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第32話 幸せ

「じゃあ、行ってくるわね」


「郁に車出してもらえばいいのに…」


「いいのよ。あの人が隣を歩いてるって想像しながら行くの…結構楽しいんだから!」



…龍二が亡くなって、1年が過ぎた。


先日、郁が手配して、家族だけの一周忌法要を済ませたところ。


今年も、だいぶ暑くなってきたのに、母は今日も電車を乗り継いで…龍二の墓参りに出かけるという。



「…凛はあまり動かないでよ。帰り、何か買ってくるから」


ソファで寝転ぶ私の横を、懐かしい匂いが通り過ぎた。


「お母さん、この香水、つけてるんだ…」


「うん。…この前大量に買っちゃった!もし、製造中止とかになったら生きていけないよ」


ピアスをつけて、大きな鏡で自分をチェックする姿は、なんと可憐なこと。


龍二が亡くなって初めて知った。

自分の母親は、こんなに可愛らしい人なんだって。


「…うわぁ、すごく暑い…」玄関を開けた途端声がする。だから言ったのに…と声を張ろうとして、バタンと、ドアが閉まる音がした。


まるで、デートですな。

こそばゆい思いがよぎると同時に、口元に浮かぶ笑み。


凛はそのまま…目を閉じた。




とりとめのない夢を見た気がする。

青い空と、歩いている自分。

そのどちらも、今の自分には遠い存在だから、懐かしくなって夢を見たのか。







…胸元に置いた携帯が振動して目を覚ました。


「…もしもし」


「凛?…俺」


「文仁…帰ったの?」


あぁ…という声と、ほんの僅かに聞こえる衣擦れの音。

…またネクタイを乱暴に外してる。


「体調はどう?大丈夫?しんどくない?」


…ほとんど毎日。

私からの「大丈夫」を求めて、はるか海の向こうから携帯を繋げる文仁に、突然ものすごく会いたくなった。


「大丈夫。動かなければ」


「病院、2週間後だろ?郁さんに連れてってもらえよ。絶対1人では行かないこと」


「わかってる…!大丈夫だから」


次の検診は2週間後…と言おうとしたのに、先に言われて吹き出す。

…どれほど把握してるんだろう。

この人は。


「ねぇ、それより会いたいよ」


「わかる…」


「わかるじゃない…!帰ってきてよ」


半分冗談のわがまま。

文仁が、携帯の向こうで本気で帰るシミュレーションをしていると予想した。


「次の検診ね、性別がわかるかもしれないって、先生が…」


「…絶対帰る」


時期的に、夏休みを取ってもおかしくない。

とはいえ、本当に帰れるのか疑問なんだけど…


「明日青木先生に言うから。…ダメとは言わせない」



文仁は今、ニューヨークにいる。

青木弁護士の法律事務所で働きながら、海外の弁護士資格取得に向け、勉強中だ。


「わかった。いい返事待ってるよ?」


ちょっと語尾を上げると、文仁はいつも少し沈黙する。

その沈黙が…可愛いって意味だと教えられたのは、つい先日のこと。



「…ねぇ、もう動く?」


期待に満ちた声に、笑い声が漏れた。


「んー…まだかな…そんなに大きくないのかな」


「早く大きくしてよ…待ち切れないって…!」


無理を言う文仁。

離れている分、愛しい想いは同じだと感じた。




…「2年待って」と言ったあの日。

雇われオーナーになって、少しは結果を出したい気持ちがあった。


でも、私はその後すぐ、文仁に結婚したいと伝えた。


文仁は蕩けそうな笑顔で了解してくれて、翌日には婚姻届を取り寄せた。




「ご挨拶が遅れました。凛と申します」


婚姻届の証人欄のサインを、酒井所長と青木弁護士にお願いすることにして…凛は初めて青木弁護士と顔を合わせた。


「こちらこそ。文仁くん、なかなか会わせてくれなかったのよ?」


予想していた通り、黒髪が美しい颯爽とした女性だった。




「…文仁の夢って、弁護士として、もっと大きくなることなんじゃない?」


その話を切り出すのは勇気がいった。でも…青木弁護士に会って、見て見ぬふりはできないと思った。


再婚して、今度こそ一生そばにいると決めたなら…よけいに。


「いや。…俺の夢は、凛に俺の子供を産んでもらって、休日は息子と公園に行ってサッカーすること。それから…」


ふと腕を掴まれて、胸の中に閉じ込められた。


「…おかかをまぶしたぬか漬けを一緒に食べること」


ささやかな夢に、なぜか涙が浮かぶ。


「ちょっと待って。…男の子に決定されてるんだけど?」


「うん。まぁ…予想?女の子が生まれても、サッカーだけはする」


「そこは水泳じゃないの?」


「水泳は凛が教えてあげてね」


広い胸に顔をこすりつけ、浮かぶ涙を拭かせてもらった。

鼻をすするから、泣いてることはすぐバレる。


「なに…?ささやかな夢でかわいそうになった?」


包む腕の力を強められ、苦しい。

背中を叩いてギブを伝える。


「かわいそうだよ…どうせなら思い切って、行ってきなよ」


「どこへ…?」


「ニューヨーク。青木先生いるじゃん。もっと、上を目指しなよ。国際弁護士になる、勉強してきな」


文仁の胸に顔を埋めて、止められない涙を隠す。


私がいるから、上を目指せないんじゃなくて、挑戦できないんじゃなくて。


私がいるからこそ、諦めないで欲しかった。


「本気…?」


「本気だよ。…パパになってからじゃ、行かせてあげられないから。…育児、大変だし。だから、今のうちに…」


「ありがとう」と言いながら、再び抱きしめた腕は、これ以上ないほど優しく感じる。


この腕と離れるなんて、本当はすごく寂しいけれど…

私には私の人生があって、それは文仁も同じで。


一緒に時を過ごせなくても…なくならない想いを、私たちはきっと大切にできる。


そんな確信は同じだったらしい。

その後、文仁は決断した。


美容室のオーナーを降りて、私も一緒に行くという話も出たんだけど…その矢先、妊娠が発覚した。



結局、何ひとつ言った通りにはならなかったと思う。


妊娠してすぐに安静を命じられ、美容室は退職するし、2年待って…なんて言いながら、すぐに再婚してしまったし。


言い訳ではないけど、それが人生というものなのだろう。


突然やってくる、結婚、離婚、そして寿命も。


その時々の最善を選んで、私は今、実家のソファに寝そべって、お腹の子を守っている。

愛する男の声を耳元に感じながら。


…これを幸せと呼ばずして、何を幸せと言うんだろう。






「…凛!病院行くんでしょ?すぐに車出せるよ?」


玄関を開けるなり、そう言いながら上がってくる郁。

…きっとまた、靴を脱ぎ散らかしてる。



まだお腹は目立たないけれど、私は黒のゆったりしたワンピースを着て、髪はポニーテールに結い上げた。


…リップをつければメイクは完成。



「…ごめん。もうすぐ文仁が来るんだ」


「はぁ?ニューヨークから、検診の付き添いで帰ってくるわけぇ?」


…私だって知らなかった。

日本に到着したと、連絡があったのはついさっきなのだから。




…玄関の外にタクシーが止まった。


桜色のリップを唇に乗せて…

凛はそのドアを、こらえきれない笑顔で見つめた。






「剣崎夫婦の離婚事情」


2025.8.8 完



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