「そう。その帰結として、俺は犯人が誰だか全くわからないことになっている」「ことになっている?」「まあ厳密にはわからなかったんだけどさ。俺は俺を刺した人と話したんだよ、ちょっとだけ」 嘘だ。そんなはずはない。会話などなかった。「とはいっても俺が話しかけただけなんだけどね。『なんで』ってさ。返事はなかったよ」 なんで。それは誰もが持つ疑問だろう。何故高輪叶人が何故刺されたか。それはきっと、空が明るかったからだ。「ところでさ、三蓼さんの煙草って何の銘柄? シガーケースにいれる人って初めて見たよ」 高輪叶人は不意に煙草を指から離して俺の煙草を指差す。「あ、ああ。これは外国産です。友人がタイでよく買ってきてくれて、けどあっちの国はパッケージが手術とか死体の画像だからヤバくて人前で出せないので」「ああ、なるほど」 そう呟いて高輪叶人は意味ありげに薄っすらと微笑んだ。
「それでね。俺はさっきも言った通り俺を刺した人に興味があるんだ。なんで俺を刺したのかってさ、その返事が聞きたくて」「そう……ですか」「俺は今、目もまともに働かないし舌も駄目になった。何かを区別しようとする時にまともに働くのは耳と鼻だけだ」 どきりと心臓が波打つ。「犯人は確かに何も答えなかった。でも俺を刺したまま、しばらく俺の背中にいた。すぐ後ろにね。それでその煙草の匂いがしたんだよ。三蓼さん、何で俺を刺したんだ?」 心臓がばくりと音を立てた。煙草をくわえた口元が酷く乾く。
嘘をつくべきか。 煙草の匂いなんてあやふやなものだ。判別なんてつくはずがない。それにあの日から随分時間が経っている。当時の匂いなどすでに霧散し、俺に結びつけることなど不可能だ。それにこの煙草は日本には直接入っていないが、タイではよくある煙草だ。他に吸う人間もいるだろう。 けれど。「何で俺が犯人だと思うんですか?」「手当たり次第でいろんな会に顔を出したよ。野次馬ばかりで辟易したけどね。三蓼さん、いや、俺を刺した人は俺を殺しそこねた。ならきっと生きてる俺のことが気になると思ったんだ」「あそこに行ったのはたまたまですよ。あなたがいるとは思わなかった。俺は不自然でしたか?」「さあ。俺には話しかけなかったけど三蓼さんから視線は感じた。でも俺はそれなりに有名だから、見られるのは仕方ない。三蓼さん以外にも見てる人はいたし」
あの場には三十人位は人がいたはずだ。顔のわからない高輪叶人は俺を同定し続けていたのだろうか、まさか。
「紙煙草吸ってる人がずっと俺を見てたんだよ。他には紙煙草吸ってる人いなかったし。だから誘ってみた。でも三蓼さんは事件のことを聞かなかったから、最初は違うと思った」 高輪叶人から細い煙が漂う。頭の中にかすみがかかる。「でもあんまりに聞かなさすぎて変だなって思った時、あの匂いを思い出したんだ。電子煙草じゃない匂いだった。三蓼さんの煙草の匂いだ。なんで?」 やはり不確かな話だ。今も俺が目の前から消えれば、きっと高輪叶人は俺を見つけることはできないだろう。三蓼も偽名だから。けれども俺は嘘をつきたくなかった。高輪叶人の少し灰色味がかった瞳が俺をまっすぐに見つめていたから。
「空が明るかったからです」 あの日、世界はたった2色だった。 洞窟の中のような真っ黒な高架下。その外側の紫みがかったキラキラと揺らめく灰色の空。黄昏の奇妙に明るい風合いはまるでこの世のものとは思われなかった。高輪叶人はその時、歩き煙草をしていた。高架の影で真っ黒に染まったシルエットが少し上を向いて煙草を口から離して煙を吐く。その時の白い煙はいつものように棚引くまでもなくそのまま空に溶けていた。たから黒い部分はそのまま地面に溶けていき、空に接する部分はそのまま空に溶けていき、高輪叶人がいなくなってしまうように思えた。 だから、刺した。いなくならないように。まるで虫にピンを指すようにこの世から消えてしまわないように。
その時は、それが当然に思えた。今でもその時のことは覚えている。いつからそんな事を考えていたんだろう。わからない。鞄の底にはいつもナイフを忍ばせていた。そのまま消えてなくなりそうな高輪叶人。人が空気に溶けるはずがない。でも俺の認識はそうじゃなかった。「酷く理不尽な理由だ」「そうですね」「それで三蓼さんは何を得られたの?」「何も」 高輪叶人は俺の目を覗き込む。少しの混乱の他には何も感じ取れなかった。 否定すればよかったのかもしれない。高輪叶人は人の顔を認識できない。だから俺を同定できない。しらばっくれれば証拠も何もない。そう思ってついてきたはずだった。 触れたハイボールは酷く湿っていた。「俺は生きてる」
死んでほしいとは思っていなかった。会うつもりもなかった。俺が高輪叶人を刺したとき、いや、刺した後にようやく殺してしまっては本末転倒だと気がついた。だから工学部棟の屋上に上がるのもやめた。頭の中に蓋をして、閉じ込めて、なかったことにした。俺の中から高輪叶人の全てをなかったことにしようとした。それも、ひどく自分勝手で理不尽なことだ。「とても痛かった」「……」「まあ、今は痛くはないけどね。もう空は明るくないの?」
淡々とした問い。思い浮かぶのはあの酷く灰色じみた空。何も変わらない。そしてそれと同じ色の瞳。「まあ、俺は刺した人を別に恨んでないから気にしなくていいよ、困ってないしな」「……困ってない?」 右手と味覚と認識を失ったのに? 今も右手はぷらりと垂れ下がっている。「そうだなぁ。数学科というのは省エネなものでね。頭が働けばそれでいいんだよ。右手がなくても左手でできないことはない。味覚はもとより食事にあまり興味はない。人間の見分けもあまり興味がない。だから、困ってない。三蓼さんの行為は無意味だ」
俺を観察する空色の瞳は何の感情もこぼしてはいなかった。悔しさも、怒りも、嘲りも、なにも。ただ記憶の中にある空のように、相変わらず俺と隔絶して、泰然としていた。 それはきっと、予想していたことだ。 変わらない。変えようとしても、変わらない。俺は高輪叶人に何の影響も与えない。多分この瞳を失っていたとしても、それは目に見えるこの色を失わせたというだけで、既に俺の記憶に焼きつけられたあの景色とこの瞳の記憶はもはや、変わることはないだろう。「三蓼さんが俺を殺していたとしても、やはり意味はない。俺はそこで考えるのをやめるってだけだ。だから気にすることはないよ。俺も誰かに言うつもりもないし」
高輪叶人は残りのラムを飲んで立ち上がる。「空が明るかったから刺された、で納得したんですか?」「した」「何故?」
思わず零れた俺の問いかけも無意味で、高輪叶人はコートを羽織るのを止めることはできない。「俺は空が明るかったから刺された。それが事実なら、それだけだ。俺の疑問は解消された」 俺に対する興味が急速に失われていくのを感じた。だからきっと、俺が高輪叶人と会うことはもうない。かわりに次第に俺の世界が色を失っていく。そうしてやはり、高輪叶人は世界から消え失せる。
煙草を吸う姿が好きだった。何故好きなのか。そんなのはわからない。きっとそれは理屈じゃない。高輪叶人を殺せていたら、興味を失うことができただろうか。あの空を俺の中から消せただろうか。あの焼けこまれたような空を。俺を汚染し、塗りつぶそうとするものを。
無理だ。 ああ、ようやくわかった。俺はこの人に何か影響したかったんだ。そのまま溶けて消えてしまうという妄想を利用して、どうせ消えるなら俺が殺したいと思って刺した。気がつけば、ため息を付いていた。「あなたを殺したかった」 空が明るかったから。「無意味だよ」「そうですね」
今更殺しても、何の意味もない。 あの時に高輪叶人が死んでいたとしても、ただ、この人を殺したという事実が成立するというだけだ。たまたまこの人は死ななかっただけだ。どのみち俺はこの人に何の影響も与えることはできない。何故刺したのかという興味も、既に失われてしまった。けれども諦めることなんてできるのだろうか。それができれば早いのに。「また飲みませんか」「……いいよ。君のことはもう見分けがつかないかもしれないけれど」 そう呟いて、高輪叶人は煙草を灰皿に押し付けた。
Fin