「あの、さ。この後少し時間ないかな」「え?」 目の前の綺麗な男が所在なさげに口を開いた。 少しだけ目元が赤い。少しだけ酔っ払っている。どこにでもあるリクルートスーツな俺と違い、
「よかった」 ホッとしたようなこの微笑みを、これほど間近で向けられる機会があるとも思っていなかった。酷く心臓が波打つ。それがきっと、表情に少し出たのだろうか。その眉が柔らかく弓形を形作る。「奢りだから安心して」「別に奢りじゃなくても」「君、神津大の学生でしょ? 俺は数学の高輪。一応院生だからさ。ええと」「2年の
「大丈夫なんですか? お酒」「ああ、少しだけならね。怪我してからなんだかすっかり弱くなった」 そう呟いて高輪叶人は肩をすくめた。 昼過ぎに始まった講演会に続く新年会が終わったのは丁度夕方で、ビルを出れば未だ残光が世界を薄っすらと照らしている。ざわざわと人であふれる通りを抜け、更に細い路地を歩むうちに次第に世界は次第に明度を落とし、落ち着きを取り戻していく。 ちょうど日が落ちるのと同時にたどり着いたのは、薄闇に隠れるようにひっそり佇む小さなバーだった。店内には暖かく柔らかいジャズが流れ、漸く外が寒かったことに気づく。見渡せば客は誰もおらず、ダークブラウンの艷やかなバーカウンターの奥にはたくさんの瓶が静かに並び、淡い照明を照り返していた。「
俺と高輪叶人の間には共通の話題はおそらく1つしかない。事件のこと。 同じ神津大学理学部に所属してはいるものの、未だ2年の俺は一般教養をウロウロしているだけで数学科に進むつもりもない。高輪叶人は基本的に研究室から出てこない。だから本当に接点がない、はずだ。「煙草、吸っていいよね?」 気がつけば高輪叶人の前には小さな黒曜石の灰皿が置かれていて、煙草と同じように細長い指がライターを掴んでいた。けれどもその煙草を挟む左手は、妙にフラフラとおぼつかない。なんだか目眩がした。いつかのように。「ええ、どうぞ」「三蓼さんもどうぞ」 高輪叶人が意味ありげな様子で俺をじっと見て、はにかんだ。薄明かりに照らされた高輪叶人は人間離れして綺麗に見える。ポケットの煙草ケースから1本取り出して火をつけた。「まさかそれで俺を誘ったんですか?」「そう。あの場所で電子でない煙草を吸ってたのは三蓼さんだけだったから。最近紙タバコはますます立場が弱いよね。それに……そういえば俺を見ようともしなかったからかな」「見ようとも?」「うん。正直辟易してる。三蓼さんは今更聞かないよね? あのこと」 高輪叶人は少しだけオドオドと、上目遣いで俺を見る。微妙な陰影はその仕草を随分幼く見せる。こんなに表情が変わる人だとは思っていなかった。酔っているせいもあるかもしれない。 あのこと。指しているのは事件について、だろう。それが俺と高輪叶人の唯一の、共通する話題だ。けれども俺はその話題に触れようとは思わなかった。第一、高輪叶人自身が辟易した様子を見せていて、望んでなさそうだった。「聞きませんが、他に話題がありません」「……話題。それもそうか。えっと、三蓼さんは産学連携に興味が?」 その無理やりひねり出したような話題こそ、興味の無さを示す申し訳程度のものだ。「就活半分です。興味ある分野で参加できるものは実績作りに積極的に」「そっか。俺はもともと院に進むつもりだったから」 そうしてやっぱり、話題は途切れた。 数学の話をふられても俺は理解ができない。俺の習った基礎知識なんて高輪叶人にとっては基礎の基礎で、話題にすらならないだろう。 高輪叶人のグラスの氷がカラリと音を立てる。多分この小さな酒宴の目的は、あんまりな新年会の口直し。それほど高輪叶人の周りには人が集まっていた。多分、ここに長居する雰囲気でもない。 俺は何でついて来たんだろう。目の前のハイボールもその表面に汗をかいている。なんとなく、手を取る気にならない。飲んでしまえば、きっと嫌なことを聞いてしまいそうだ。