「6506——」
早川遥は送信ボタンを押した。
このメッセージは、恋人である伊藤裕久に送ったものではなかった。
この決断は、彼の裏切りを目の当たりにしてから三十分後に下したものだ。
そのとき、「海見亭」の奥まった席で、派手な真紅のネイルをした女の足が、彼のスーツの裾を堂々と撫でていた。二人の視線や仕草からは、慣れた様子と楽しげな空気がはっきりと伝わる。
チャイムが鳴り、遥は現実に引き戻された。
彼女は身にまとった特別なバスローブをぎゅっと握りしめる——本来なら伊藤裕久が自ら開封してくれるはずだった誕生日プレゼントだ。
ドアを開けた瞬間、熱気と冷たいウッディな香りが一気に押し寄せる。
抗うことのできないキスが、遥の息をすべて奪った。男の熱を帯びた瞳が、視界いっぱいに広がる。
彼の高い鼻筋が彼女の鼻先をかすめたとき、遥はようやく相手が陸だと気づいた。
黒沢陸は、遥に余裕を与えるつもりはなかったようだ。
バスローブから覗く肌に一瞥をくれると、彼は迷いなく腕を伸ばし、遥を冷たい姿見の前に押し付ける。鏡には二人の影が重なって映っている。
一瞬の戸惑いのあと、遥はそっと目を閉じ、自分自身をこの未知の渦に委ねた。
彼の熱を伴う応えは、遥の記憶にある冷静で距離を保つ彼のイメージとはまるで違っていた。
遥が自分の意識が浮かんでは沈むのを感じていたその時、エレベーターの「チン」という音が静かに響いた。
玄関先には裕久の姿。鏡越しに見えたのは、陸が片手で遥の手首を頭上に固定し、もう一方の手でゆっくりと彼女の頬にかかる髪を払う姿。広い肩と背中が、遥を完全に包み込んでいた。
裕久が怒りで今にも飛び込んできそうな瞬間、陸はふと顔を傾け、唇の端に挑発的な笑みを浮かべた。裕久の顔から一気に血の気が引く。
陸は長い脚で後ろを蹴り、重いドアが鈍い音を立てて閉まり、カチリと鍵がかかる音が響いた。
あの光景は、きっと裕久の心に深く刻まれるだろう。——だが、それが何だというのだろう?
「初めてだったのか?」
暗がりの中、陸の声は熱の余韻を残してかすれていた。
遥は何も答えなかった。だが彼の動きは明らかにゆっくりになり、最初の激しさは影を潜める。
後半、遥の記憶に残っているのは、自分がツタのように彼にしがみついていたことだけだった。
以前、飲み会で誰かが冗談交じりに「黒沢さんって見た目からして凄そうだよな」と言っていたことを、ふと思い出す。次は自分がその証人になれるかもしれない、と遥はぼんやり思った。
午前4時30分。
スマートフォンを充電器に挿すと画面が点灯し、30件もの不在着信が通知欄に並ぶ。すべて知らない番号からだった。
遥はかけ直す気も起きなかった。どうせ裕久が自分にブロックされたと気づき、他人の携帯を借りているだけだろう。
窓の外はまだ薄暗い。目覚めたとき、隣のベッドはすでに冷たく、陸がもう出て行ったことが分かった。
床に散らばっていた服は整然とソファの上に畳まれ、エアコンの温度もちょうどいい。
遥はゆっくりと身を起こし、今までの陸への評価がいかに一面的だったかを思い知る。少なくとも昨夜の体験は「素晴らしい」だった。
ここにいる理由はもうない。もともと裕久の誕生日のために来ただけだが、今となっては不快な思い出しか残らない。会社に戻って仕事でもした方が、よほど自分のためになる。遥はいつだって自分を大事にしてきた。そう決めて、スーツケースから着替えを選び始める。
そのとき、バスルームのドアが「カチャリ」と開いた。
陸は、汗を流して戻ってきたとき、思いがけない光景に出くわした。
女性が背を向けて立っている。すらりとした背中から、なだらかな腰のライン。柔らかなウェーブのかかった長い髪が白い肌を際立たせる。
情事の余韻が残っているのだろうか、肌にはうっすらと紅がさしている。
まるで闇に咲く妖艶な花のように。
陸の脳裏には、その一言しか浮かばない。
遥は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに振り返り、これまでにない大胆な視線で彼を上から下まで見つめた。以前の、規律正しく近寄りがたい陸のイメージは、昨夜で完全に壊れ去っていた。
陸は堂々とその場に立つ。滴る水滴が、鍛え抜かれた体を伝い、腰のバスタオルの端へと消えていく。
薄暗い明かりの下、遥は思わず口笛でも吹きたくなるような衝動に駆られた。
「黒沢さん。」
声を出そうとすると、喉がひどくかすれていた。
低く短い笑いが、彼の喉から漏れる。
今さら形式ばったやりとりなど、意味がない空気だ。
遥は開き直って言った。
「そんなにじっと見られると、困るんだけど。」
彼はタオル一枚でも一応身を隠しているけれど、自分は濡れた髪しかまとっていないのだから。
「もう一度、どう?」
「……え?」
首を硬くして振り向き、今のが空耳だったのかと疑う。
「パチン」と部屋の最後の灯りが消えた。強い腕が彼女の腰を抱き上げ、遥は反射的に彼の首にしがみつく。
意識が溶けていくなか、熱い息が耳もとをかすめる。
「ごめん、どうしても……もう一度、味わいたくなった。」