俺の記憶はほとんど一人だ。
最近クランクインしたドラマの台本を読みながら、ふと思い返した自身の半生。登場する自分以外の存在は、靄がかかったように薄くて遠い。
幼少期、シングルマザーだった母親にほとんど会った記憶がない。珍しく在宅でも、話しかけた所で「うるさい」「黙れ」くらいしか返ってこないので、いつの間にか話しかける事をやめた。
ゴミだらけのテーブルに毎日千円が置かれていて、その金で何とか一日をしのいでいた。
中学生になると家に居たくなくて、いわゆる地元の悪い先輩とつるむようになった。
学校をサボり、先輩のバイクに乗せてもらって渋谷や原宿に遊びに行くようになり、益々家に帰らなくなった。
運命が変わったのは、中二の秋。
キャットストリートにある店で先輩が買い物している間、桐生は外で待っていた。買う金が無いので、店内で話しかけられると面倒だからだ。
「ちょっといいかな、きみいくつ?」
いかにも高級そうなレザージャケットを羽織った男が、突然話しかけてきた。訝しげに眺めていたら、ごめんごめんと言いながらジャケットの胸ポケットから何かを取り出し、渡してきた。
「俺、そこの店のデザイナーなんだけど。今度うちのコレクションのモデルやんない?」
男が渡してきた名刺には、今まさに先輩が買い物をしている店の名前と、デザイナーという肩書きと共に男の氏名が刷られていた。
「いくらくれます?」
「え?」
「モデル。学費貯めたいから、いくらくれるかで決めたい」
高校現役進学を諦めていた俺は、しばらく働いて貯金し、金が貯まったら通信制高校への入学を考えていた。
中学生で働ける仕事が限定的すぎた為、卒業してから働こうと考えていた。なので、もしそこそこの金額が貰えるなら是非やりたい。
男は知り合いのモデル事務所を紹介するから、一度そこに登録してから話し合おうと言った。
そうしてモデルの道に進む事になったのだった。
幸か不幸か、顔面とスタイルに恵まれた俺は、幼少期からある事ない事を吹聴されがちだった。
中学でサボるようになるとエスカレートし、他校に殴り込みに行っただの、女を堕胎させた事があるだの、クソ程くだらない噂がつきまとった。
しかし今となっては感謝している。この顔とスタイルのお陰で固定収入があるのだし、現役で通信制高校に入学、働きながら高校生になれたのだから。
中学はショーモデル、高校はショーとファッション誌、そして高校卒業後からファッション誌をメインに有名メンズブランドのメインビジュアルを担当したり、メンズ系を中心に人気を博した。
昨年、事務所社長に「演技に興味はないか」と声をかけられた。モデルとしては頭打ちだと思われたのだろう。単独表紙は専属誌だけ。しかも数える程だ。
俺の武器は少ない。顔面とスタイルを除いてしまうと、世の中で戦うには
しかし自分は多くの感情が欠落していた。周りの人間より感じる事が少なすぎるし、察する能力も著しく欠如している。それに関して自覚しており、問題意識もある。感情の交換とも言える演技なんか到底出来る訳がない。
ほとんど一人で生きてきたようなものだから、感情を知る機会が人より少ないまま成人してしまった。モデルでは独特の雰囲気が売りとなったが、俳優をやるには感情を知る必要がある。
しかしそのような相談、誰にできようか。
友達は居ない。彼女は居る。ただ、俺に取って"彼女という存在が居る"という感覚であり、恋愛をしている訳ではなかった。よって彼女を相談相手として思い浮かぶ訳もなく、一人で対策を考えた。
ネットで演技について検索をかける事から始めてみた。演技理論みたいなものを読んだ所で、結局は自身の経験や過去の積み重ねがないと出来ない事が多かった。
では、世間で賞賛される演技とはどのうよなものか。世間が認めるなら、それを模倣すれば良いのではないか。まず映画賞受賞作品の邦画を片っ端から見る事にした。
ある程度インプットし、彼女相手に模倣した演技を試した所、今までにない新鮮な反応をされた。
彼女の反応を見て自分のやり方に自信を得た。あたかもそう思っているように振る舞えたからこその、彼女の反応なのだから。
ちなみに彼女とのやり取りはこうだ。
部屋に遊びに来た彼女が「あなたの部屋、殺風景だから花と花瓶を買ってきたの」と言って新品の花瓶を開封し、花を飾った。
花を飾る趣味はないと言ったら、彼女は拒絶された事による悲しみから傷付いた表情を見せた。
相手の表情を見て、ここまで感情を割り出せたのは、演技のインプットをしたから。その事に気付いた俺は、演技のアウトプットを試したくなった。
生まれて初めて感じた手応えに、面白さを覚えた。自分なりに考えて導き出した答え。彼女の悲しみという感情。次に自分はどのような反応を、どのような感情を彼女に渡せば良いのか。考える行為そのものが面白く感じられた。
数多の演者たちは、どういった反応をしていたか。脳内にある、様々な演技の種類を格納した棚から探し出す。これでもない、これでもない。
その中で、もしかしたら今の自分に即した振る舞いはこれなのでは、と思える感情を見つけた。それを試したくて仕方なかったのだ。
「きみの事は、それほど好きではないんだ。ごめん」
彼女は一瞬目を見開き、そしてため息をついて腕を組んだ。
「そんなの知っていたわ」
意外な反応に動揺した。すると彼女はそんな俺を見てフフッと笑みをこぼした。
「
初めて見る彼女の顔が沢山出てきて驚いた。そしてどこか冷静に、先程の言葉は自分の本心だな、とも思っていた。初めて言葉を口にしたのに、全く違和感がなかったからだ。
彼女は花と花瓶を手に家を出た。それきり連絡が来ないし、俺自身連絡したいとも思わないので、彼女との男女関係は終わったと判断した。
映画の端役をいくつか経験した頃、マネージャーから意外な打診があった。桐生さん、BLドラマの主演オファーが来たのですが、どうしますか?と。
BLドラマでブレイクした俳優を数名知っている。社会現象にもなった作品だってある。
主演はとても魅力的だが、喉から手が出る程やりたい訳でもない。しかも全く興味の無いジャンル。数秒考えて断ろうとしたその時、マネージャーが言葉を続けた。
「ダブル主演の相手役、若手の注目株みたいで。あやせゆうと、って知ってます?舞台と映画しかやってなくて、今回のドラマで地上波初なんですって」
その名を聞いて瞬時に思い出した。
あまり見かけた事が無いのに演技が上手かったので、思わず近くに居たスタッフに尋ねた。彼は何者なんだと。
劇団に所属している舞台メインの俳優で、今回映画は初出演との事。舞台の評判が良く、また、ビジュアルも良かったので起用されたらしい。
その彼が相手役と知った俺は、演技がうまい彼と共演する事で、破竹の勢いで演技力が向上するのではないかと。
気が付いたらマネージャーにその仕事受けます、と答えていた。
綾瀬悠人は明るくて、爽やかで、演技バカだった。
初顔合わせの日、台本読み合わせが終わって解散となった直後。手早く荷物をしまった綾瀬悠人が、小走りに俺の元へ来てこう言った。
「桐生さん、綾瀬です。これからよろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
「ところで‥桐生さん、今日調子悪いですか?」
会議室内の空気が一瞬でピリついた。俺は目を丸くし、無言で彼を見つめるだけだ。
「あっ、今の目は感情が乗ってますね。良かった。今日は本気出してなかったって事ッスよね」
「それどういう意味?まさか喧嘩売ってる?」
綾瀬悠人は慌てて違う違う!と言って両手をバタつかせた。
「桐生さんて佇まいとか、空気感作るのめちゃくちゃウマいじゃないですか。だけど本読みの時あんまり感情が伝わって来なかったし、調子悪いのかなって心配になっちゃって」
嫌味ではない事が分かると、会議室の張り詰めた空気がゆるんだ。息を吐くスタッフも数名いた。
「綾瀬くんは演じる時、どんな事を気を付けているの?」
「俺ですか?えー‥ちょっと話すと長くなっちゃうな‥」
「今少し時間ない?ご教示賜りたいんだけど」
すると綾瀬悠人は一瞬驚いたのち、嬉しそうに微笑んで「ぜひ!」と言った。
いい人そうだと思ったが、それは間違いだった。大学の演劇サークルから演技にハマった、ただの演技好きだった。いや、演技バカの方がシックリくる。
俺の隣に座った綾瀬悠人は「リアリズム演技ってご存知ですか?」といきなり演技理論を語り出した。
自分の感情記憶を用いる"メソッド"、相手に反応する事を軸とした"マイズナー"、その場で感じた事を反映させる"アドリブ"、それらをミックスさせた演技方だそうだ。それら一つ一つ、目をキラキラさせながら、各技法の特徴を解説しだした。
一通り説明が済んだ所で、綾瀬悠人自身はリアリズム演技を基軸にアドリブ多めで演じていると教えてくれた。主戦場の舞台はナマモノなので、アドリブ力が高くてナンボの世界らしい。
「桐生さんはモデルなので、フィジカルアプローチのプロだと思うんですけど、今日は座って台本を読み合わせるだけだったから、桐生さんの持ち味が出しにくいだろうなとは思ってました」
確かに、過去の端役はほとんど台詞がなく、ただ体を動かして演じるだけだった。だからこそ演じられたとも言える。
しかし今回は主演。台詞が沢山あるし、ダブル主演の綾瀬悠人とアホ程やり取りが発生する。さすがに佇まいや空気感だけでは乗り切れない。
とは言え今聞いたいくつかの演技理論は、どれも自分に出来る気がしない。なぜなら引用元の感情を俺はほとんど持ち合わせていないからだ。
なので自分が選べる選択肢は変わらない。模倣である。評価されてきた演技を、切り貼りして模倣する。それしか出来ない。
「ありがとう。参考にさせてもらうね」
心にも思っていないお礼を、嘘の笑顔と共に綾瀬悠人に伝えると、彼は一瞬真顔になった。一拍置いて貼りついたような笑顔を浮かべると「いえいえ、良い作品にしましょうね」と言って立ち去った。
そうして本日読み合わせした台本を、就寝前に読み返していたのだが。
改めてメソッドやマイズナーについて調べてみて、過去の記憶から近しい感情を引き出して演じるだの、相手との関係性を踏まえた反応を考えて演じるだの、経験に基づいた技法である事を再確認した所で、自身の半生を久々に思い返したのだった。
(薄っぺらい人生だな‥)
思い返してみなくても分かりきっていたが、自分以外の存在との接点がほとんどない。
時間的に長く一緒に居たのは地元の悪い先輩達だが、深い付き合いはしていない。深さで言えば彼女の方だろうが、腹の中を見せた事はないし、何なら笑顔を見せずに別れた人もいたかもしれない。
何となく気付いてはいる。大切にされた事が無いから、自分を含め大切にする方法が分からないのだと。
綾瀬悠人はアドリブ多めと言っていた。大学まで出ているし、サークルを楽しんでいたのだから、俺よりは裕福で愛されてきた人間である事は間違いない。
演技を通じて、綾瀬悠人の人生を、感情を会得できたら良い。そうしたら俺の演技力はもっと幅が広がるだろう。
しかし、自分がいかに楽観的思考であったかを、第一話撮影時に思い知らされた。
演技バカの綾瀬悠人は、俺の演技に毎回納得していない反応をした。常に首を傾げ、そして、不服そうな表情を浮かべるばかりだった。
俺の考えた演技プラン(最適な模倣演技のパッチワーク)に微妙な反応をするばかりの綾瀬悠人に、腹が立つまでそう時間はかからなかった。
だが俺だって業界は長いし、何なら苛立ちや怒りの感情だって薄い。ここは俺が下手に出て早々に問題解決しよう。そんな気持ちで綾瀬悠人に話しかけたら。
「お疲れ様です桐生さん。あの、桐生さんを本気にさせるだけの技量がなくてすいません。俺、頑張りますから」
開いた口が塞がらなかった。誰がどう見ても彼の問題ではないし、何なら遠回しに俺をバカにしているのではとすら思えた。
もしくは演技の下手な俺をそれなりに見せるのは、自分の匙加減だとでも思っているのか。それもそれで不遜な態度が気に入らない。
「お前、それ本気で言ってんの?」
「え?何がですか?」
「明らかに俺の演技が下手なのに、まるで自分のせいみたいに言って。本気出してないって、俺の本気はお前にかかってるとでも?」
「はい。俺なら桐生さんの本気、引き出せます」
即答されて心底驚いたし、逆にアッサリ断言されると、妙な潔さに愉快な心持ちになる。半笑いで綾瀬悠人を眺めていると、あぁ良かったと言われた。
「ほら、今の表情は感情が乗ってる。桐生さん出来る人なのに、出し惜しみしないで下さいよ」
「ほぉ〜言ったな?俺が演技出来る奴だって」
「空気を支配する力を持ってるのに、うまく使いこなせていないのが歯痒いッスよね〜」
「なんだお前クソ生意気だな」
「やっと仮面はずしてくれた?」
その一言で硬直し、視線が綾瀬悠人の顔面に固定される。ニヤリ。初めて見る
「俺、いい作品にするために手段は問わないんで」
なるほど、今の不遜で喧嘩腰な態度も、俺の本心を引き出すための演技だったという事だ。
「お前すごいな。今の本気かと思っちゃったよ」
「でしょ?アドリブってこうやるんです。今度、自主読み合わせ練習、一緒にします?」
ニコニコする綾瀬悠人は、本当に演技の事しか考えていないようだ。フッと微笑みをこぼすと、じゃあ決定です!と綾瀬悠人に言われ、俺も頷いて同意した。