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夜守の鍍えたる墓草
夜守の鍍えたる墓草
キノコ
恋愛現代恋愛
2025年07月03日
公開日
2.6万字
連載中
日向家が没落した年、高梨美桜は日向将平に最大の裏切りを突きつけた――彼の目の前で、宿敵である周防達也の車に乗り込んだのだ。 その後、将平は再起し、あらゆる手段を使って美桜を妻にした。 誰もが、彼が美桜に深く愛情を注いでいると思っていた。 けれど、現実は違った。 将平は毎晩のように違う女を家に連れ込んだ。中には、かつて美桜をいじめていた白鳥紗耶香の姿まであった。 日向将平は美桜を、完全に笑い者にしたのだ。 美桜は一切泣きもせず、騒ぎもせず、全ての屈辱を静かに受け入れた。 彼は苛立ち、乱暴に彼女の唇を奪い、かすれた声で問い詰めた。「少しも嫉妬しないのか?」 彼は知らなかった。 彼女の命は、もう残りわずかだということを。 彼が復讐に燃えているその日々、彼女は心の中で、去る日を指折り数えていた――

第一話 なぜ運命の相手が宿敵なのか


「高梨美桜、最終審査を通過したことをおめでとう。」


薄暗い連絡所で、男が銀色のバッジを彼女の前に差し出した。


「コードネームは『ヒバリ』。休眠用の薬剤はすでに投与済み。死亡後、記憶リセットのプロセスが実行される。」


「エージェントになる代償、分かっているな?」


「分かっています。」


あまりにも、よく分かっていた。

その代償とは――自分の前半生が、完全に消し去られること。


組織は彼女の「死」を偽装し、記憶を消し去り、新しい身分で生き直させるのだ。


高梨美桜はバッジを受け取り、その冷たい縁を指先でなぞった。


左肩の傷からはまだ血が滲んでいる。弾丸がかすめた焼けるような痛みが鮮明に残っていた。


だが、それ以上に彼女の心を締め付けるのは、これから向き合わなければならない日向将平の存在だった。


深く息を吸い込み、彼女は別荘の扉を押し開けた。



リビングからは、女の甲高い甘ったるい笑い声が響いていた。

今日で何人目だろうか。もう覚えていない。


「将平様、このカーペット、すっごくふかふか~」


美桜の足が、思わず止まる。


この声は、間違いなく――白鳥紗耶香だ。


かつて美桜をアトリエに閉じ込め、カッターで背中に「卑しい女」と刻み込んだ悪魔その人。


今、将平はその悪魔を優しく腕に抱き、目の前で愛情を演じている。

やはり、身近な人間ほど人を傷つけるものだ。


美桜への復讐のため、将平は彼女を破滅させかけた悪魔さえも平然と受け入れたのだ。


「将平様~、このお手伝いさん、ずっと私のこと見てる。ちょっと気味悪いわ~」


将平はソファに身を沈め、長い指で無造作に紗耶香の髪を弄びながら、「気にするな、ただの下僕だ」と答える。


そして美桜に冷ややかな目を向け、口元に皮肉な笑みを浮かべた。


「帰ったのか。ちょうどいい、ワインセラーから赤ワインを取ってこい。」


札束が足元に投げつけられる。

「余った分は、お使い代だ」と彼の視線が美桜の肩の傷をなぞり、嘲りを込めて言う。「結局、お前が一番好きなのは金だろ?」


心臓が、ぎゅっと締め付けられる。

美桜は足早にワインセラーへ向かった。


別荘を出ると、冷たい夜風が彼女の体を震わせる。

見上げれば、温かな灯りがともる高窓が見えた。


三年前も、こんな寒い夜だった。


将平は父を亡くし、家が破産するという二重の苦しみに打ちひしがれていた。


そのとき、美桜は彼の目の前で、宿敵・周防達也の車に乗り込んだ。


彼は車を追い、三つの通りを全力で走った。


あんなに誇り高かった将平が、泥にまみれ、雨の中で倒れながら「もう一度だけチャンスをくれ」と懇願した。


だが美桜は冷たく窓を閉め、彼が猛スピードのトラックに弾き飛ばされるのを、ただ見ていた。


後で聞いた話では、彼は肋骨を二本折り、三か月も入院したという。


そして今、彼は実業界の新星となり、まず最初に美桜を無理やり妻にし、日々恥辱を与え続けている。


ワインを手に戻ると、将平はバスタオル一枚で片手を招いた。


美桜はぎこちなく彼のあとを追い、寝室へ入る。


空気には色事の余韻が漂い、ベッドは乱れ、バスルームからは水音が聞こえる。


「片付けろ」将平はしわくちゃのベッドを指し、「バスルームに紗耶香の服を持っていけ」と命じる。


美桜は無感動にベッドを整え、床に落ちた服を拾い集める。


指先が黒いレースの下着に触れたその時、手首を将平に強く掴まれた。


「何か言いたいことはないのか?」その低い声には、危うい気配があった。


美桜は静かに見返した。「朝食のご準備はいりますか、社長?」


将平の目が一瞬で冷たくなる。


彼は美桜を乱暴に壁に突き飛ばし、体を押し付けた。


「三年ぶりに会ったら、随分と強くなったもんだな。」


将平の呼吸からは酒と、あの女の強い香水の匂いがした。


心臓が激しく高鳴っても、顔には何の感情も浮かばない。


「なぜ、よりによって彼女なんですか?」掠れた声で問う。


「彼女が私に何をしたか、知ってるでしょう?」


将平はゆっくりとカフスを留めながら答える。


「知ってるさ。だから何だ?」


「辛いのか?」


突然、顎をきつく掴む。


「あの時、お前が俺をゴミのように捨てたときは、辛くなかったのか?」


彼の吐息には、紗耶香の香りが混じっている。


「お前が一番憎んでいる相手に、すべてを奪われるところを、俺はこの目で見たいんだ。」


美桜はふっと笑った。


「社長、冗談はやめてください。三千万円で買われた女に、傷つく資格なんてありません。」


彼女はその手を振りほどき、部屋を出ていく。


誰も見ていない。彼女が去り際、爪が掌に食い込み血が滲んでいたことを。


誰も知らない。あの時、彼女がこっそり病院に行き、彼に輸血したことを。


誰も知らない。この肩の傷が、彼を守るために受けた銃弾によるものだということ――その殺し屋は今、西多摩の廃工場で眠っている。



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