◆
井澤孝則は神だった。
少なくとも、ブラウザの中に開かれたその世界においては。
彼の指がキーボードを叩くたび物語世界の天候は荒れ、登場人物たちは彼の意のままに愛し、憎み、そして死んだ。
六畳一間の安アパート──その隅に設えられたPCデスクの上だけが井澤の世界のすべてであり、彼が唯一全能でいられる場所だった。
彼の主戦場は国内最大手のウェブ小説投稿サイト「ノベライゼーション・ネクスト」。
そこで彼は『赫奕たる地平』という異世界ファンタジーを連載していた。
日間ランキングは最高で三十位。
決して悪くない数字だが、井澤の肥大した自己評価を満たすにはあまりに物足りなかった。
そんな「彼の苛立ちの矛先は常に読者に向けられた。
「誤字報告です。✕✕ではなく、〇〇では?」
「最近、展開がマンネリ気味ですね。初期の勢いが好きだっただけに残念です」
「主人公の行動理念がブレていませんか? ご都合主義に感じます」
画面に表示される文字列を井澤は無感情に目で追う。
感想に返信することはない。ただコメント削除のボタンを押し、続いてユーザー名の横にある「ブロック」をクリックする。
害虫を駆除するような、淀みない作業。
これでその読者は二度と井澤の作品に感想を書けなくなる。
彼の聖域から永久に追放されるのだ。
「毒者は要らない」
誰に言うでもなく、乾いた声が漏れた。
彼の神殿に傅くのは盲目的な信者だけでいい。
批判、指摘、あるいは善意からの助言でさえ、彼の世界を汚す不協和音でしかなかった。
井澤の神としての権能は、それだけに留まらなかった。
現実世界で彼の神経を逆撫でする人間がいると、彼はその人物を物語の中に「出演」させた。
会社の営業部でいつも井澤の企画をせせら笑う高木部長。
彼は物語の中では豚頭のオーク「タカギ」となり、主人公の投げた槍に頭を貫かれて絶命した。
アパートの隣室で深夜まで馬鹿騒ぎを繰り返す大学生たち。
彼らは、魂を持たないグール「ヤマダ」「サトウ」として登場し、生きたまま肉体を貪り食われた。
.jsonファイルとしてローカルに保存された「処刑リスト」には、これまで彼が社会生活を送る中で蓄積してきた取るに足らない、しかし本人にとっては耐え難い恨みの対象が十数名分リストアップされていた。
それは安全な場所から石を投げるような、陰湿で矮小な復讐である。
だがそれで彼の卑小な精神はかろうじて均衡を保っていた。
作中で憎い相手が惨たらしい死を遂げる様を読み返すとき、井澤の口元にはいつも微かな笑みが浮かんでいた。
◆
異変の最初の兆候は、月曜日の朝礼で訪れた。
支店長が、沈痛な面持ちで口を開いた。
「──皆に、悲しい知らせがある。営業部の高木部長が、先週の土曜日……登山中の事故で亡くなられた」
ざわめきが広がる。
井澤はその音をどこか遠くに聞きながら、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
高木部長。
タカギ。
豚頭のオーク。
槍。
頭。
偶然だ。
世の中にはそういうこともある。
井澤は自分に強く言い聞かせた。
高木の趣味が登山だったことなど彼は知っていた。
週末に山へ行くことも、珍しい話ではない。ただ、タイミングが重なっただけ。
そうだ、それだけのことだ。
しかしその一週間後、アパートの階段で普段は見かけない黒い背広の男たちとすれ違った。
隣の102号室のドアが開け放たれている。
漂ってくる、鼻を突くような甘ったるい腐臭。
警察だ、と直感した。
後から大家に聞いた話では、住人の大学生が死後数日経って発見されたらしい。
その大学生の友人が最近連絡が取れないと不審に思って訪ねてきたのだという。
死因は急性心不全。
ヤマダ、サトウ。
グール。
井澤の背筋を冷たい汗が伝った。
偶然という言葉の持つ説得力が急速に色褪せていく。
自分の指が、キーボードの上で生み出した死のイメージが、現実世界に滲み出している。
──そんな馬鹿なことがあるはずがない
だが二つの死は、厳然たる事実として彼の目の前に突きつけられていた。
リストに載せた人間を物語の中で殺す。
するとその人間が、数日のうちに現実でも命を落とす。
まさか。
まさか、本当に?
試さずにはいられなかった。
リストの中から中学時代に彼をいじめていたグループの一人、「中村」を選んだ。
今は何をしているかも知らない。
SNSで名前を検索すると、すぐに見つかった。
結婚し、子供が生まれ、幸せそうな家族写真がそこにあった。
──この野郎
その写真が井澤の躊躇を消し去った。
.jsonファイルから名前をコピーし、小説の執筆画面にペーストする。
盗賊団の頭領「ナカムラ」は、主人公の仲間を人質に取り卑劣な罠を仕掛ける。
だが最後には主人公の魔法で全身を焼かれ、黒い炭の塊と化す。
井澤はその描写をいつも以上に執拗に、丹念に書き連ねた。
五日後。
ニュースサイトの隅に小さな三面記事が載った。
『未明の火災で一家三人が死亡。無理心中の可能性も』
焼死体のひとつは中村本人だった。
その記事を読んだ瞬間、井澤はトイレに駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。
胃液が喉を焼く。
これは自分のせいだ。
自分の指があの家族を殺したのだ。
万能感などどこにもなかった。
そこにあったのは自分の理解を超えた現象に対する原始的な恐怖だけだった。
井澤はPCの電源を落とし、コンセントを壁から引き抜いた。
キーボードを外し、ケーブルをまとめ、押し入れの奥深くへと仕舞い込んだ。
もう二度と書くものか──そう心に誓う。
◆
書くことをやめてから三ヶ月が過ぎた。
井澤の日常から色が抜け落ちたようだった。
会社とアパートを往復するだけの日々。
彼の精神の均衡を保っていた「復讐」という名の安全弁はもうない。
上司に叱責されればただ俯き、同僚の自慢話に愛想笑いを浮かべる。
溜め込まれたストレスは出口を見つけられずに彼の内で澱み、腐敗していった。
彼の小説『赫奕たる地平』は、当然ながら更新が止まった。
感想欄には更新を待ち望む声と彼を罵る声が溢れていた。
「エタったか」
「無責任な作者だ」
「面白いと思ってたのに残念」
井澤はそれらのコメントを見ないように、サイトそのものを開かなくなった。
応援してくれる読者たちの声援さえ今の彼には呪詛のように聞こえた。
・
・
・
その日井澤は珍しく、会社からの帰りに書店へ寄った。
何か気を紛らわせるものが欲しかったのだ。
何の気なしに手に取った文芸誌をめくっていると、ふとウェブ小説の話題を扱った特集記事が目に留まった。
そしてその中にあった「ノベライゼーション・ネクスト」の週間総合ランキングの表に釘付けになった。
一位。
ジャンル:ホラー。
作品名:『瓦礫の教室』
作者名:シロタ
──ホラーが総合一位?
井澤は目を疑う。
異世界ファンタジーや恋愛小説が上位を独占するこのサイトで、それは異例中の異例だった。
そして、「シロタ」という作者名。
どこかで聞いたことがあるような、喉の奥に小骨が引っかかったような、奇妙な感覚。
井澤はまるで何かに引き寄せられるようにアパートへ帰り、押し入れからPCとキーボードを引っ張り出した。
三ヶ月ぶりに電源を入れる。埃っぽい起動音。震える指でブラウザを開き、「ノベライゼーション・ネクスト」にアクセスした。
ランキングの一位はやはり『瓦礫の教室』だった。
作者、シロタ。
井澤は普段、他人の作品をほとんど読まない。
妬ましいからだ。
自分より面白い作品、自分より評価されている作品を見ると胸の中に黒い何かが渦巻く。
だが、この日だけは違った。
彼は憑かれたように作品ページの「第一話を読む」をクリックした。
◆
それは、ホラーというよりも陰惨な私小説に近かった。
主人公の名前は作者と同じ「シロタ」。
彼は中学のクラスで酷いいじめに遭っている。
上履きが隠される。教科書に落書きされる。体育の授業ではボールを集中してぶつけられる。トイレで水をかけられる。
その描写は異常なまでに克明で、執拗だった。
まるで体験したことを一つ一つ、確認するように書き連ねているかのようだった。
そこには創作物特有のカタルシスも、エンターテインメント性もない。
ただじめじめとした、救いのない日常が延々と続くだけだ。
だが不思議と目は離せなかった。
文章が巧いわけではない。むしろ、拙いとさえ言える。
それでも行間から滲み出る、作者の煮詰まったような憎悪と絶望が井澤の心を掴んで離さなかった。
読ませる文章とはこういうものをいうのだろう、と井澤にしては珍しく作者を賞賛する。
そして第五話を読み進めていた時、彼の心臓が冷え切った掌で鷲掴みにされたように収縮した。
『──イザワが、また僕の机に何か書いている』
イザワ。
自分の名字。
井澤は息を呑んだ。
まさか。そんなはずはない。ありふれた名字だ。
彼はスクロールを続けた。
指先が氷のように冷たくなっていく。
小説の中の「イザワ」はいじめの主犯格だった。
彼は常にクラスの中心にいて、周りの生徒を扇動し、シロタを徹底的に追い詰めていく。
シロタの給食に雑巾の絞り汁を入れたのも、イザワ。シロタの靴を教室の窓から投げ捨てたのも、イザワ。
読み進めるうちに井澤は気づいた──これは、創作ではない。
これは実話だ。
井澤孝則の中学時代の記憶。
彼がとうの昔に忘れ去った、あるいは忘れたふりをしていた過去の罪状。
小説に書かれている風景、教師の口癖、クラスメイトのあだ名──その全てが井澤の記憶の扉をこじ開けていく。
シロタ。
そうだ、いた。
白田。
いつも俯いていて、存在感がなくて、何を考えているかわからなかった奴。
井澤は彼を苛めることでクラスでの自分の地位を確立していた。
もう読みたくない。
ブラウザの閉じるボタンを押そうとするが──しかし、指が動かない。
まるで見えない力でマウスに縫い付けられているかのようだ。
先が気になる。この物語の結末が。
イザワの末路がどう描かれているのか。
確かめなければならない、という強迫観念が井澤を支配していた。
◆
物語は最終話へと向かっていた。
追い詰められたシロタはある決意をする。放課後の教室──誰もいなくなったそこに、シロタはイザワを呼び出す。
そして。
『イザワは、僕のことを見下して笑っていた。その時、僕はポケットに隠していたカッターナイフを握りしめた。イザワが何かを言う前に僕は彼の首にそれを突き立てた。何度も、何度も。赤い血が噴水みたいに吹き出して僕の制服を汚した。イザワは最後まで信じられないという顔で僕を見ていた』
井澤は無意識に自分の喉に手を当てた。
ひゅう、と乾いた音が喉から漏れる。
生々しい感触が文字を通して皮膚に伝わってくるようだった。
だが所詮は創作だ。
シロタの復讐の妄想だ。
そう自分に言い聞かせようとした。
しかし脳裏にあの法則が蘇る。
──書かれたことは、現実になる
作中で殺した人間は、皆、死んだ。高木も。隣の大学生も。中村も。
──少なくとも、俺の小説ではそうだった
ではこの小説は?
シロタが書いた、この復讐の物語は?
ゾワリ、と全身の皮膚が粟立った。
井澤が信じていた神の権能は彼だけのものではないかもしれない。
そんな事を思っていた矢先の事だった。
ピンポーン。
静まり返った部屋に、インターホンの電子音が響いた。
井澤の身体が椅子の上で凍りつく。
心臓が肋骨の内側で暴れ出す。
時刻は午後十時を過ぎたところだ。こんな時間に、誰が。
動けなかった。
玄関のドアに埋め込まれたレンズの先に誰が立っているのかを、確かめることもできない。
──居留守を使おう
息を殺し、物音一つ立てず、時間が過ぎるのを待つ──嵐が去るのを待つように。
井澤はそう決め込んだが──
ピンポーン
再び音が鳴った。
ピンポーン。
井澤は両手で耳を塞いだ。
だが音は頭蓋の内側で直接鳴り響いているかのようだ。
ピンポーン。
それはまるで小説の文章を一文ずつ、正確に読み聞かされているかのようだった。
凄惨な末路を告げる最後の一行が、ドアの向こうから、繰り返し、繰り返し、代筆されている。
井澤はその場から一歩も動けなかった。
世界がPCモニターの冷たい光と玄関ドアの向こうの暗闇とに挟まれ、急速に収縮していく。
そんな気がしていた。
音は鳴りやまない。
ピンポーン。
ピンポーン。
ピンポーン──。
ややあって、がちゃり、と鍵が解錠される音が聞こえた。
(了)