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番外編 まよい

 あ、だめ。珈涼はバックミラーに映った光景に息を呑んだ。

 先日車の免許を取った珈涼は、自由に好きな場所に出かけられることがうれしかった。月岡はいつでも車を出しますよと言うが、彼に頼むばかりは心苦しかった。

 もうすぐ彼の誕生日だから、ちょっと遠出して何か買いに行こう。そう上機嫌に車を走らせたのが三十分ほど前のこと。

 キキィッと、タイヤと路面が鋭く擦れる音が聞こえる。

 ドンと車の後部から衝撃が走ったとき、シートベルトが締まって珈涼は呼吸ができなかった。

 ……今は生きてやりたいことがたくさんあるのに。ブラックアウトした視界の中で愕然とそう思った。

 意識が飛んだのはそれほど長い時間ではなかったらしい。

「珈涼ちゃん、珈涼ちゃん! 聞こえる?」

 誰かが珈涼を呼んでいる。それに意識を揺さぶられて、珈涼は目を覚ました。

 珈涼は車の運転席に座ったままで、窓ごしに若い男性が立っていた。珈涼はとっさに自分を見下ろしたが、大きなけがをした様子はない。

「う……」

 でもシートベルトが締まったからか、胸の辺りが苦しかった。珈涼が顔をしかめると、窓ごしの男性が声を上げる。

「怪我した? 鍵開けて! 手助けする」

「は、はい……」

 てきぱきした様子から、救急関係の職業の人らしいとわかった。

「手を回して。せぇの!」

「あ」

 珈涼がドアのロックを外すと、男性が抱きかかえるように珈涼を外に出してくれる。

 珈涼は男性というと月岡しか知らない。職業柄なのか筋骨のたくましい人で、触れ合った体に珈涼はうろたえた。緊急時にそんなことを考えてしまった自分が恥ずかしかった。

「どこか痛む? 救急車は呼んだけど、簡単な手当ならできるよ。俺、消防士だから」

「あ、ありがとうございます。大丈夫です、救急車なんて。そんな、痛いところは……」

 珈涼は言いかけて、やはり胸の辺りに重いような痛みを感じた。骨折のような激痛ではないが、どこか打ってしまったらしい。

 青年は目を鋭くして、強く言う。

「今見せるのが抵抗あるなら、仕方ないけど。救急車に乗りなさい」

「はい……」

 珈涼はその勢いに負けて、しゅんとなりながら同意する。

 人通りの少ない道で、青年と珈涼しか周りにいないのが幸いだった。

「あ、あの、ぶつかった後ろの人は……大丈夫でしたか?」

「当て逃げされた。俺はさらにその後ろをバイクで走ってたんだ」

「え」

 青年は腹立たしそうに言葉を吐き捨てる。

「でもナンバーは控えたから。後で警察に届けよう」

 警察、それを耳にして、珈涼ははっと息を呑む。

「珈涼ちゃん! 動いたら怪我が……」

 珈涼はとっさに歩いて、車の後部を見に行っていた。ライトも車体も壊れて、ウォッシャー液があふれていた。

「……どうしよう。月岡さんの車なのに……」

 珈涼は、月岡の車に瑕をつけてしまった事実に愕然とする。この被害だと廃車にするしかない。

 青年は珈涼とは別の感覚だったらしい。首を横に振って言う。

「あれだけの勢いでぶつかったら、普通は中の人間の命だって危なかった。でも車内への衝撃は吸収してる。いい車だよ」

 青年は珈涼を安心させるように言葉を続ける。

「届け出れば相手はつかまるし、しかも追突だから相手に十割請求できる。怪我の治療費だって……珈涼ちゃん?」

「だ、だめです」

 珈涼は震えだしながら首を横に振る。

 月岡は珈涼には、宝物を守るように優しい。でも、彼の職業は……と思ったとき、珈涼のおぼろげな知識が災いして、恐ろしさばかりが先立った。

「車は私が修理します。だから……警察には届けないでください」

「え、でも……」

 青年は珈涼の言葉に戸惑ったようだった。交通事故を届け出ないのは法律に反するし、何より請求の機会を逃すことになる。珈涼に不利ばかりだと思ったのだろう。

 珈涼は涙も浮かんできて、消え入るような声で言う。

「月岡さんに知れたら、ひどいことになるかも、しれないんです……」

 その珈涼に青年が沈黙したのは、それほど長い時間ではなかった。

「……参ったな。ほんと参った。珈涼ちゃんがそんなこと言うの、反則」

 彼はぽりぽりと頭をかいて、な、と優しく言う。

「恋人か……夫が、怖い人なんだな。暴力的な人?」

「ちが……い、ます。そうでは……なくて」

 珈涼がとっさに言い返せないでいると、彼は少し屈んで、安心させるように珈涼を覗き込む。

「警察には届け出るよ。でもそこの警察、よく知ってる奴なんだ。事情も話して、珈涼ちゃんも保護する。決めた」

 珈涼は首を横に振って拒否する。でも彼は現れたときからまとっていた、どこか強引な調子で言い切ってしまう。

「覚えてる? 俺、御子柴みこしば。小学校のとき、同級生だっただろ。……びっくりしたよ。珈涼ちゃん、相変わらず綺麗だから」

 救急車のサイレンの音が近づいて来て、二人の会話はそれで途切れた。




 翌朝、珈涼が目を覚ますと、ベッドの中に月岡の姿はもうなかった。

 出張のときは月岡の方が早く出ることもあるが、大体いつも目を覚ますのは珈涼が先だった。それでほっこりした気持ちで、月岡の寝顔を見ている時間が好きだった。

 今日は休日のはずなのにどうしたのだろうと、珈涼は不安な気持ちを抱いた。昨日のことはまだ話せていないが、どこかで迷惑をかけたことを知られて、彼が気を悪くしてしまったらと思った。

 そっと襟からパジャマの下を覗くと、胸から腹にかけて大きな青あざが出来ていた。検査を受けて内臓には異常がなかったが、打ち身をしてしまって、今も鈍く痛む。

 寝室のドアが開いて、珈涼はとっさにあざを隠す。顔を上げると、既に身支度を整えた月岡が入って来るところだった。

「珈涼さん、気分はどうですか? 熱っぽいようですが」

 月岡はベッドに座って珈涼の額に触れる。月岡の手が冷たく感じて、確かに彼の言う通りなのだろうと思った。

「うなされてもいました。具合が悪いんですね。病院に行きますか?」

 心配そうに顔を覗き込まれる。珈涼は車を壊したことも、その後救急車で病院に行ったことも、どう言ったらいいかわからなかった。

 でも自分のした悪いことは打ち明けなければ。そう思って、唇を噛む。

 珈涼はうつむきかけて、内心で首を横に振る。

 加害者がいることを知られたら、犯人に報復したりするかもしれない。彼にとっては日常かもしれないけど……でも、自分のせいで恐ろしいことをしてほしくない。

「珈涼さん?」

「……月岡さん、ごめんなさい」

 珈涼はベッドの上で頭を下げて謝る。

 驚く月岡に、珈涼は途切れがちに言葉を紡ぐ。

「昨日、月岡さんの車……こ、公園の石垣にぶつけてしまって。瑕……ええと、ライトも車体も、大きく壊れ……」

「……珈涼さん」

 月岡の声がぐんと低くなる。珈涼はびくっとして体を小さくした。

「ご、ごめ……」

「怪我は?」

 月岡は両手で珈涼の肩をつかむ。その勢いが強かったからか、珈涼の腹部が重く痛んだ。

 だめと思ったときには遅く、珈涼は痛みに顔を歪めてしまった。月岡は目ざとくそれに気づくと、珈涼のパジャマを解きにかかってしまう。

「こ、れは……」

 子どものように縮こまった珈涼の体に青あざをみつけると、月岡の目が鋭く細められる。

「痛むんですね? すぐ病院に行きましょう。抱いていきますから、腕を回してください」

「だ、大丈夫です。救急車で病院には行ったんです。あの、ごめ……ごめんなさい。叱られると思って言えなかったんです。車がだめに……」

「確かに怒ってます」

 月岡は普段なら考えられないほど低い声音でぴしゃりと言い切る。

 ひくっと体を引いた珈涼に、月岡は両手で珈涼の頬を包む。

 珈涼の身動きをさせないまま、月岡は哀しい目で言う。

「……怪我をしたと、どうして言ってくれなかったんですか。車なんてどうでもいいです。珈涼さんが救急車で運ばれるようなことがあったのに、隣で眠っていた自分が許せない」

 真摯な目に射抜かれて、珈涼は息を呑んだ。

 珈涼はその優しさにすべてを打ち明けたい思いに駆られながら、ぽつりと言葉を返す。

「で、でも本当にひどく壊れて……」

「元々珈涼さんを守るための車です。役目を果たしたなら、壊れて正解です」

 月岡は珈涼をパジャマからブラウスに着替えさせると、そのまま抱き上げて歩き出そうとする。

「月岡さん、どこに?」

「救急では最低限の診察でしょう。もう一度、ちゃんと精密検査を受けてください」

「えと、今日はいろいろ手続きしなきゃいけなくて。その……保険会社とか、石垣の所有者とか」

「保険会社には私から連絡しますから心配要りません。石垣は……」

 月岡は事も無げに言葉を投げる。

「……珈涼さんを傷つけたような石垣は公園ごと綺麗にしましょう。どこですか?」

 それは何気ない言葉だったのに、珈涼は寒気を感じた。

 もしそれが人相手だったら、人ごと消し去ってしまいそうな気がして……珈涼はますますこれが加害者のいる事故だと言えなかった。

「やっぱり熱がありますね。気づかなくてごめんなさいね……」

 自分に注いでくれるその優しさの全部を信じられないのが申し訳なくて、珈涼は月岡の腕の中できつく目を閉じた。




 三日後、大学の中にあるカフェで珈涼は御子柴と再会した。

 御子柴は大きめのTシャツとジーンズ姿で、そのラフさが大柄な体格によく似合っていた。小学生の頃の彼は小柄だったから、十年も経ったらずいぶん変わるんだと珈涼には不思議な思いがした。

「珈涼ちゃんは変わらないね。小さくて、きれいで。普通の子と違う」

 御子柴が会うなり告げた言葉は、珈涼には褒め言葉ととっていいかわからなかった。

 子どもの頃から、珈涼は極端に大人しくて友だちもいなかった。長いこと愛人の子といじめられたし、学校にいい思い出はない。

 ただいつも隅っこにいた自分のことを覚えていてくれた。そんな小さなうれしさで、事故のとき、彼に助けてもらってしまった。

 珈涼は御子柴と窓際の席で向き合って座って、おずおずと切り出す。

「あの、一緒に病院と警察に行ってくれてありがとう。私一人だったら、気が動転して話もできなかったと思うから……」

 これどうぞと言って珈涼が菓子折を差し出すと、御子柴は笑って手を振る。

「いいって、大したことはしてない。同級生のよしみだと思っておいて」

 珈涼は戸惑ったが、御子柴が続けた言葉はもっと珈涼を戸惑わせた。

「それより、考えてくれた? 俺とこれからデートしようって話」

「え、えと」

 その直球の提案に、珈涼は目を伏せながら答える。

「……だめ。私、付き合ってる人がいるから」

「暴力的で、珈涼ちゃんを怖がらせるような人なんだろ。別れた方がいいよ。……それともまさか、脅されてる?」

 珈涼はその物騒な言葉に反射的に息を呑んだ。

 確かに珈涼は、父の組と引き換えに囲われた。強引に、身も奪われた。表立って口にできない始まりだったのは事実だ。

 でも思いが通じてからは、珈涼をいつも労わってくれている。それを思って、珈涼は首を横に振る。

「月岡さんは優しい……。私のこと大事に、してくれてる。裏切りたくないの……」

「それだったら事故のこと、彼に言えるはずだよね?」

 御子柴は切り込むように珈涼に追及してきた。

 珈涼が微かに身を引くと、御子柴は鋭い目のまま続ける。

「あの日、警察も言ってたよね? 警察は家の中までは踏み込めない。でも助けを求めたら避難する家は用意できるって。珈涼ちゃん、逃げておいでよ」

「そんな、私」

 珈涼は瞳を揺らして否定する。

「……離れたくないのは、私の方なの。そっとしておいて」

「珈涼ちゃんじゃなきゃ放っておくんだけどなぁ」

 御子柴はふいに苦笑して、軽く首を傾けた。

「憧れてた子が突然目の前に現れたら、放っておけると思う? 無理だって。そりゃちょっかいかけるよ」

 御子柴はレモンソーダのグラスをからりと音を立てておくと、ね、と上目遣いに言った。

「手続き、一人だといろいろ困ってるんだろ。俺も事故見てたし、一緒に行くよ。……ちょっと色気のないデートだけど、それはこれからでいいや」

 さ、行こと誘って、御子柴はさっさと会計のレシートも奪ってしまった。珈涼は慌てて後を追ったが、代金を払わせてもくれなかった。

 御子柴の向けてくれる好意にうろたえて、珈涼はちゃんとした断り文句も出てこなかった。

「じゃあまず車屋行こうか。乗って」

 彼の言う通り、確かに事故の後の対応に困ってもいた。どうにか保険会社への連絡は自分にやらせてほしいと月岡に頼んだものの、まだ社会にも出ていない珈涼には、電話一つでも難しいことだらけだった。

 保険会社、車屋、警察。それからの半日は、珈涼が滞留させていた手続きが驚くほど進んだ。経験も浅い、珈涼一人だったらだまされていたと思うような複雑な手配も、御子柴は簡単にこなしてみせた。

 夕方、警察からの帰り道ではほとんどの手続きが済んでいた。珈涼はほっとした気持ちで、車の運転席を振り向く。

「御子柴くん、私と同い年なのにずいぶん慣れてるんだね」

「職業柄事故に立ち会うことは多いからさ。生死を左右する現場に比べたら、こういうのは全然平気」

 助手席で珈涼が驚いて言葉をかけると、御子柴は屈託なく笑ってみせた。

 珈涼も思わず柔らかく笑って言う。

「すごい。もう立派な社会人なんだね。かっこいいね……」

 珈涼は小学生の頃の彼を今も覚えているから、微笑ましいような思いがした。子どもの頃はほとんど話もしなかったけれど、こうして同じ車に乗っているのも、なんだかくすぐったかった。

 珈涼はちょっとだけ想像していた。自分がもし愛人の子じゃなければ、御子柴のような同級生たちと仲良くなっただろうか。普通の学校生活を送って、やがては誰かと付き合ったりもしたのだろうか。

「……やば。かわいい」

 御子柴がぼそりとつぶやくのが、遠いところで聞こえた。

 でも自分が愛人の子でなければ、月岡に出会うこともなかったのだ。それが何より今の珈涼の心の中心を占めているのは変えようもなかった。

 いつの間にか御子柴は車を停めていた。それで珈涼のシートに手をついて、どこか危うい目で彼女を見下ろしていた。

「珈涼ちゃん、きれいな唇の色してる」

「あ……」

 息が触れるような近くに御子柴がいて、珈涼はとっさに彼の胸を押す。その手が御子柴に掴まれる。

「や……」

「ご褒美、ほしいな。今日一日付き合ったご褒美。今ならキスひとつでいい」

 頬に御子柴の手が触れる。珈涼は本能的な恐れで震えた。

「だめって言っても……もうやめないけどね」

 唇が重なる直前、どうにか珈涼は身を翻して車のドアを開けていた。

 車から降りて走り出す。幸い知った道だったから、すぐに抜け道に入って、やがて駅の雑踏の中にまぎれた。車内にバッグを残したままだったことに後で気づいた。

「や、だ……」

 ……でもそんなことより、触れられそうだったことに体が芯から震える。

 掴まれた手の感触、頬に触れた呼吸、そういうものでさえ、思い返すと顔が真っ青になるのがわかった。

 微笑ましいと思っていた気持ちが吹き飛んで、恐ろしさに塗りつぶされる。

 気が付けばしゃがみこんでいて、目の前が真っ暗だった。貧血になったらしく、寒気を感じた。

 そうでなくともこんな心と体のまま、月岡のところには帰れない。

 でもそういうときほど彼に悟られてしまうと、いつから気づいただろう。

 なじみ深い気配をすぐ側に感じた。それが珈涼に触れたときも、甘えるような深い愛着を抱いた。

「……もう大丈夫ですよ。珈涼さん」

 抱きかかえられたとき、珈涼はまだ暗闇の視界の中にいた。

「私は絶対に、あなたを逃がしませんからね」

 ささやかれた恐ろしいような愛の言葉に安堵したとき、珈涼はもう元の世界には帰れないのだと理解したのだった。





 子どものように丸まった自分を月岡がよしよしと撫でている。そんな夢を見た。

 まるで手の中に収まるような子猫だと、ちょっと恥ずかしい思いもした。

 いつかは自立した大人に、時には月岡を守れるような存在になりたいと思っている。

 ……でも今は撫でてほしい。仕方がない子だと、呆れてもいいから。そう思って、珈涼は目を開いた。

 珈涼は自宅のソファーの上で丸くなって寝そべっていた。その珈涼の頭を膝に乗せて、月岡が頭を撫でている。

 月岡は、本を読むのでもテレビを見るのでもなく、優しい目で珈涼を見下ろして微笑んでいた。そこに極道の恐ろしさなどなく、手の中の小さな生き物への慈愛だけがあった。

「……月岡さん。ごめんなさい。私、嘘をつきました」

 その大きな慈愛の前では子どものように打ち明けるしかなくて、珈涼は小声で言った。

 でも月岡は首を横に振って、息をもらして苦笑する。

「いいんですよ。嘘をついても、逃げても。珈涼さんの嘘は甘くて、逃げ方は可愛い。もっとお世話したくなるだけです」

 月岡は珈涼の頬にそっと触れて言う。

「迷いましたか。私との未来に」

「ごめんなさい……」

「でも離れられないのもわかっていますね?」

 月岡は優しい声で、珈涼を包むように告げる。

「私は珈涼さんを離しはしない。あなたを傷つけない代わりに、あなたを鎖でつなぐことも厭わない。そういう意味では、とても暴力的なんですよ。……だから」

 月岡は少し首を傾けて、珈涼の目をのぞきこんだ。

「だから、そんなことを私にさせないように。いっぱい私に甘えてください。甘い声で私をだましてください。……珈涼さんの「好き」が、聞きたいんです」

 それから月岡は、ここ数日のてん末を珈涼に話して聞かせた。

 珈涼が事故に遭ったと聞いてすぐ、状況を調べさせて、加害者の所在がわかったこと。

 御子柴が珈涼に危うい好意を持っていることも把握していて、後をつけさせていたこと。

「どちらにも暴力は振るっていませんよ。相応の脅しはかけましたが」

「んっ……あの、話……聞く、から。手、止め……て?」

 気が付けばソファーの上でのしかかられて、着衣を解かれていた。月岡は珈涼に触れる手を止めないまま、珈涼の首筋に顔を埋めて告げる。

「大丈夫ですよ、珈涼さん。私は納税も選挙も果たしている善良な市民ですから。何も好き好んで暴力的なことはいたしません」

「そう……なの? ……ぁ」

 珈涼が首筋を吸われて小さく声を上げると、月岡はふいに笑っていない声で言った。

「……珈涼さんに指一本触れていたら、生まれてきたことを後悔するくらいには報復したでしょうが」

 珈涼がこくんと息を呑んだときには、月岡は笑って彼女を見下ろしていた。

「冗談ですよ。もう他の男の話なんてよしましょう。週が明けたら、新しい車を選ぶついでに、食事に行きましょうか」

 見上げた彼は、いつも通り優しさと慈愛のまなざしで珈涼をみつめている。

 たぶん珈涼はまだ彼のことをよく知らなくて、もしかしたらだまされているのかもしれないけれど。

 珈涼はおずおずと月岡に手を伸ばして言う。

「……や。すき……だから。触るの、やめないで……?」

 月岡は珈涼を抱き上げて、濡れた声でつぶやく。

「私のことを騙すの、上手になりましたね。……しょうがない子だ」

 寝室の方に向かう月岡を、珈涼は彼の腕の中からそっと見上げる。

 今もちょっと、彼が怖い。……でも月岡の目に熱が宿るのを焦がれるように願うように、自分は彼の側を離れられない。

「……だましてて」

 そんなまよい猫のような自分は、たぶんまだしばらく続く。

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