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駅前のロータリーで、若い女が飛び降りた。
スマートフォンの画面から顔を上げた高木は、アスファルトに広がる赤黒い染みと、その周囲に散らばった肉片を一瞥した。
通行人たちは足早に迂回していく。誰も立ち止まらない。高木もまた、歩調を変えることなく横断歩道へ向かった。
三分後、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。回収班だ。遺体は速やかに処理され、二時間もすれば転生センターから新しい体で出てくる。年齢も性別も、時には人種さえ異なる体で。だが中身は同じ──そういうことになっている。
高木は五十二歳。この二十年で世界は劇的に変わった。
死が文字通りリセットボタンになったこの世界に、高木はまだ慣れないでいる。
会社のエレベーターに乗り込むと、見慣れた顔があった。山田だ。つい三週間前に転生したばかりの。
「おはようございます、高木さん」
山田の声は以前より半オクターブ高い。当然だ。前の体は四十五歳の中年男性だったが、今は二十八歳の青年の体を得ている。顔立ちも精悍になり、髪もふさふさだ。転生後は成長が早まるという。実際山田の新しい体は、わずか三週間で社会人として違和感のない程度まで成長していた。
「調子はどうだ」
高木が訊くと、山田は白い歯を見せて笑った。
「最高ですよ。若返るってのは良いもんです。高木さんも、そろそろどうです?」
「まだいい」
エレベーターが七階で止まり、二人は降りた。オフィスに入るとすでに何人かが出社していた。その中の一人、経理の佐藤が自分のデスクで首を吊っていた。
「またか」
誰かが呟いた。佐藤は先月も転生している。どうやら新しい体の顔が気に入らなかったらしい。ガチャ、と社内では呼ばれている。気に入る体が出るまで死に続ける者たち。
高木は自分のデスクに着いた。パソコンを立ち上げ、メールをチェックする。その間にも佐藤の体は回収班によって運び出されていく。床に残った体液を清掃員が手際よく拭き取っていった。
昼休み、高木は山田と社員食堂で向かい合って座った。
「今日は焼き魚定食か」
高木が言うと、山田は苦笑した。
「ええ、まあ。体が求めるんですよね」
前の山田は、大の肉好きだった。焼き魚など見向きもしなかった。
「そういえば」
高木は箸を止めた。
「こないだ飲みに行った時、ハイボール飲んでたな」
「ええ」
「前はビール党だったろう」
山田の箸が一瞬止まった。すぐに動き出す。
「いや、俺、もともとハイボール好きですよ」
「……そうか」
高木はそれ以上追及しなかった。
午後、営業部で小競り合いがあった。成績を巡る諍いだ。若手社員がガラスの灰皿で自分の頭を殴りつけた。頭蓋が割れ、血と脳漿がカーペットに飛び散った。周囲の社員たちは飛沫がかからないよう身を引いただけだった。
「転生したらもっと頭の回転が速い体になれるかもな」
誰かが冗談めかして言った。笑い声が起きた。
高木は書類に目を落としたまま、ペンを走らせ続けた。インクが紙に染み込む音だけが妙に大きく聞こえた。
退勤時刻になると、山田が高木のデスクに寄ってきた。
「今日、一杯どうです?」
高木は頷いた。二人は駅前の居酒屋に入った。カウンター席に並んで座る。
「とりあえず生で」
高木が注文すると、山田は首を振った。
「俺、ハイボールで」
やはり、と高木は思った。前の山田なら、必ず「とりあえず生」と言ったはずだ。三十年来の習慣だった。
「なあ、山田」
「はい?」
「転生前のこと、どれくらい覚えてる?」
山田の手が、グラスの上で止まった。
「……全部、覚えてますよ」
「本当に?」
「ええ」
山田は微笑んだ。だが、その笑みは以前の山田のものとは違っていた。目の奥に、何か別のものが潜んでいるような。
「高木さんこそ、なんで転生しないんです? その年じゃ、膝も腰も痛いでしょう」
「まだやり残したことがある」
「やり残したこと?」
高木は答えなかった。ただ、ビールを啜った。苦味が喉を滑り落ちていく。
帰り道、高木は夜道を一人歩いた。街灯の下を通り過ぎるたび、自分の影が伸び縮みする。その影を見ていると妙な既視感があった。まるで、影の方が本体で、自分はその付属物に過ぎないような。
アパートに帰るとすぐにシャワーを浴びた。湯を頭から被りながら今日一日の出来事を反芻する。転生が当たり前になってから、人々の表情から何かが失われた気がする。それが何なのか高木にはわからない。
ベッドに入り、電気を消した。
眠りはすぐにやってきた。
◆
夢の中で高木は暗い場所にいた。
どこまでも続く闇。その中に無数の人影が蠢いている。よく見るとそれらは全て黒い何かに絡め取られていた。タールのような粘性の高い液体。いや、液体というより、意思を持った何か。
それは人々を貪っていた。
皮膚を溶かし、肉を千切り、骨を砕く。
悲鳴が響き渡る。だが不思議なことに貪られた人々は死なない。
永遠にその苦痛の中で生き続けている。
ズルリ、と音がして黒い触手が一人の男を引きずり上げた。
山田だった。
転生前の、高木がよく知る山田の顔。
四十五歳の、皺の刻まれた顔。
そんな山田と目が合った。
「た、高木ィイイイイ!」
山田が叫んだ。黒い何かが、山田の腹に食い込んでいく。
ブチブチと内臓が引き千切られる音。
腸がだらりと垂れ下がり、それをまた別の触手が巻き取っていく。
「て、転生は、転生はああああ!」
山田の口から血の泡が噴き出した。
肋骨が一本ずつへし折られ、白い骨片が皮膚を突き破って飛び出す。
眼球がゆっくりと眼窩から押し出されていく。
「転生は、罠だ! 俺たちは、俺たちはああああ!」
グチャリ、と湿った音がした。
山田の頭蓋が圧迫され、変形していく。
脳漿が鼻孔から噴き出し、耳からも赤黒い液体が流れ出す。
「ここから、出られない! 永遠に、永遠にいいいい!」
山田の体が少しずつバラバラになっていく。
だが意識だけは残っているらしい。
苦痛に歪んだ表情のまま高木を見つめている。
「高木、来るな! 転生するな! 転生したら、ここに──」
バキリ、と音がして、山田の顎が外れた。
舌がだらりと垂れ下がり、それを黒い何かが引っ張る。
ズルズルと、喉の奥から何かが引きずり出されていく。
食道か、気管か。
赤い管がどこまでも伸びていく。
高木は動けなかった。足が竦み、声も出ない。
周囲を見渡すと、無数の人々が同じように黒い何かに貪られていた。
老人も、若者も、子供も。
皆、苦痛に顔を歪めながら、それでも死ねずにいる。
その中に見覚えのある顔があった。
今朝、駅前で飛び降りた女。
経理の佐藤。
営業部で頭を割った若手社員。
皆、ここにいた。
黒い何かに囚われ、永遠に貪られ続けている。
ズルリ、と音がして黒い触手が高木に向かって伸びてきた。
◆
高木は目を覚ました。
シーツが汗でぐっしょりと濡れている。心臓が早鐘のように打ち、呼吸が荒い。喉がカラカラに渇いていた。
窓の外はまだ暗い。時計を見ると午前三時だった。
「転生は……?」
高木は呟いた。
山田の最後の言葉が頭から離れない。
転生は──なんだというのか。
ベッドから起き上がり、キッチンへ向かった。冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干す。冷たい水が食道を通り胃に落ちていく感覚。
生きている、という実感。
だがそれも束の間のものかもしれない。
高木は窓の外を見た。 街の明かりが、ぽつぽつと灯っている。その一つ一つの下で人々が眠っている。そして明日になれば、また誰かが死に、転生していく。
当たり前のように。
何の疑問も持たずに。
高木の手が小刻みに震えていた。
止まらない。
冷や汗がまた噴き出してきた。
転生は──
窓ガラスに映る自分の顔を、高木は見つめた。五十二歳の、皺の刻まれた顔。いずれこの顔も失われる。そして新しい顔を得る。
だが──本当に得るのだろうか。
それとも──
高木は首を振った。考えても仕方がない。夢は夢だ。現実ではない。
だが震えは止まらなかった。
朝まであと三時間。
高木はただじっと、窓の外を見つめ続けた。