小野鈴がレストランを飛び出したとき、黒澤凛の拳はすでに高橋健太の顔に命中していた。
「さっさと消えろ。お前なんかが俺の女に手を出せると思うなよ。」
黒澤凛の声は氷のように冷たかった。
鈴は顔色を変え、焼けつくアスファルトの上をヒールで踏みしめ、足首をひねりそうになりながらも健太のもとへ駆け寄った。
彼の口元には血が滲み、頬骨はみるみる腫れていく。鈴は彼の腕を掴み、冷たい指先で問いかける。
「健太、大丈夫?」
「平気だよ。」
健太は血をぬぐい、低く答えた。
鈴は彼の前に立ちふさがり、凛をまっすぐ見据えた。
「黒澤くん、前にも言った通り、私は婚約者がいます。あなたの先生でもある……」
「そんな役立たずの男が?」
凛は鼻で笑いながら、鈴の肩越しに健太を睨みつけた。
「殴られても女の後ろに隠れるだけとは、情けないやつだな。」
「なにを……!」
健太は怒りで身を乗り出そうとしたが、鈴が必死に腕を掴んで止めた。彼女の顔は真っ青で、諦めたように首を振る。
黒澤家の力には到底太刀打ちできない。鈴はただ穏やかに暮らしたいだけだった。
「どうした?」
凛は健太が動けない様子を見て、さらに冷たい笑みを浮かべた。
「今日、目の前でお前の女を奪っても手も出せないくせに。明日になったら、もっと権力のある男が現れたら、嬉々として女を差し出すんじゃないか?鈴さん、本当にこんなんでいいの?」
どこまでも辛辣な言葉に、鈴は深呼吸をしてから答えた。
「婚約者のことは、私が一番よく知っています。黒澤くん、ご心配なく。来月には結婚します。あなたには、もっと素敵な女性が見つかるはずです。」
凛の表情が一気に険しくなった。その時、背後から低い声が響いた。
「凛。」
振り返った凛は、驚いた顔で言った。
「叔父さん?明日戻るはずじゃ……」
黒澤征――彼の父の弟で、長年黒澤重工の海外事業を任されてきた人物。最近になって日本へ戻ってきたばかりだ。
「予定を変えた。」
征は事務的に答え、向かい側を見やった。鈴の横顔を捉えた瞬間、ごくわずかにその瞳が細められる。
女性は不安げに健太の腕を支え、震える指先で彼の傷口に触れている。紅潮した目元は、今にも涙がこぼれそうだった。
ふいに脳裏によぎる光景――
薄暗い部屋で、泣きながら袖を掴んで「征、お願い、少し優しくして……」と懇願する細い手。
あれから何年経ったのか。
蒸し暑い横浜の七月、夜風が熱気を運んでくる。
征は感情を押し殺し、凛に尋ねた。
「何があった?」
「女を追いかけてた。」
凛は鈴を顎で指し示す。
「小野鈴、俺の英語教師。俺が認めた人。」
その言葉に、鈴ははっと振り返った。
不意を突かれ、底知れぬ眼差しとぶつかる。心臓が止まり、全身の血が凍るような感覚――
まさか、彼がここにいるなんて。
なぜ横浜に?
さっき凛が呼んだのは……叔父?
「叔父さん、鈴を驚かせちゃいましたよ。」
凛は征の肩を軽く叩く。
「この後、予定があるんでしょ?邪魔しませんよ。」
鈴の反応は予想通りだった。征の圧倒的な存在感には、誰もが初対面で圧される。
「そうか。」
征は袖口を整えながら、微笑を浮かべて鈴を見つめる。
「鈴さん?」
鈴は身動きできず、手のひらに爪を立ててその場に立ち尽くした。
健太は鈴の異変に気づき、すぐに肩を抱いて守ろうとする。
征は健太の腕が鈴の肩に回るのを見て、口元にわずかな笑みを浮かべ、再び鈴を見つめた。
鈴は慌てて視線をそらし、健太の腕を強く握った。
「健太、行こう。」
しかし健太は動かず、征を正面から見据えた。
「黒澤さん、甥御さんの行動にはご配慮いただきたい。私の婚約者への迷惑行為は、これ以上見過ごせません。」
征は眉を少し上げた。
「結婚するのか?」
「来月です。」
健太は落ち着いた口調で答える。
征はくすりと笑い、凛に目を向ける。
「聞こえただろう?」
「……」
征は片手をポケットに入れ、背を向けた。
「行くぞ。」
……
圧倒的な存在感の二人が街角に消えるのを見届けると、鈴は張り詰めていた力が抜け、ふらりとよろめいた。
「鈴!」
健太が慌てて支える。
「顔色が……大丈夫か?」
「……足をひねっちゃって、痛いの。」
鈴は伏し目がちに、健太の腕を握る手が冷たく湿っていた。
「病院に行こう!」
健太はすぐに彼女を抱き上げ、駐車場へと急いだ。
「平気よ。」
鈴は彼の肩に顔を寄せ、弱々しく言った。
「帰って薬を塗ればいいから。」
星煌クラブ最上階の個室。
征は友人たちと軽く挨拶を交わしてから席に着いた。凛はグラスに酒を注ぎ、一気に飲み干した。健太のことを思い出し、まだ納得がいかない様子だった。
「あんな臆病者のどこがいいんだよ。」
征はグラスを手に、琥珀色の液体を静かに揺らす。
「真面目な人間は、結婚向きだ。」
「まるで鈴が妥協して結婚するみたいな言い方ですね。」
凛は皮肉っぽく笑った。征は黙って酒を口にした。
凛はさらに続ける。
「調べたんですけど、彼女、俺より七つ上で、付き合ったのも健太だけみたいです。あんな地味な男に騙されたんじゃないですか?見た目は結構純粋そうですし。」
征はごくわずかに唇の端を上げた。その笑みはすぐに消える。
本当に「純粋」だ。
凛はすぐに友人たちに呼ばれ、カラオケへと向かった。
征はグラスを置き、スマートフォンを取り出す。冷たい光が静かな横顔を照らす。無言のまま一件の指示を送った。
【小野鈴、高橋健太。明日までに全ての資料を。】