水野玲子は、重い体を引きずるようにしてやっとの思いで自宅のドアをくぐった。
ポケットの中のスマートフォンが、けたたましく鳴り始める。
「水野?お前、また拗ねてるのか。」電話の向こうから
玲子は携帯を握りしめ、指の関節が白くなる。
「……すごく、疲れてるの」
「書類を、今すぐ会社まで持ってこい!」
相手は有無を言わせず、命令を下してきた。
電話は一方的に切られ、ツーツーという音だけが静かな空気に響く。玲子の肩はがっくりと落ち、口元には自嘲気味の苦い笑みが浮かぶ。
その書類の案件など、どうでもいいはずなのに。
彼はただ、機嫌が悪いから意地悪をしているだけだ。
表向きは彼の秘書、だが端的に言えば、表に出せない愛人。
玲子は虚しく微笑んで首を振る。今では、その愛人という立場すら守れなくなった。
だって、彼の本命が戻ってきたのだから!
エレベーターは神崎財閥本社の最上階へと直通する。
「入れ。」内側から神崎航の冷ややかでよそよそしい声が聞こえる。
玲子は静かにドアを押し開けた。すると次の瞬間、甲高い女の声が響いた。
「航、今大事な話してるのよ。なんで外の人間なんか入れるの?」
玲子の足がわずかに止まり、平静を装って書類を机に置く。視線は下げたまま、誰の顔も見ようとはしなかった。
「俺が帰っていいと言ったか?」
神崎航は腕に女を抱いたまま、切れ長の目尻をわずかに寄せ、深い瞳で入り口の玲子を睨みつける。
玲子は背筋を伸ばし、なるべく平坦な声で答える。「ただいま、大切なお客様をお迎え中かと……」
「お客様?私はあなたたち社長の婚約者よ!」傍らの女は腕を組み、まるで孔雀のように傲慢な態度を見せる。
玲子は唇を噛みしめる。
彼の婚約者になる夢は、遥か遠いものだったのに、今や他の人間に簡単に実現されてしまった。
白石美咲は玲子を横目で見下し、わざとらしく言う。「航、所詮ただの平社員でしょ?あなたの気分を害したなら、クビにしちゃえば?」
「彼女にそんな価値もない。」神崎航は机を指でコンコンと叩き、唇の端から軽蔑がにじみ出る。
美咲はますます得意げに鼻を鳴らす。
「そうよね、何様のつもりかしら。」
玲子は反論すらせず、慌ててドアを開けて出ていった。
ドアが閉まるやいなや、美咲はやっと我に返ったように声を荒げる。
「何あの態度!絶対クビにしなきゃ!」
神崎航の瞳に、一瞬だけ捉えがたい意外の色がよぎる。
何かに気づいたように、淡々と言った。
「まだ置いておけ。少しは使い道がある。」
深夜、家に帰った水野玲子は全身の力が抜け、ソファに顔を埋める。
しばらくそのままで、やがてゆっくりと起き上がり、深呼吸して目元の涙を拭き取り、バスルームへ向かった。
その時、玄関の電子ロックが「ピッ」と小さく鳴った。
玲子が髪を拭きながらバスルームから出てくると、思わず息を呑む。
薄暗い照明の下、男の横顔が浮かび上がる。表情は読み取れない。
「社長……?どうしてこんな時間に……」
婚約者とラブラブしているんじゃなかったの?
神崎航がここに来るのは本当に久しぶりだった。彼はいつもそうだ。気が向いた時だけ甘い言葉を与え、飽きたら何も言わずに去っていく。
「……ああ。」
神崎航は多くを語ろうともせず、そのまま部屋に入ってくる。
玲子は慌てて制止しようとする。
「狭いですし、ちょっと……」
「水野、」神崎航はジャケットを無造作にソファに投げ捨て、苛立ちを隠さず遮る。
「何をとぼけてる?俺たちは持ちつ持たれつの関係だろ。六本木のマンションに住んでないのか?カードの金が足りないのか?一体何のつもりだ?」
普段は寡黙な彼が、こんなに話すなんて、まるで被害者のようだ。
玲子は一瞬、虚ろな目をした。
「全部お返しします……」
引き出しを開け、一度も使ったことのないキャッシュカードをそのまま差し出す。
「明日には出ていきます。」
その時、彼が初めて彼女をまともに見た。キャッシュカードは彼の手によって勢いよく振り払われ、「バシッ」とソファの下に飛んだ。
「反抗期か?」
神崎航は玲子の細い手首を強く掴み、ぐっと引き寄せる。
玲子はよろめき、彼の胸の中に倒れ込む。
彼は怒りをにじませた声で言う。
「それとも、最近俺が手を出さなかったからか……」
玲子は抵抗しようとするが、力の差は歴然だ。目に涙がにじむ。
「もう疲れたんです、社長、お願いです、解放してください……」
神崎航の顔が一瞬だけ曇り、すぐに皮肉げに言った。
「最初に俺のベッドに潜り込んだのはお前だろ。もう次の男でも見つけたか?」
心臓が引き裂かれるような痛み。玲子は静かに目を閉じ、涙を隠した。
それでも彼は許そうとしない。冷笑を浮かべて言う。
「この数年、楽しんでなかったとでも?」
その言葉が終わるより早く、彼の唇が罰のように激しく玲子を塞ぐ。強引に唇をこじ開け、支配する。
二人の体は密着し、懐かしいフェロモンの香りが広がる。玲子の涙が、何の前触れもなく溢れた。
玲子は苦しそうにもがきながら、
「航、やめて!最低だ!」
必死に抵抗する。彼がさっきもしかしたら白石に同じことをしていたかと思うだけで、吐き気がこみ上げてくる。
彼女の目に浮かぶ明らかな嫌悪を見て、神崎航はますます激昂し、玲子の両手を頭上で押さえつける。
「水野、俺に逆らうつもりか?正気かよ!」
「そうよ!私はもうおかしくなったの!私たちは終わり!これで完全に終わりよ!」玲子は涙を堪え、彼の怒りを真っ直ぐに見返す。
「終わりか?俺がそう言わない限り終わりじゃない!」
神崎航は力任せに、何の前触れもなく玲子を貫いた――