こつ。こつ。こつ。
私はこの帰り道が嫌いだ。横に立つ大きなマンションのせいで、本来は地面に吸収されるはずだった足音が大きく反響されるのだ。
塾から家に帰ってくるための最短ルートはここだから仕方なく通っているけど。夏になる前は自転車で通っていたが、壊れてしまった。慎重に走れよって弟の隆太には言ってあったのに。
こつ。こつ。こつ。
私の足音が暗闇の道に響く。横のマンションが取り壊されるという噂を聞いてから、もう半年が経つ。もちろん誰も住んでいないので、廃墟に近い。ある部屋に行くと幽霊が出るんだって、とクラスメイトの神原が言っていたが、夜にそこを歩いていると、出るのは誰かの幽霊なんてちっぽけな存在ではないように思う。
チラリと横目でマンションを見る。このマンション自体が巨大な亡霊なのだ。住人が実際にいたときから感じてはいた。夜の闇の中、こいつは誰にも気付かれないよう息を潜めながらも蠢動する。誰を引きずり込んで喰らうか、吟味しているように見えた。
隆太にはユウ姉は考えすぎだって呆れたように言われた。そんなこと、自分だって分かっている。けれど、それほどまでにこのマンションは恐ろしい。
真夏の日光をあらかた放熱し終わったコンクリートの地面を歩く。この道は私が小学生、中学生の頃からある。何度、記憶を浚ってもこの道で他の人の足音なんて聞いたことが無かった。確かにこんなに夜遅くになってから歩く経験はしていないけど。
こつ。こつ。こつ。
あぁ……。
足音は3つだ。私の右足と左足、そしてもうひとつの音。きっと左足なんだろう。分かっているよ。塾なんて行かなくても良いって母さんは言っていた。私だって最初はただの気分転換だった。事情を知らない塾の人たちには哀れみの視線は向けられないだろうって、最初はそれだけだったんだ。
この道が嫌いだ。見通しが悪いカーブが続き、歩道が無い。マンション側に用水路があるのでそちら側だけ、ガードレールが設けられている。地元民なら誰でも知っている。この道でスピードを出すのは危険だってことは。
こつ。こつ。こつ。
私が立ち止まると音も止まる。霞みたいにジワっと闇に溶け出してしまうのではない、気配の塊のようなモノが背後から私を窺っているように思えた。
凹んだガードレールの前に花束が置かれている。……隆太はここで観光客のレンタカーに轢かれて死んだ。自転車はぺしゃんこ、野球で鍛えた彼の足は片方が千切れ、レンタカーの車体とタイヤの間に巻き付いてしまったらしい。
観光客の夫婦は半狂乱になって警察に電話したのだが、おかしなことを言っていたようだ。その場には彼らしかいなかったのにも関わらず、大勢に見られているとしきりに繰り返していたと聞いている。私はこの道の右側に立つ大きな廃墟を見上げた。
灯りも無い闇の中。確かに誰かと目が合った。2階の部屋、3階の部屋、4階の部屋、5階の部屋、6階の部屋、あちこちの窓からじいっと見つめられている。彼らの視線は好奇心の現れだ。
このマンションが廃墟になった理由は知らない。事故や自殺や殺人なんてセンセーショナルな噂は無かった。ただただ人が住まなくなり、手入れする者もいなくなった。それだけだ。……本当に?
私はガードレールを乗り越え、枯れた用水路を踏み越え、マンションの敷地内へと歩く。月だけが辺りを照らしている。巨大な亡霊の口の中を進む。何かに惹かれるように足を動かす。このマンションに入ったことは無い。でも、分かった。どこにエレベーターがあるのか、どこがゴミ捨て場なのか、どこに大家さんが住んでいるのか。頭の中に自然と浮かぶ。
こつ。こつ。こつ。
しんと静まり返ったマンションに私たちの足音が響く。いや、違うか。中に入る前は静寂そのものだったけど、この廊下を歩いていると住人たちの息遣いや笑い声が聞こえてきた。子供がはしゃぐ声、おばさんたちの井戸端会議、大家さんの小言。楽しいばかりではない、生活音。彼らがただそこに居たという記録がこのマンションには染み付いていた。
だだだっ。
何かが後ろから走り出し、私を抜き去っていくのが分かった。まったく。慎重に走れよって姉ちゃん言ったよね? 思わず笑みがこぼれる。
こつ。こつ。
エレベーターは動いていない。大家さん、いつもいつも小言を言うくせにしっかりしてほしい。管理会社には誰かが伝えるだろう。リュックの重みに肩が軋んでいるのが分かる。階段をひとつひとつ上がっていく。誰かとすれ違った気がして軽く会釈する。
あーあ。こんなに遅くなっちゃった。今日の夜ごはんは何かな? あちこちから美味しそうな匂いがするから、お腹が減ってきた。こんなことなら母さんにおにぎりでも作ってもらえば良かったかも。302号室の扉を開ける。カツカツ、と包丁で何かを刻む音が聞こえた。そして。
廊下に隆太がいた。
彼はニッコリと笑っている。頬がズタズタに千切れ、真っ暗な口の中と歯が露出している。右目はだらしなくぶら下がり、右手が変な方向に曲がり、あちこちから真っ赤な血が流れ、小腸がはみ出ており、私は潰れたトマトを連想した。右足は太ももから下が無く、狭い玄関に大量の血が溜まっている。彼は器用に片方の足だけで立っている。
私は部活帰りなんだったら手を洗ったの?と聞こうとして、ふと隆太の左足が目に留まった。彼は室内なのに何故か靴を履いている。その小さな違和感が少しずつ膨らむ。……あれ? 私は何を。私は塾帰りのはずだ。隆太は……死んだはずだ。この目の前にいるのが隆太? 本当に? だって、これは明らかに。
死体ではないか。
「どうしたの、ユウ姉ちゃん」
隆太の声がする。目の前のモノから、生前と変わらぬ声変わりしていない高い声が聞こえる。じゅくじゅくと肉体が泡立つような音と共に。……あぁ。私はいつの間にか巨大な亡霊に喰われていたのだ。包丁の音がクスクスとこちらを馬鹿にしているかのような笑い声に変わる。
嫌。嫌! 嫌だ!
私は不気味な笑みを浮かべる隆太の死体から後退りして扉を開けようとするが、開かない。ドアノブが空転するようにうるさい音を立てるだけで扉は閉まったままだ。逃げられない。
がちゃ。がちゃ! がちゃがちゃ!
もう何を気にしようとも思わなかった。隆太の死体に背中を向けるのは嫌だったが、仕方がない。じっとりとした視線を感じつつ、私はドアノブに手をかける。全力で体重をかけても、必死になっても、がちゃがちゃと音がするだけだった。
なんで。死にたくない。私はまだ死にたくないのに。
「ユウ姉ちゃん」
「ひぃっ! あ、あ、隆太?」
すぐ耳元で隆太の声がした。驚いて飛び退き、玄関の壁に背中をつけると、そのまま力が抜けてしまい腰が落ちる。ぐちゃぐちゃになって人間としてのていを保っていない隆太がいる。分かっていた。こいつは隆太の幽霊なんかじゃない。マンションの記録だ。マンションの目の前で死んだ隆太を映し取っただけの偽物だ。
「ユウ姉ちゃん。ねえちゃん。……ネエチャン? オカエリ」
私が自転車を貸さなければ隆太は死ななかった。その罪悪感を疑似餌にして、私をこいつは喰おうとしている。隆太の偽物が壊れていない左手を向ける。その手が私の首を締め上げる。死にたくない。助けて。助けて。助けて。助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!!
「タダイマ」
命乞いの代わりに出た無機質な言葉は私のものとは思えない。あぁ……。嫌だ。
【探しています。里山優。16歳。△△塾の帰りに行方不明になりました。情報がありましたら電話番号……の元へ。よろしくお願いします】