珈涼は前に立つ月岡の表情が見えなかったが、彼の背中からは怒りが伝わって来ていた。
迷惑をかけた珈涼に苛立っているのだろうかと恐れたが、月岡は雅弥を見据えたまま動かない。
前方に立つ雅弥はそんな月岡から目を移して、珈涼に向かって手を差し伸べた。
「帰ろうか、珈涼」
彼が珈涼に振るおうとした暴力を知らなければ、優しい兄が妹を呼ぶように聞こえた。
月岡は無言で珈涼の前に腕を伸ばして、珈涼に身動きをさせなかった。
雅弥は笑みを深めて、からかうように珈涼に言う。
「月岡に迷惑をかけたくないだろう?」
珈涼はどう言葉を返すか迷った。それは珈涼が何度も入った迷路で、雅弥は巧みにそこへ珈涼を誘っていた。
立ちすくんだ珈涼の前で、月岡が動いた。珈涼は頭に疑問符を浮かべる。
月岡は数歩で雅弥に近づくと……いきなり雅弥を殴り飛ばした。
それは渾身の一発で、雅弥が直前で身を引いていなければ頬骨を折っていただろう。
びっくりして硬直した珈涼の前で、月岡は口を開いた。
「だからどうした。珈涼さんは私の妻になる人だ」
月岡はうなるように雅弥に告げる。
「……まさか楽に死ねるとは思ってねぇだろうな」
雅弥の胸倉を掴んで、月岡はもう一度拳を振るった。
今度は雅弥も黙ってはいなかった。月岡の腕を掴んで、膝蹴りをみぞおちに繰り出す。
どちらも完全には入らなかった。けれど雅弥は唇に血を滲ませて、月岡は短く咳き込む。
雅弥は一歩後ずさって、笑い声を響かせる。
「はははっ。楽しくなってきた!」
雅弥は子どものように目を輝かせて言う。
「楽しませてもらったよ。……珈涼はなかなかいい心地だね、月岡?」
珈涼は雅弥が何を言おうとしたか察して、びくりと体を震わす。
「もう君の妻にはなれないんじゃないかな。うちの若い連中の種付け率は誇れるものがあるからね」
珈涼は真っ青になって思わず月岡を見る。
月岡は奇妙に静かな目で雅弥を見ていた。何の感情も浮かばない表情で一歩間合いを詰めると、雅弥の肩をつかんで壁に叩きつける。
雅弥は笑いながら月岡の腕をひねりあげた。二人のスーツはたちまち乱れて、腕や頬から血が流れる。
ついに月岡が雅弥の上に馬乗りになって首を押さえたとき、雅弥からようやく笑みが消えた。
月岡は懐から何かを取り出して、雅弥を見下ろす。
「なら、お前のところの若い連中はみんなここを潰さないといけねぇな」
月岡が引き抜いたのは短刀だった。
ぎらりと光る切っ先を、月岡は雅弥の足の間にかざす。
「……まずお前からだ」
そのとき、珈涼は月岡の本気の怒りを知った。
冷静に見えたのは間違いで、月岡の目は怒りの度が過ぎて判断がつかなくなっていた。
「月岡さん!」
珈涼は思わず月岡を後ろから抱きしめて、彼の手をつかんで止めた。
「何も……! 何もないです! 本当です!」
全く何もなかったとはいえないけど、体を奪われたわけじゃない。
「は、離してください!」
でも思うように喉が動かなくて、珈涼の小さな手では月岡の指を短刀から外すことも到底できなかった。
「耳を塞いで後ろを向いていてください、珈涼さん」
月岡は淡々とつぶやいて、刃をしまおうとしない。
珈涼は混乱で頭がいっぱいになりながら、身を屈めていた。
月岡の唇にキスをする。血の味がした。
「……あきひろ」
必死の思いだったから、珈涼はおぼつかない声でささやいた。
「そんなこと、したら……もう、キスしてあげない」
こんな脅しが何になるのだろう。おどおどして、小声で、ちゃんと月岡の耳に届いたかどうかもわからない。
けれど月岡の気を引くことは成功したようだった。月岡はちらと珈涼を振り向いて、その目が思案の色を帯びた。
その時扉が開いて、戸口から声が上がる。
「何してるんだ、兄さん!」
「やめろ月岡! 正気かよ!?」
一人は瑠璃で、雅弥に悲鳴のような声を上げて彼に駆け寄る。
もう一人は珈涼の知らない男性で、気の弱そうな二十台後半ほどの青年だった。
けれど彼はその見た目の頼りなさとは裏腹に、すぐさま月岡の手から短刀を奪って部屋の隅まで蹴り飛ばしてみせた。