「じゃあ、行ってくるわね」
「郁に車出してもらえばいいのに…」
「いいのよ。あの人が隣を歩いてるって想像しながら行くの…結構楽しいんだから!」
…龍二が亡くなって、1年が過ぎた。
先日、郁が手配して、家族だけの一周忌法要を済ませたところ。
今年も、だいぶ暑くなってきたのに、母は今日も電車を乗り継いで…龍二の墓参りに出かけるという。
「…凛はあまり動かないでよ。帰り、何か買ってくるから」
ソファで寝転ぶ私の横を、懐かしい匂いが通り過ぎた。
「お母さん、この香水、つけてるんだ…」
「うん。…この前大量に買っちゃった!もし、製造中止とかになったら生きていけないよ」
ピアスをつけて、大きな鏡で自分をチェックする姿は、なんと可憐なこと。
龍二が亡くなって初めて知った。
自分の母親は、こんなに可愛らしい人なんだって。
「…うわぁ、すごく暑い…」玄関を開けた途端声がする。だから言ったのに…と声を張ろうとして、バタンと、ドアが閉まる音がした。
まるで、デートですな。
こそばゆい思いがよぎると同時に、口元に浮かぶ笑み。
凛はそのまま…目を閉じた。
とりとめのない夢を見た気がする。
青い空と、歩いている自分。
そのどちらも、今の自分には遠い存在だから、懐かしくなって夢を見たのか。
…胸元に置いた携帯が振動して目を覚ました。
「…もしもし」
「凛?…俺」
「文仁…帰ったの?」
あぁ…という声と、ほんの僅かに聞こえる衣擦れの音。
…またネクタイを乱暴に外してる。
「体調はどう?大丈夫?しんどくない?」
…ほとんど毎日。
私からの「大丈夫」を求めて、はるか海の向こうから携帯を繋げる文仁に、突然ものすごく会いたくなった。
「大丈夫。動かなければ」
「病院、2週間後だろ?郁さんに連れてってもらえよ。絶対1人では行かないこと」
「わかってる…!大丈夫だから」
次の検診は2週間後…と言おうとしたのに、先に言われて吹き出す。
…どれほど把握してるんだろう。
この人は。
「ねぇ、それより会いたいよ」
「わかる…」
「わかるじゃない…!帰ってきてよ」
半分冗談のわがまま。
文仁が、携帯の向こうで本気で帰るシミュレーションをしていると予想した。
「次の検診ね、性別がわかるかもしれないって、先生が…」
「…絶対帰る」
時期的に、夏休みを取ってもおかしくない。
とはいえ、本当に帰れるのか疑問なんだけど…
「明日青木先生に言うから。…ダメとは言わせない」
文仁は今、ニューヨークにいる。
青木弁護士の法律事務所で働きながら、海外の弁護士資格取得に向け、勉強中だ。
「わかった。いい返事待ってるよ?」
ちょっと語尾を上げると、文仁はいつも少し沈黙する。
その沈黙が…可愛いって意味だと教えられたのは、つい先日のこと。
「…ねぇ、もう動く?」
期待に満ちた声に、笑い声が漏れた。
「んー…まだかな…そんなに大きくないのかな」
「早く大きくしてよ…待ち切れないって…!」
無理を言う文仁。
離れている分、愛しい想いは同じだと感じた。
…「2年待って」と言ったあの日。
雇われオーナーになって、少しは結果を出したい気持ちがあった。
でも、私はその後すぐ、文仁に結婚したいと伝えた。
文仁は蕩けそうな笑顔で了解してくれて、翌日には婚姻届を取り寄せた。
「ご挨拶が遅れました。凛と申します」
婚姻届の証人欄のサインを、酒井所長と青木弁護士にお願いすることにして…凛は初めて青木弁護士と顔を合わせた。
「こちらこそ。文仁くん、なかなか会わせてくれなかったのよ?」
予想していた通り、黒髪が美しい颯爽とした女性だった。
「…文仁の夢って、弁護士として、もっと大きくなることなんじゃない?」
その話を切り出すのは勇気がいった。でも…青木弁護士に会って、見て見ぬふりはできないと思った。
再婚して、今度こそ一生そばにいると決めたなら…よけいに。
「いや。…俺の夢は、凛に俺の子供を産んでもらって、休日は息子と公園に行ってサッカーすること。それから…」
ふと腕を掴まれて、胸の中に閉じ込められた。
「…おかかをまぶしたぬか漬けを一緒に食べること」
ささやかな夢に、なぜか涙が浮かぶ。
「ちょっと待って。…男の子に決定されてるんだけど?」
「うん。まぁ…予想?女の子が生まれても、サッカーだけはする」
「そこは水泳じゃないの?」
「水泳は凛が教えてあげてね」
広い胸に顔をこすりつけ、浮かぶ涙を拭かせてもらった。
鼻をすするから、泣いてることはすぐバレる。
「なに…?ささやかな夢でかわいそうになった?」
包む腕の力を強められ、苦しい。
背中を叩いてギブを伝える。
「かわいそうだよ…どうせなら思い切って、行ってきなよ」
「どこへ…?」
「ニューヨーク。青木先生いるじゃん。もっと、上を目指しなよ。国際弁護士になる、勉強してきな」
文仁の胸に顔を埋めて、止められない涙を隠す。
私がいるから、上を目指せないんじゃなくて、挑戦できないんじゃなくて。
私がいるからこそ、諦めないで欲しかった。
「本気…?」
「本気だよ。…パパになってからじゃ、行かせてあげられないから。…育児、大変だし。だから、今のうちに…」
「ありがとう」と言いながら、再び抱きしめた腕は、これ以上ないほど優しく感じる。
この腕と離れるなんて、本当はすごく寂しいけれど…
私には私の人生があって、それは文仁も同じで。
一緒に時を過ごせなくても…なくならない想いを、私たちはきっと大切にできる。
そんな確信は同じだったらしい。
その後、文仁は決断した。
美容室のオーナーを降りて、私も一緒に行くという話も出たんだけど…その矢先、妊娠が発覚した。
結局、何ひとつ言った通りにはならなかったと思う。
妊娠してすぐに安静を命じられ、美容室は退職するし、2年待って…なんて言いながら、すぐに再婚してしまったし。
言い訳ではないけど、それが人生というものなのだろう。
突然やってくる、結婚、離婚、そして寿命も。
その時々の最善を選んで、私は今、実家のソファに寝そべって、お腹の子を守っている。
愛する男の声を耳元に感じながら。
…これを幸せと呼ばずして、何を幸せと言うんだろう。
「…凛!病院行くんでしょ?すぐに車出せるよ?」
玄関を開けるなり、そう言いながら上がってくる郁。
…きっとまた、靴を脱ぎ散らかしてる。
まだお腹は目立たないけれど、私は黒のゆったりしたワンピースを着て、髪はポニーテールに結い上げた。
…リップをつければメイクは完成。
「…ごめん。もうすぐ文仁が来るんだ」
「はぁ?ニューヨークから、検診の付き添いで帰ってくるわけぇ?」
…私だって知らなかった。
日本に到着したと、連絡があったのはついさっきなのだから。
…玄関の外にタクシーが止まった。
桜色のリップを唇に乗せて…
凛はそのドアを、こらえきれない笑顔で見つめた。
「剣崎夫婦の離婚事情」
2025.8.8 完