「やるべきことは全部やった。」隼人は足を止めることなく、横にいる奈央に目を向けた。「おじいさんは僕たちに心配をかけたくないんだ。明日来る時は、今みたいな顔をしないようにしてあげて。」
奈央は黙って隼人の後を追い、返事はしなかった。おじいさんが苦しそうにしている姿を見ると、どうしても冷静を保つことができなかった。
「最近はできるだけおじいさんと一緒に過ごしてあげて。たまには子どもたちも連れてきて、家族の時間を楽しんでほしい。きっと気分も晴れるし、少しは楽になるかもしれない。」隼人が続けた。
奈央はすぐに頷いた。「分かった。明日、子どもたちを連れてくる。」
車の前に到着すると、小林がドアを開けて待っていた。「月島様、奥様。」
隼人は歩みを止め、後ろについてきた奈央に顔を向けた。「一緒にご飯でもどう?」
奈央は一瞬戸惑ったが、すでに車まで来ていたことに気づいた。ここで断るのは少し冷たすぎる気がする。彼がおじいさんの話をした時の落ち込んだ様子が思い出され、胸が締め付けられた。
「家で食べてきたけど……少し付き合うわ。」奈央は落ち着いた声で答えた。
二人が車に乗り込むと、小林が近くのレストランへ車を走らせた。道中は無言のまま、奈央は隼人の固く結ばれた唇を横目で見た。慰めの言葉が喉元まで出かかったが、結局何も言わなかった。
レストランでは、二人は見晴らしの良い席を選んだ。
隼人がメニューを広げた。「何か食べたいものは?」
奈央は少し驚いた。結婚して二年、二人きりで食事をすることはほとんどなく、いつもそれぞれ好きなものを頼むだけだった。彼から好みを聞かれたことなどなかった。
「お腹は空いていないわ。」
「ここのスープは美味しいよ。頼んでおこうか?」彼は奈央が授乳中だということを思い出した。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
不意に訪れた穏やかな空気が、かえって奈央を緊張させた。冷たく距離を保つ隼人の方が、よほど慣れている気がした。
注文を終えたところで、後ろから声がかかった。「隼人?やっぱり!」二人は顔を上げて固まった。
玲奈がいた。
彼女が近づき、奈央の存在に気付いて少し笑顔を和らげた。「もう一時じゃないの、こんな時間に食事?」
「うん、さっきまで病院でおじいさんを見舞ってたんだ。」隼人が答え、少し首をかしげた。「玲奈は一人?」
「いいえ、明彦があとから来るの。今日は出張から帰ってきたから迎えに行ったのよ。今電話中だけど。」と言っているうちに、黒崎明彦が店の入り口に現れた。
玲奈が手を振った。「こっちよ、明彦!」
明彦は隼人に気付き、目を丸くした。「なんだ、偶然だな。ちょうどあとで話したいことがって、一度会ってみようかと思ってたのに。」スーツは少しよれて、忙しさが窺える。奈央に軽く会釈した。「久しぶりですね、奈央さん。」
奈央も挨拶を返した。「お久しぶりです、黒崎さん。」
玲奈が夫の腕に絡みつく。「ここに座って、一緒に食べようか?」
明彦は奈央の方を見て、「奈央さん、構わないか?」
「人数が多い方が賑やかで楽しい。」
明彦が隣の席を指差した。「どうぞ、こちらに。」
玲奈は口を尖らせて、甘えるように言った。「やだ、あなたの隣がいい。最近全然一緒にいられなかったじゃない……」その様子はとても愛らしい。
奈央は、隼人がそっと視線を逸らしたのを見逃さなかった。
明彦が困ったように奈央を見たので、奈央はすぐに立ち上がった。「じゃあ、私、こっちに移るね。」そう言いながら隼人の方を見て、少し問いかけるような目を向けた。
隼人はすぐに立ち上がり、通路側の席を譲った。「奥の席は料理を取りやすい」
「ありがとう。」奈央は彼の前を通り奥の席に座った。
明彦は二人を見て冗談めかして言った。「お互いにきちんと礼儀正しい、良い夫婦だね。」
奈央は目を伏せ、耳がほんのり赤くなった。隼人は変わらぬ表情で、何も言わなかった。
玲奈は二人をじっと観察し、奈央の表情を確認して、ふと心の中で思った——もしかして、長く一緒にいるうちに愛情が芽生えたのかしら?
女の直感で、この二人の間に微妙な空気を感じ取った。
料理が運ばれ、奈央以外の三人が食べ始めた。玲奈は奈央がスープしか口にしていないのを見て、「あんまり食欲ないの?」と聞いた。
奈央は少し驚いたように玲奈を見て、すぐにまたスープを口にした。「家で食べてきたの。隼人がまだ食べてないから、付き合ってるだけ。」
その言葉が玲奈には、まるで仲の良い夫婦をアピールしているように聞こえた。玲奈の顔が少し曇った。彼女は夫に向き直った。「あなた、エビむいてくれる?」
明彦は隼人と仕事の話をしていた最中で、軽く「後でね」と返した。
玲奈は不満そうに唇を噛み、目に涙が浮かびそうだった。
そんな玲奈を見て、隼人はさりげなくエビを取り、手際よく殻をむいて彼女の器に入れた。
「ありがとう、隼人!」玲奈はぱっと明るい顔を見せた。
以前から、明彦はこういうやりとりに慣れていた。三人は幼い頃から兄妹のように育ち、二人の男性が玲奈を甘やかすのは昔からのことだ。ただ、今日は奈央も同席している……明彦の視線が隼人に向けられる。
隼人はその視線に気づき、はっとして不適切さに気づいた。
慌ててもう一つエビをむき、奈央の皿にそっと置いた。
奈央は複雑な表情を浮かべた。隼人が玲奈にエビをむいた場面を見て、少し驚いた。いくら仲が良くても、人の夫がその場で他人の妻にこんなことをするのは、やっぱり違和感がある。でも、彼が自分にも配慮してもう一つむいてくれたのは意外だった。
ただ、残念ながら奈央はそれを食べられない。
「ありがとう……」奈央は落ち着いて礼を言い、エビを隼人の皿に戻した。「私は食べられないの。娘がアレルギー体質だから、私がエビを食べて授乳すると、妹が湿疹を起こしちゃうの。」
テーブルの空気が一気に凍りついた。