一席の御付き合いを御願いいたします。
奥州の山深いところに、誰もいなくなった寺がございました。長いこと、ほっとかれた寺だったんですが、いつの頃からか、誰ぞ住み着きました。
この男、名を土竜の五助と申します。年は三十あたりでございましょうか。なかなか体格の良い輩でございます。実のところ、何年か前まで江戸のあちらこちらで、仲間と一緒に盗みを働いておりました。
さんざん盗み散らかした挙句、お縄になっちゃたまらねぇ、と江戸を出た……五助ってのは、盗人のわりに、どこか堅実なところがあったようで。手に入れた金を、酒に女に博打に、遊ぶような真似はしなかったんですな。ためこんだ金をもって、江戸を離れた。
路銀ったって、そんなにあるもんじゃございません。行く宛もなく江戸を出て、三日、四日もたちますと心細くなってくる。手元の金の尽きた頃が旅の終わり。そうやって着いた場所で後先考えようってぇ魂胆でございます。
ところが、お尋ね者には違いありませんから。裏街道を行くしかない。街道から外れた道をゆけば、うっかり迷い込んだ山ん中、うら寂しい山道をひたすら歩いておりますと、ぱらぱらっと雨が降ってきた。まだ日も明るかったんですが、本降りともなれば、たまったもんじゃない。ぬかるんだところを、闇雲に小走りでいきますってぇと、道の真ん中に『四角い石』が転がってる。
不用意なもんが置いてあらぁ、と立ち止まった。
五助があたりを見回しますと、藪の陰から細い石段が見えた。あちこち崩れておりまして。さっきの石も、そん中の一個、だったのかもしれやせん。
雨は、だんだん強くなってきた。五助は寺か神社を期待して、石段を登ってった。その先にあったのは、今にもぶっ壊れそうな古い寺。やぶれ穴の屋根だろうと、山道よりはマシというもの。本堂まで潜り込みますと、朽ちた仏像が、かろうじて立ってる。朽ちた木像を見上げますと、悪党が沁み込んだ笑みを浮かべて、手をあわせた。
五助という悪党、信心なぞあるわけありません。
何を思いついたのか、旅の途中のどこぞで手に入れ剃刀を取り出します。そいつを水たまりの水でもって湿して、頭の毛を剃り出した。道中差は流石に使わない。頭を丸めちまって、にわか坊主の出来上がり。
そのまま住み着いちまって、もう……何か月になりますことやら。
♪
あんなボロ寺から山道をくだっていきますと、小さな小さな村があったんですな。いやぁ、村と呼べるかどうか、なんともいえない寂しいもんでございます。
こんな場所でもカカァと一緒に生きていかなきゃならねぇ、命があるだけマシ……なんてことを呟きながら、野良仕事を終えて、ほったて小屋同然のねぐらへ急ぐ男、その名佐兵衛と申します。
帰ってくるなり、
「やっぱり薄気味悪いんだよぉ、あんた、あのお寺の!」
と、佐兵衛のカカァが、土間でいきなり言う。
佐兵衛も疲れております。腹も減っている。
共に好いた挙句に駆け落ち。貧乏暮らしを承知の上、逃れ逃れて、ここまでやったきた。お前さえ居ればいい、あんたのそばを離れない。これから先も、すっと……とはいうものの、すきっ腹じゃ不機嫌になるもんでございます。
「薄気味悪いったってぇ、住職には違ぇ無ぇんだよ? 寺にいてくれるだけ、ありがてぇ話じゃねぇか?」
「そんなこと言ったってさぁ……」
「いきなりいなくなっちまった先代のことも知ってるみてぇだし、留守を預かってくれるってだけでも、いいじゃねぇか?」
「でもさぁ……なぁんか、あたしゃ厭なんだよ」
「何がイヤなんだ? 色目でも使われたってのか?」
「あたし相手にそんな真似しないのさっ」
「そいつは喜んでいいのか、悲しんでいいのか、どっちにしたらいい?」
「何ぃワケわかんないこと言ってんだい!」
「だって、おめぇ! 色目を使われたってんなら、お前もまだまだ捨てたもんじゃない。でもぉ、使われてなかったってことなら、お前は……残念ってことになる」
「そんな話じゃないんだよ? お寺は修繕しないし」
「先代の意向ってのがあるんだとよ。あるがまま、朽ちるに任せよってな」
「三日に一度はやってきて、お布施だ何とか言いながら、食い物をもらってくけど、ありがたいお話のひとつも聞かせちゃくれない。ナムアミダァって、ちょっと言って、すぐ帰っちまうんだよ?」
「退屈な説法を聞かされるよりマシじゃねぇか。金もかかんねぇしな。それに、御説法を聞くほど、お前、そんなに信心深かったのか?」
「信心深くなくったって、気になるじゃないかぁ! こないだは南無阿弥陀仏、その前はあんた! 南無妙法蓮華経って。おかしいでしょう?」
「お前も面倒くせぇなぁ。そんなんどっちだって同じじゃねぇか」
「同じじゃないよ、言ってることが違うじゃないかぁ」
「ナムアミダァもナンミョーホーレンも、言ってることの意味がわかんねぇんだから、どっちだって同じなんだよ」
「そんなもんなのかい?」
「そんなもんだ。梵鐘の音が聞こえるだけでも、ありがてぇことだろう」
「ボンショウってなんだい?」
「鐘だよ。ぼーんって鳴ってんだろ?」
「あらやだ。たまに忘れるときがあるよ」
「いちいち揚げ足とるもんじゃねぇよ。鐘鳴らしてんだから、お寺らしいことしてるじゃねぇか」
「何がお寺らしいことだよぉ。鳴らしたり、鳴らさなかったりで」
「そうだったのかぃ?」
「それにさぁ、おみよちゃんのお葬式のときだって。『名前が悪い、ミヨは逆さにすれば黄泉』なんてこと言ってさぁ」
「そんなこと、あったのかい?」
「やだよぉ、この人は……おみよちゃんだって、やっとお寺にお坊さんが来たって喜んでたのにさぁ! これで鐘が鳴るって」
「そんなんだったかなぁ」
「そろそろ鐘の鳴る頃だって、表へ駆け出してって。鐘が鳴らないと『あたし、お手へ行って鳴らしてくるっ!』なんて言ったりしてさぁ」
「行ってたのか、おみよは?」
「そこまで知らないよぉ」
「そうか」
「それだけじゃないよぉ? 河童の仕業で川に引きずり込まれて死んだって。だから戒名ありませんだって? そのまんま寺の裏に埋めちまって。位牌の代わりに石っころひとつ渡すなんてさぁ……」
「またその話かい? お前も飽きないねぇ? 同じ話を何回も何回も。かわいそうだって言うのかい? 死んじまったもんは仕方ねぇじゃねぇか」
「あんなの、聞いたことないよっ! まっとうな坊主のすることじゃないよ? ホントにあの人は、お坊さんなのかぃ?」
「いい加減にしてくれねぇか? 腹ぁ減ってんだ。話は、あとにして何か食わしてくれねぇか」
こんな土間での立ち話もしんどいものです。佐兵衛が切ない声で言うものですから。言いたいことを飲み込んで、支度に取り掛かる。支度ったって、芋を煮たもんを出すくらいでございます。
ようやく、佐兵衛も座ることができたんですな。
二人黙って、芋をかじってる。
佐兵衛だって、あの住職の奇妙さは気になる。でも、怪しんで、疑って、訝しんでいてはキリがない。
おみよちゃんのお葬式……佐兵衛だって、その言葉を聞けば胸中は穏やかじゃなくなっちまう。この二人、こどもがおりませんから。そりゃあ、可愛がっていたものです。
でも、どこかで線を引いていた。必要以上に、おみよに関わろうとしはしなかった。情が深くなりすぎますと、愛しさとは違う気持ちが芽生えてしまう。それを承知していたんでしょうな。
よその家には可愛い子がいるのに、どうしてウチには……と。妬みが膨らんでしまいますと、ロクなことがない。それをわかっているからこそ、でございます。
さて、昨今の世の中では滅多に聞くこともございませんが。昔は七つまでは神のうち、と申しました。昔は、こどもの死亡率は高かったのでございます。
みよも、六つか七つ……あわれな姿を見つけたのは、タキチと呼ばれる男でございます。小さな村では数少ない、貴重な若者の働き手でありました。親はすでにおりませんが、どうにかひとりでやっていけてる。
農村部ではございますが、元服という儀式は行われていた様子でして。十五から十七あたり、簡素に行ったと伝わっております。
タキチもまた、もうすぐ元服かと思われた矢先、みよが亡くなった。二人はとても仲が良かった。
みよは沢に落っこちて、頭が砕けたまんま、流されちまったらしい。何しに沢へ行ったのか、誰もわからない。そしてタキチは弔いが終わった頃から、ずっと家に閉じこもるようになった。
そんなある日、住職がやってきて、引きこもってるタキチを寺に連れてってしまった。あとから聞いた話じゃ、頭を丸めて、弟子入りとか。
以来、タキチの姿を見かけた者はおりません。
ずっと、本堂でお経をあげてる、と噂であります。
佐兵衛の中にも、心残りみたいなもんがあった。葬儀のあとは、しばらくそっとしとくもんだ、とほっといたら、村から出てっちまった。
仏門に入って修業と供養の日々とは聞こえがいい。
だが、どうも腑に落ちないところがある。先代の住職がどんな人なのか、佐兵衛は知らないんですな。この村に辿り着いたときには、もう山の寺には誰もいない。荒れ果てていたんですから。
村の年寄りの話じゃ、ひとり、お弟子さんがおったそうで。その人の話じゃ、ある日突然、行脚に出ると言い残して行ってしまったとか。
そのお弟子さんも、後を追うように、姿が見えなくなった。
なんとも無責任な話じゃございませんか。いつの間にかやってきて、寺に住み着いた『住職』と名乗る男に、心を許せそうにありません。
そんな靄だらけの気持ちに整理をつけたくもなる。だからって、わざわざ山奥のボロ寺まで赴いて、あれこれと聞いてみよう。なんて気も起きません。
あの住職に問うてみたところで……いつだったか、初めて住職に会っとき。あの目ツキ、強烈に感じた、
『こりゃかなりのゴロツキじゃねぇか?』と。
メシをすませてしまうと、夜は何もやることがない。妻はさっさと寝てしまう。
佐兵衛も同じく、眠ろうとする。いろはカルタの、知らぬが仏、の一枚を思い出しながら、目を閉じたのでございます。
♪
人里離れた山奥の村に、旅人が現れるなんて、滅多にあるもんじゃございません。
歳の頃、三十路ではありますまい。颯爽とした足取りではありますが、網代傘を携え、墨染の直綴に小袖という旅装。ところが、あちこち擦り切れて、とてもみっともないナリでございます。無精髭にのばしっぱあんしの髪をなびかせ、雲水と呼ぶには、かなり厳しい。
さらに不似合いなのが、背中に担ぐ、五尺はあろう筒状のもの。釣り竿にしては太すぎる、物干し竿とも言い難い。塔婆の何本かでも束ねてるんじゃないかと、まぁ、目立つ代物でございます。
正直、近寄りたくはありませんな。
そんな、貧乏雲水の男、名を瓏左と申します。僧侶よりも御武家様のほうが似合いそう。剛毅な眼差しに、豪胆と呼ぶに相応しい身体つき。強そうなんでございます。
見掛け倒しってのは、どのこでも見かけるものでございますが、瓏左にいたっては、そんなこたぁございません。あちこち小袖の破れ穴から見えます傷痕が、くぐり抜けた死合と死線を物語っております。
さて、山の端が紫色に染まって、やけに生あたたかい風が吹いてくる。寺の鐘が聞こえると、瓏左は立ち止まり、耳を済ませてた。
野良仕事を終えてまして、帰り支度の佐兵衛と目が合った。
「あぁ、目が合っちまったよ? 汚ねぇナリした奴だ。もう、あぁいうのには関わり合いたくないんだよ、こっちは。地味に静かに穏やかに、誰にも会わずに暮らしたいってのに。なんだい、アイツは? やだねぇ、こっち来ちゃった。一夜の宿なんて求められた日にゃ、どう断ったらいいんだか」
「すまぬが……」
「ほら、おいでなすった! あ、あたしゃ、断るよ! 断らさせていただきますよ? あんたみたいなのを家に入れたんじゃ、ノミにシラミにダニを置き土産にされちまうに決まってんだっ!」
「……何を申されますか」
「申されるも何もないよぉ? こんな山奥までやってくる輩なんてのは、きっとロクなもんじゃない。いくら方向音痴だからってねぇ、好き好んで、ここまで来るわけないんだ」
「何か勘違いしてんじゃねぇのか、あんた」
瓏左は警戒心が暴走気味の彼にわかるように、あちこちへ目線を投げながら、
「鐘の音が聞こえたんだ」
「そりゃ聞こえるさ、あんただって耳があるんだ」
「いや、そうじゃなくてね。あの鐘はどこで鳴らしてるのかと思って」
「あっちのほうだ」
と、佐兵衛は指をさす。
道は続いております。かぼそい山道を通り越して、もはやケモノ道みたいなところなんでございます。
「そうかぃ、邪魔したな、ありがとよ」
と言った貧乏雲水の澄んだ声と、江戸の町民みたいな口調に、佐兵衛はちょっと驚いた。
ますます意味がわからない。武家の雰囲気で、坊主のナリをして、口調がいきなり江戸っこ風情。
「なんだいありゃ」
去り行く後ろ姿を見送っておりますが、その背負った筒もまた気になる。僧侶の荷物にしては違和感がある。あれが、例えば大太刀の類でもあったなら……なんてことを考えてしまったものだから、勝手に身震いして、家路を急いだのございます。
一方、瓏左といいますと、伸びすぎた草木を掻き分けながら、ケモノ道同然の場所を歩く。しかし、どこをどう間違ったのか、足元に道らしい道もない。あたりも暗くなってきた。しかし、この男、構うものかと突き進んでゆく。
熊じゃないんだから。
道に迷って途方に暮れることもなく、瓏左は例の寺の……裏手に辿り着いた。茂みの中から、ぬっと顔を出して、雑草も伸び放題な墓所を睨む。本堂と小さな小さな鐘楼は見えますが、荒れ果てっぷりは、流石の瓏左も眉をひそめた。
ふっと鼻を鳴らすと、茂みを飛び出して、裏手から本堂へ向かう。あたりはすっかり夕闇が押し寄せておりまして、破れ板から、本堂の灯がもれていた。
大胆不敵な足音が聞こえたわけですから、灯をもって、本堂から誰か出てきた。
弟子入りしたタキチであります。
今は甲念と名付けられ、修行と供養の日々。
「ど、どなたですか」
と、おそるおそる声を出してみる。
薄闇の向こうに佇む瓏左は、
「いやはや失礼をお許し願いたい。道に迷ったところ、鐘の音が聞こえ、その方位を頼りに、どうにかここまでやってきた」
田舎暮らししか知らない甲念にとって、警戒心よりも好奇心のほうが勝ってしまいました。瓏左から漏れる風情を敏感だったのでしょう。
瓏左は網代傘を片手に、あちこちにくっついた葉っぱを叩き落としております。長い髪をかきあげ、額の汗を拭った。道なき道を掻き分けやってきたのに、どこ吹く風といった面持ちで、歴戦の古強者の風格を両肩から放っております。無精髭も整えたなら、端正な顔立ちがうかがえる。何よりも股引の大きな破れ穴から覗かせた足が、甲念の心情をいっそうかきたてたんでございます。
ぼんやり見惚れている場合ではございません。
「……ささっ、どうぞ」
「すまんなぁ」
「御覧の通り、もはやお寺とは名ばかりのボロですが」
「いやいや、世俗を離れればこそ、飾り立てる必要もありますまい。若いのに立派なもんだね」
「とんでもございません。まだ、日が浅そうございます」
「そうかい? 十年はやってんだと思った」
「いやいや……」
「子の曰わく、疏食を飯い水を飲む、肱を曲げてこれを枕と……」
と、瓏左は言いながら、二人が本堂に参りますと、住職はホントに肘を枕に鼾をかいて寝ていた。徳利と、端の欠けた茶碗が床に転がっております。
実に、とんでもない生臭坊主。
「お恥ずかしいところを……」
「いやいや、俺も人のことは言えない。叩けば埃が出る身、同じ穴の貉だよ」
埃が出ようと貉だろうと、やってることが同じなら、見栄えの良いほうがよろしかろう、ってなもんです。
「夜も更けて参りました。こんなところではございますが、これも御仏の導き。どうぞ、今夜は身を休めていかれはいかがでしょう」
瓏左はありがたく一夜の宿を得たのでございます。
正直なところ、百足も這いずる腐りかけた床の上で寝る気もおきません。床板がまともそうなところに荷物をおろしまして、あぐらをかいた。袂から旅の糧の煎豆が入った小袋を取り出しますと、一粒だけ口の中に放り込む。
甲念は、小さな灯の下で、見台に向かい、経文のようなものを読み始める。
さて、甲念。旅の僧を招きいれたものの、どうしてよいかわからない。さらに、聞いてみたいこと、知りたいこと、話したいことが次々と思い浮かんで、まったく穏やかじゃございません。
朽ちた本尊の前で寝てる住職に、部屋の隅の甲念。そこに壁を背にした瓏左がいる。本堂に描かれた三角形に、夜は静かに忍び寄ってきた。
ゆったり呼吸を整えた終えた瓏左は、
「何を読んでおるのだ?」
「この寺に、唯一残ったものでございます」
と、手にとって、ひらひらひらと甲念は見せた。
それは経文でも何でもない。単なる紙屑にしか見えない。
瓏左は何か思い出して、頭陀袋を漁りますと、頁もちぎれた経本を奥から引っ張り出し、
「こんなものしかないが、受け取ってくれ」
「こ、これはめっそうもございません!」
「声が大きい! 住職が起きる。遠慮するな。あんなもんを眺めるより、勉強になる」
「ありがたく頂戴いたします」
「……そうだ、名乗ってなかったなぁ。瓏左だ」
「こちらこそ……甲念と申します」
「しかし、異様なまでに荒れておるなぁ、やりすぎだよ」
「先代様が行脚に出てしまったと聞いております。以来、御覧の通りの荒れ模様でございます」
「それでも此処で、住職を待つってことかぃ?」
「はい……玲座様は、何故に旅を、あの長い筒と関りがございますのでしょうか?」
「勘がいいねぇ。その通りだ。あの中にあるもんを弔う場所を探して歩いてんだ」
「それは……難義なことでございましょう」
「それはさておき、あいつは何だ?」
ひっくり返って寝てる奴を玲座は指しますと、甲念は、
「いつだったか、今の住職の土竜坊さまがお越しになられまして……」
「今の住職って、あいつかい?」
瓏左が顎先で示しますと、甲念は苦笑気味で頷いた。
モグラボウとはけったいな名前でございます。本尊もほったらかしの本堂で、宗派も不明という有様。流石の瓏左でも、一抹の不安がよぎるのでございます。
狐狸の類でも、化かすつもりなら、もうちょっとマシなものでしょう。
しかしながら、これも何かの縁。
仏教では、縁と因を大切にしております。すべてに原因、即ち因と、その条件である縁がございます。縁と因は互いに影響し合い、作用し合うものと考えられております。
「こんなところで修行なんざ、できるもんじゃねぇ。なんだって、お前さんはこんなところにいるんだい?」
やや間があって、
「供養でございます」
と、小さな声で甲念は呟いた。
小さくも冷たい灯に、うっすらと滲んだ甲念の表情を、瓏左は見逃すことがありません。
「愛した女に死なれたのかい?」
「……もう遅うございます。御休みくださいませ。お話の続きは……」
「そうだ、そうだ。とっとと寝ちまおう。悪気は無えんだ。つい、思ったことを口にしちまうタチでな。それに……」
「それに?」
「見知った顔には言えねぇが。胸ん中につっかえた言葉は、見知らぬ顔にゃ後腐れなく話せるってもんだ」
星も月も見当たらない夜は、藍色の夜空が眩しく思えるものでございます。
♪
座禅なんだか胡坐なんだか、わかんない姿勢で瓏左は壁際で目を閉じておりました。何かの癖でしょうか、はっと目を開ける。丑三つの鐘でも鳴らしていたのでしょうか、日が落ちて眠ったつもりでも、同じような時間になると目が冴えてしまうんでございます。
真夜中の山奥の古寺の中にしちゃ、異様な物音がする。
「さては面妖な」
と、小さく呟きまして、そっと立ち上がった瓏左。抜き足差し足忍び足も慣れたもので、音のするほうへ向かった。
本堂の出ますと、裏手の墓地から音、そして喘ぐ声が聞こえた。すでに龕灯の細い光が瓏左にも見える。
息を潜めて物影から様子を伺いますと、黒ずんだ紫色の夜空の下、住職と甲念が身体を重ねていた。
野太い息遣いから、土竜坊が、
「ほうれ、聞こえるか? まだ聞こえぬか?」
「……聞こえませぬぅ、くはぁっ!」
「この下に、みよがおるのだぞ? よぉく耳をすませぇ、一心不乱に耳を傾けるのじゃぁ」
瓏左は状況から素早く事態を組み上げた。
どうやら、うつ伏せの甲念は墓土に顔面を押し付けられ、住職に責め立てられている様子だ。
「甲念! お前が殺したいから殺したんだろっ!」
「ち、違いまするぅうぐぅ」
住職の嘲笑交じりの下卑た声が、
「好いた女をどうしたかった? 襲ったんだろ! 奪っおうとしたんだろうっ! だが、抵抗された! 逃げ出そうとした! だから、お前はっ!」
「ち、違っぎがっ」
「殺してから犯したのか! それとも殺しながら犯したかっ!」
「ぐはぁ」
「甲念! お前が白状せん限り、みよは浮かばれぬわっ! お前の真下、この土の中でその身ごと、魂も腐らせて、穢れておるのだぞっ!」
「殺してないっ!」
「ならば、なぜ、死んだ!」
「し、知らないっ! 知らなぁぎゃぐぼ」
「えぇぃっ! 強情な奴め、どうしてくれようか」
「あてぇくひぃも、穢れひぃて」
「そうかそうか。語らぬというのなら、お前も、みよと仲良く穢れてしまえっ!」
「あぁぁーっ!」
物影の瓏左は吹き出しそうなのをこらえながら、覗き見ておりました。
「こいつはとんだ衆道だ」
と、彼は思いました。
機械的同性愛の状況的代償行為として愛玩対象との性愛を説く場合もございます。が、この夜のモグラ念者と若衆との交わりは、色道とは言い難い様子でございます。
「ったく、何やってんだかなぁ」
笑いをこらえるのが必死の瓏左でございます。
ところが、今夜に限って、甲念の様子が違う。そう感じてしまった土竜坊でございます。毎夜のように、あれこれやっておりますから、違和感があるとわかってしまうんでございます。
「甲念……貴様、まだ何か隠しているなぁっ!」
「うごぐがぼぉ」
「白状せぇぃっ!」
こらえきれず、甲念の口から出たのは、
「瓏左様っ!」
いきなり名前が出たものですから、瓏左も、足元に力が入ってしまった。砂を掴む音が墓地に容赦なく響いてしまったのでございます。
「……誰だぁ?」
不敵な笑みを浮かべ、龕灯を持ち上げ、音のしたほうを照らします。
すでに、物影には瓏左の姿はありません。
「……まぁいい。どのみち、今夜。バッサリ殺っちって、身ぐるみはいじまうんだからな」
と、甲念に聞こえるように土竜坊は言い放ちますと、夜風にさらされた彼を再び……何度も述べるようなことでははございません。
♪
墓地に甲念をほったらかしにしまして。コトを済ませた土竜坊はひとり、龕灯を手に本堂へやってきた。
瓏左は座禅を組んでおります。
土竜坊が、
「しらばっくれようったて、そうは問屋が卸さねぇ。見られたからにゃ生かしちゃおけねぇってわけでもねぇが、お前には死んでもらう」
すると、瓏左は左目だけ開いて、
「……生死事大、無常迅速。無常念々、生死不定」
土竜坊、旅路の頃から携えておりました道中刀を抜きますと、迷うことなく切っ先を瓏左に放つ……んですが、かすりもしない。
あっという間に、刀が叩き落とされて、組み伏せられてしまった。
「ちくしょぉっ! てめぇ! 何者ぉんだっ?」
「……怨親平等」
「何ぃ言ってやがるっ! てめぇ!」
「俺が此処に来たのも、何の縁か導きか、陰のこもった鐘に誘われて参じた次第よ」
誰もいないはずなのに、梵鐘がひとつ、かぼそく鳴る。
また、ひとつ。また……ひとつ。鐘の音は、だんだん強くなって、鳴り響くほどに本堂は冷え込んできた。いきなり真冬が本堂にやってきたような、白い白い靄がかかる。
「やぃ、モグラ! テメェには聞こえたか? あの鐘の音が! とくと聞きやがれっ!」
「な、なにを?」
「聞こえるか? まだ聞こえぬか?」
「……何だってんだ、てめぇ!」
「此処に、みよがおるのだぞ? よぉく耳をすませぇ、一心不乱に耳を傾けやがれっ!」
「けっ! 鐘の音が何だってんだ! 何だってんだ!」
瓏左が一喝した途端、龕灯の灯がふっと消えた。
静かになった。
唇が青ざめるほど冷え込んだ本堂が、なんとも異様な薄紅色の闇に包まれる。伏せられた土竜坊……否、土竜の五助が呻き声をあげながら、もがいておりますと、見えた。
ボロ板のに立つ者の足が見えたのでございます。小さくて、細くて、白い素足が。そして、雫がぽたり、ぽたぁり落ちていた。
五助が顔が目を見開きながら、その足を見上げますと、水の滴る濡れ髪の、おみよが、じっと五助を見下ろしている。
「お、おみよ?」
彼女の亡霊でございます。
瓏左は目を閉じますと、念仏のようなものを唱えております。
みよの手に握られますは、梵鐘を鳴らす撞木でありました。そいつをゆっくりと振り上げまして、五助の脳天めがけて、まっすぐ振り下ろすっ!
一撃で脳天は砕けやしません。そんなに力は強くないものですから。痛いには痛いんでしょうが、なんせ、力っ気のない女の子の幽霊のやることですから。
畢竟、何度も叩くこととなります。
夜が明けるまで、続いたとか。
♪
翌朝のことでございます。
本堂には、頭も顔も腫れあがって、あんぐり開けた口に撞木をくわえさせられた血まみれの五助がひっくり返っておりました。
朽ちた仏像に向かって、甲念は一心不乱に読経しております。瓏左から頂いた経本を見台に置き、何かをかなぐり捨てるように、声を響かせておりました。
瓏左の姿は、すでにありません。
(了?)