふと枕元の行燈に目が留まった。薄暗い部屋に不思議な影が飛んでいると思っていたが、どうやら行燈に蝶の模様が施されているらしい。中の火が揺れるたびに蝶が舞っているように布団や壁、天井を飛び回る。


「それは閻魔堂の火をもらった灯りだよ。閻魔様のもと、間違いなく夫婦めおとになるって意味合いがあるんだって」

「……へぇ」


 夫婦めおとという単語に胸の奥がざわついた。真っ黒な影絵の蝶がゆらゆらと舞うたびに心臓がドクドクとうるさくなる。


「さぁ、座って」

「あ、」


 優しく手を引っ張られ、真っ黒な敷布団の真ん中あたりに腰を下ろした。漆黒の布団のせいか、それとも妖しく舞う蝶の模様のせいか、想像以上に淫靡いんびに感じて落ち着かなくなる。ますます早鐘のようにうるさくなる鼓動が気になってイッセイの顔を見ることができなかった。


「改めて、ようこそ花嫁殿」

「……その花嫁殿ってのはちょっと嫌だ」

「どうして? カガチは俺の花嫁だよ?」

「そうだけど」

「そっか、恥ずかしいんだ」

「……っ」


 言い当てられて、思わずプイッと横を向いてしまった。花嫁花婿という言葉を気にしているのは俺だけなのかと思うと余計に恥ずかしくなる。


「恥ずかしがるカガチも可愛いけどね」

「可愛いとか言うな」


 たった一歳しか違わないイッセイにまで言われたくはない。


「俺はもう十八だ。可愛いなんて言われる年じゃない」

「年齢なんて関係ないよ。八年前も可愛かったけど、カガチはいまもずっと可愛い」


 堪らず睨むようにイッセイを見た。ところがイッセイの真剣な眼差しにぶつかり、文句を言うことができなくなる。


「ずっと辛抱してきて、やっと今日を迎えることができた。いまの世じゃ十八歳になるまで花嫁花婿にはなれないなんて、そんなところばかり現代いまっぽくなっちゃって嫌になるよね。そもそも男同士の結婚は認められていないんだから、昔どおりのしきたりで進めればいいのにさ」

「しきたりなら、しょうがないだろ」

「ただのしきたりならね」

「……どういうことだよ」

「本当は約束したときに結婚すべきなんだ。五十年前まではそうだった」

「五十年前って……本当にしきたりなんてあったんだ」

「もちろん、五十年前も百年前も、百五十年前の節目のしきたりも行われた。この寺にしきたりができてから途絶えたことは一度もないって聞いてる」


 イッセイの言葉に内心驚いた。

 俺が地蔵の家にいたとき、しきたりの話が出たことは一度もなかった。創建されたのは平安時代と歴史は古く、そのため檀家もたくさんいることは知っている。でもそうした寺は寺町のこのあたりでは珍しいくはなくて、この寺もほかの寺と同じように季節ごとの行事をやっているところしか見たことがなかった。その行事もほとんどが葬式や法事で、それ以外は寺町の一角にあるからか時々やって来る観光客を案内するくらいだった。


「まったく、今回は二重に大事なときだっていうのに、いくら約束をしても五歳と六歳じゃ駄目だって父さんがうるさくて」

「約束って……待て、五歳と六歳? なんの話だ?」

「カガチが五歳の誕生日の日にした約束だよ。覚えてない?」


 何か約束をしただろうか。思い出そうとするものの、八年間も思い出を封印していたからか何も出てこない。


「もしかして忘れた?」

「忘れたっていうか……」

「朝から江ノ島に泳ぎに行った日だよ」


 朝から江ノ島、と言われて、とある夏の日の記憶が蘇った。あの日、俺は兄たちと一緒に江ノ島まで遠出をした。泳ぐのが目的だったが、兄弟だけでバスや電車を使って遊びに行くのが楽しみで仕方がなかった。海ではたっぷりと泳ぎ、帰りにかき氷も食べた。帰宅してから兄さんたちが作ってくれた唐揚げを食べ、最後にとびきりのケーキを食べたのを思い出す。


(母さんが作る唐揚げより兄さんたちの唐揚げが好きだったんだよな)


 だから兄さんたちに強請って作ってもらった。ケーキは俺が一度食べてみたいと話していた銀座の店のフルーツケーキだった。


「そうだ、あの日はたくさん泳いで、帰ったら唐揚げとケーキを食べてすごく楽しかった。そのあといつもどおり静哉兄と風呂に入って、静真兄が寝かしつけてくれて……いや、そうじゃない」


 いつもはそうするのに、あの日は静真兄とは寝なかった。


「そうだ、あの日はイッセイと寝たんだ」

「よかった、思い出してくれたんだね」


 次の日にカブトムシを捕まえに行く約束をしていた。候補地はいくつかあったものの決めかねていて、寝ながら相談しようと珍しくイッセイと寝ることにした。


「あのときした約束、覚えてる?」

「約束……?」


 身を乗り出すようにイッセイの整った顔がグッと近づいてくる。慌てて体を逸らすと、そんなことは許さないというように腕を引っ張られた。


「あのとき俺が“花嫁になって”って言ったこと、忘れちゃった?」


 ぼんやりしていた記憶が一気に鮮明になった。そうだ、たしかあのとき「花嫁になって」と言われた。「絶対だよ」と言って指切りもした。


「カガチがなんて答えたか、思い出した?」

「……思い出した」


 俺の答えにイッセイがふわりと笑った。その顔を見た途端に、意味もわからず「花嫁になる!」と答えた自分が恥ずかしくなった。


(あのときは花嫁になればイッセイとずっと一緒にいられると思ったんだ)


 そのくらいイッセイのことが好きで、だからずっと一緒にいられる方法がそれならと喜んで頷いた。そういえば「花嫁になればずっと一緒にいられるよ」と囁いたのもイッセイだった気がする。


「あのとき約束したのがこの部屋だ」

「この部屋? まさか。だってここは小さい頃入ったら駄目だって言われてただろ?」

「そうだけど、大事な約束だから閻魔様のお腹の中であるこの部屋を使ったんだ」

「閻魔様の……なんだって?」

「ここは別名“お胎部屋はらべや”、閻魔様のお腹の中といわれている場所なんだ」


 意味がわからず、ぐるりと部屋を見回した。普段使っていないからか調度品は少なく、そのせいで少し寂しく感じる。母屋から離れているからか宴会の賑やかな音は聞こえない。それどころか表通りの自動車や人の声、それに小さい頃よく聞こえていた庭の虫の鳴く音も聞こえなかった。

 あまりの静寂に恐怖にも似たものを感じた。真夏だというのにゾクッとするような寒気が背中を這い上がってくる。


「ここは地蔵菩薩のお腹の中に見立てられた大事な部屋でね。地蔵菩薩、つまり閻魔様のお腹の中というわけ」

「お腹の中……」

「ここには元々あの世に繋がる門があったんだ。当時の人たちは門が開くと魂を奪われると考えて寺という扉を建てた。門は閻魔様に繋がる場所で、いつからか閻魔様のお腹の中だと言われるようになった」


 腕を掴んでいたイッセイの手が、するりするりと俺の指や手の甲を撫でた。


「ここは閻魔様にもっとも近い場所なんだ。ここでした約束は閻魔様との約束と言われていて、だから決して破ってはいけない。そうしないと閻魔様のご不興を買ってしまう。人々を救ってもらえなくなる。あの世の門が開いてしまう」

「あの世の門、」


 物騒な言葉に体がブルッと震えた。いまのご時世、“あの世”を信じている人がどのくらいいるかはわからない。しかし、この寺で過ごしていた俺にとって“あの世”は間違いなく存在する身近な世界だった。小さい頃から葬式を通して何度も人の死を見てきた俺にとっての“あの世”は、この世と同じくらい身近なものであり続けている。


「俺はね、寺にとって大事なこの部屋を使ってでも願いを叶えたかったんだ」


 手の甲を撫でていたイッセイの指が、ツツーッと手首から二の腕に向かって移動した。着物の上からだというのに直接撫でられているような気がして耳の裏側がゾワゾワする。

 思わず「おい」と言ってイッセイの腕を掴んだ。ところがそれを気にすることなく、今度は袖の中に手を入れて直接腕を撫で始める。


「おいって、」

「知ってる? 閻魔様には妹がいて、なんと夫婦なんだよ」

「だから手、やめろって」

「当時の人たちは閻魔様のご機嫌伺いを兼ねて、妹に見立てた美しい娘を寺に嫁入りさせることにしたんだ。もちろん本物の閻魔様はいないから、代わりに住職に嫁入りさせたってわけ。それがしきたりの始まりだと言われている」


 袖の中を這い回る手を止めようと何度も手を捕まえるが、なぜかすぐにするりとすり抜けて腕の内側や脇の近くをするすると撫で回す。そんなことをしながらもイッセイは話を続けていた。


「美しい娘って、俺は男だぞ」

「詳しくはわからないけど、途中で男が嫁入りすることになったらしいよ。疫病が流行ったときに年頃の娘がいなかったみたいでさ。代わりに美しい男を嫁入りさせたら疫病が治まったとかで、それ以来男の花嫁になったみたいだね」

「そんなことで男の花嫁になったって、もうそんな昔じゃないんだから元に戻せばいいのに」

「大抵のことはだ。でも、一度始まったしきたりはそう簡単には変えられない。そして俺はを使ってまでもカガチを花嫁にしたかった」

「は……?」

「俺はね、どうしてもカガチがほしかったんだ。兄たちもそう思っていた」


 意味がわからず視線を向けると、行燈の明かりのせいかイッセイの目が赤く光っているように見えた。


「焦りすぎて一度は取り上げられてしまったけど、この部屋でした約束は必ず守らなければならない」

「……まさか、それが母さんたちの離婚の理由なのか?」

「提案したのは父さんだ。まったく、そんなことをしても無駄なのにね」


 いつの間にか袖から出ていたイッセイの手が頬に触れている。


「この寺に生まれた男たちは閻魔様の魂を宿していると言われている。だからか閻魔様に捧げられるものを異常なほど欲するんだ」

「捧げられるもの……って、」

「いろいろあるけど、カガチもその一つだよ」


 行燈の火が揺れたのか、イッセイの目の中に揺らぐ真っ赤な炎が見えた気がした。


「カガチはホオズキの別名だって知ってる? そしてホオズキは閻魔様に捧げる提灯の代わりでもある。それだけじゃない。カガチはきっと弥勒菩薩なんだ」


 意味がわからなかった。それでも何も言うことができない。


「お釈迦様が入滅したあと、地蔵菩薩は何億年もの間、弥勒菩薩が現れるのを待っている。ただひたすら待ち続ける。何億年も待つなんて、それってもはや恋と一緒だと思わない?」


 冷たいイッセイの手が頬をするりと撫で、指の腹が目尻や耳、顎をたどるように動いた。


「そんな地蔵菩薩の身代わりを長い間続けてきたせいで、そういう執念こいごころを俺たちは宿してしまったんだ」


 綺麗な笑顔が近づいて来る。俺は何かに縛られたように動けないまま、唇に触れる冷たい口づけに背中を震わせた。

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