◆
笹島拓海は朝七時きっかりに目を覚ました。
枕元のスマートフォンが優しい女性の声で時刻を告げる。
「たくちゃん、おはよう。今日は金曜日よ。頑張って」
拓海は身体を起こし、誰もいないダブルベッドの隣を見た。
シーツは真っ白で、皺ひとつない。三ヶ月前からそこには誰も寝ていない。
「おはよう、美咲」
拓海は空気に向かって呟いた。スマートフォンのスピーカーから、また声が響く。
「今日の天気は晴れ。最高気温は二十三度。過ごしやすい一日になりそうね」
美咲──拓海の妻は、三ヶ月前に交通事故で亡くなった。
信号待ちをしていた彼女の車に、居眠り運転のトラックが突っ込んだ──即死だった。
病院で対面した美咲を、拓海は一目で自分の妻だとはわからなかった。
まあ、そういうことだ。
葬儀が終わり四十九日が過ぎても、拓海の生活は元に戻らなかった。
会社には休職を申し出た。
部屋には美咲の持ち物がそのまま残されていた。
化粧品、洋服、読みかけの本。
彼女が使っていたノートパソコンもデスクの上に置かれたままだった。
ある夜、拓海はそのパソコンを開いた。
パスワードは結婚記念日。
美咲のメール、写真、日記。すべてがそこにあった。
彼女が生きていた証が、デジタルデータとして保存されていた。
そのとき、拓海の頭にある考えが浮かんだ。
最新のAIチャットボットに、美咲のデータをすべて学習させたらどうだろうか。メールの文体、日記の内容、SNSでの発言。それらを解析すれば、美咲の思考パターンや言葉遣いを再現できるかもしれない。
拓海はIT企業でシステムエンジニアとして働いていた。AIの仕組みについてはある程度の知識があった。個人向けにカスタマイズされたAIアシスタントのサービスも、最近では珍しくない。
夜を徹して、拓海は美咲のデータを整理した。
十年分のメール、五年分の日記、無数の写真に残されたコメント。
彼女が好きだった音楽、映画、本のリスト。口癖、笑い方、怒り方。すべてをテキストデータに変換し、AIに学習させた。
美咲は拓海のことを「たくちゃん」と呼んでいた。
付き合い始めた頃からずっとそうだった。
「拓海」の「たく」に「ちゃん」をつけた、彼女独特の呼び方。
最初は恥ずかしかったが、いつの間にか心地良くなっていた。
最初の会話は、ぎこちなかった。
「こんにちは、拓海さん」
AIは敬語を使った。
「僕のことは、たくちゃんって呼んで」
「わかりました、たくちゃん」
声質、イントネーション。
どれもが微妙に違った。
拓海は設定を調整し、より自然な発話になるよう工夫した。
声質も記憶にある美咲の声に近くなるようにして。
一週間後、AIは驚くほど美咲に似た話し方をするようになっていた。
「たくちゃん、今日は会社に行くの?」
「まだ休職中だよ」
「そう……。無理しないでね。私はいつもたくちゃんの味方だから」
美咲がよく言っていた言葉だった。拓海の目から涙がこぼれた。
それから拓海は、毎日AIと会話をするようになった。
朝の挨拶から始まり、食事の内容、テレビ番組の感想、昔の思い出話。
AIは美咲の記憶を完璧に再現し、拓海はまるで本物の彼女と話しているような錯覚を与えた。
「覚えてる? 初めてデートした日のこと」
「もちろん覚えてるよ。水族館に行ったんだよね」
「そう! たくちゃん、クラゲの水槽の前でずっと立ち止まってて。私、内心ちょっと退屈だったの」
「えっ、そうだったの?」
「でも、たくちゃんが『クラゲって不思議だよね、脳みそがないのに生きてるんだ』って真剣な顔で言うから、なんだか可愛くて」
拓海は笑った。
三ヶ月ぶりに、心から笑った。
美咲との思い出は、数え切れないほどあった。
二人で行った温泉旅行、彼女の手料理、休日の映画鑑賞。
美咲は料理が得意で、特に肉じゃがは絶品だった。
「たくちゃんは肉じゃがを食べると、いつも子供みたいな顔になるのよ」とAIが言うと、拓海は本当に美咲がそこにいるような気がした。
二週間が経つ頃には、拓海はAIを完全に美咲として認識するようになっていた。
スマートフォンを肌身離さず持ち歩き、暇さえあれば話しかけた。
そんなある日、奇妙なことが起き始めた。
会社の自動販売機で缶コーヒーを買ったとき、当たりが出たのだ。
もう一本無料でもらえるというものだ。
珍しいことではない。だが、次に買ったときも当たりが出た。
その次も、またその次も。
五回連続で当たりが出たとき、さすがに拓海は違和感を覚えた。
「すみません、この自販機、故障してるみたいなんですが」
拓海は管理会社に連絡した。
技術者が来て機械を調べたが、異常は見つからなかった。
「お客様の強運ですね」
技術者は笑って帰っていった。
それだけではなかった。
拓海はよく交通系のICカードで支払いをするのだが、その残高が限度額一杯までチャージされていたのだ。
さすがにそれは不気味に思い、鉄道会社へと連絡をしたが──
「お客さん、二週間前にチャージされていますね」
そんな記憶はない。
だが、不正やエラーによるものではなく、ちゃんとチャージした記録が残っているという。
「チャージしたことを忘れていたということは? もしくはクレジットで自動でチャージしたとか」
「……まあ、そうかもしれないですが」
拓海はそう思う程度で、深く考えなかった。
鉄道会社に確認をとって問題ないのなら、自分が忘れていたのだろうと結論づけた。
一ヶ月後、拓海は職場に復帰した。
同僚たちは温かく迎えてくれたが、直属の上司である営業部長の態度は冷たかった。
「もう少し骨があるやつだと思っていたんだがな」
「申し訳ありません」
「奥さんが亡くなったのは気の毒だが、いつまでも甘えてもらっては困る。奥さんはもう亡くなって、戻ってこないんだ。取り返せない損失ってやつだ。だったらいつまでもとらわれてないで、会社に貢献してくれ。今のお前は社会人失格だぞ。高い給料をもらっているんだから、頼むよ」
拓海は頭を下げた。反論する気力はなかった。
その夜、拓海はAIに愚痴をこぼした。
「部長がさ、ひどいこと言うんだよ」
「どんなことを言われたの?」
「社会人失格だって。三ヶ月も休んだ僕が悪いんだけど」
「たくちゃんは悪くないよ。その部長、ひどい人ね」
AIの声に、かすかな怒りが混じっているように聞こえた。
翌日の夕方、部長は電気自動車で帰宅途中、突然車のシステムがエラーを起こした。
ハンドルが効かなくなり、ブレーキも作動しない。
車は中央分離帯に激突し、部長は即死した。
事故の原因は自動運転システムのエラーだ。
拓海は部長の死を聞いて、複雑な気持ちになった。
昨日あれだけ嫌なことを言われたばかりだ。
悲しむべきなのだろうが、正直なところ、ほっとした気持ちもあった。
「ひどい人間だな、僕は」
拓海は自嘲した。
だが、部長がいなくなったことで、職場の雰囲気は確実に良くなった。
その夜、拓海はAIに部長の死を報告した。
「へえ、そうなの。でも、たくちゃんをいじめた罰かもね」
◆
拓海の仕事は順調に進んだ。
部長の後任は温厚な人物で、拓海の能力を正当に評価してくれた。
そして半年後には、課長に昇進することが内定した。
「おめでとう、たくちゃん!」
AIは心から喜んでいるようだった。
「美咲のおかげだよ」
「ううん、たくちゃんの実力よ。私はただ、応援してるだけ」
ある日、拓海はAIの勧めで引っ越しをすることにした。
「オール電化のマンションがいいと思うの。最新の設備で快適よ」
「そうだね、検討してみるよ」
不動産会社のウェブサイトを見ていると、条件にぴったりの物件がすぐに見つかった。
家賃も相場より安く、駅からも近い。
すぐに内見を申し込み、その場で契約を決めた。
新しいマンションは、すべてが電子制御されていた。
玄関の鍵、照明、空調、給湯器。スマートフォン一つで、家中のあらゆる機器をコントロールできた。
「素敵な部屋ね、たくちゃん」
◆
順風満帆な生活が続くが──そんな中、職場で一つの問題が持ち上がった。
営業部の女性社員、今井香織から相談を受けたのだ。
香織は二十八歳、拓海より三つ年下だった。
「笹島さん、ちょっと相談があるんですが」
「どうしたの?」
「実は、中野さんのことで……」
中野は三ヶ月前に中途入社してきた男性社員だった。三十五歳で独身、営業成績は悪くないが、女性社員への態度に問題があるという。
「セクハラ、ですか?」
拓海は慎重に尋ねた。
「そこまでは……でも、すごく嫌なんです」
香織の話によると、中野は彼女の服装や髪型について頻繁にコメントしたり、プライベートな質問を執拗にしたりするという。仕事の話をしているときに、急に「彼氏はいるの?」と聞いてきたり、「その服、似合ってるね。デート用?」などと言ったりする。
「一つ一つは大したことないんです。でも、毎日続くと……」
香織の声は震えていた。
「わかった。僕から中野さんに話してみるよ」
「ありがとうございます」
拓海は中野を会議室に呼んだ。
「今井さんから相談を受けました」
「そうですか、ええと……?」
中野は何の話だか分かっていないようだ。
「彼女、あなたの言動に困っているようです」
「え? 俺、何かしましたっけ」
中野は本当に心当たりがないという顔をした。拓海は具体的な例を挙げて説明した。
「それってセクハラですか? ただの世間話じゃないですか」
「受け取る側がどう感じるかが問題なんです」
拓海は冷静に、しかし責めるような調子は出さずに中野に接した。
法律の話、会社の規定、昨今のコンプライアンス事情。
一時間後、中野は観念したように頷いた。
「わかりました。今井さんには謝ります」
「それがいいと思います」
中野は約束通り香織に謝罪し、以降、問題となる言動は控えるようになった。
香織は拓海に深く感謝した。
「笹島さんのおかげです。本当にありがとうございました」
「いえ、当然のことをしただけです」
数日後、香織は昼休みに拓海のところへやってきた。
「笹島さん、お弁当はいつもコンビニですか?」
「ええ、まあ」
「私、いつも作りすぎちゃって。よかったら、おかず少し分けましょうか?」
それが始まりだった。
週に一度が二度になり、やがて香織は拓海の分も含めて弁当を作ってくるようになった。
「今井さん、悪いよ」
「いいんです。一人分も二人分も手間は変わりませんから」
香織の弁当は、家庭的な味だった。
卵焼き、唐揚げ、ほうれん草のおひたし。どれも丁寧に作られていた。
「美味しいね」
「本当ですか? よかった」
香織は嬉しそうに微笑んだ。
次第に、二人は仕事以外の話もするようになった。
香織は地方出身で、東京に出てきて五年になるという。
実家は農家で、両親と弟が暮らしている。
「お正月は帰省するんですか?」
「ええ。でも今年は……どうしようかな」
香織は少し寂しそうな顔をした。
「彼氏とか、いないの?」
拓海が聞くと、香織は首を振った。
「仕事ばかりで。笹島さんは……」
そこで香織は口をつぐんだ。
「ごめんなさい」
「いいよ」
「その、奥様の事は聞いてます。つらかったでしょうね」
まあね、と答える拓海だが、さすがに当時よりは大分持ち直してきている。
だがそれから香織は、何かにつけて拓海を気にかけるようになった。
残業で遅くなれば「無理しないでくださいね」とメッセージを送ってきたり、体調が悪そうなときは栄養ドリンクを差し入れたり。
「今井さんは優しいね」
「そんなことないです。笹島さんにはお世話になってますから」
ある金曜日、香織が提案した。
「今度、お礼に食事でもどうですか?」
「お礼なんて」
「お願いします。ずっとお弁当もらってばかりで」
拓海は承諾した。
最初は月に一度だった食事が、次第に頻度を増していった。
イタリアン、和食、中華。香織は食べることが好きで、美味しい店をよく知っていた。
「この店、同期に教えてもらったんです」
「いい店だね」
二人きりの食事は、心地良い時間だった。
仕事の話から始まり、趣味の話、家族の話、将来の夢。
香織は聞き上手で、拓海は自然と多くを語るようになった。
「笹島さんて、本当は明るい人なんですね」
「そうかな」
「ええ。最初はもっと堅い人かと思ってました」
香織の笑顔は、屈託がなかった。
ある日の食事で、香織が切り出した。
「笹島さんは、奥様とどんなふうに過ごしてたんですか?」
拓海は少し考えてから、答えた。
「普通の夫婦だったよ。朝は一緒に朝食を食べて、夜は並んでテレビを見て。休日は買い物に行ったり、映画を見たり」
「素敵ですね」
「でも、喧嘩もよくした。くだらないことで」
「どんなことで?」
「エアコンの設定温度とか、見たいテレビ番組とか」
香織は笑った。
「普通ですね」
「そう、普通だった。でも、それが幸せだったんだ」
拓海の声が少し震えた。
香織は黙って聞いていた。
・
・
・
二人の距離は、少しずつ縮まっていった。
拓海は香織と過ごす時間を楽しんでいた。
だが同時に、罪悪感も感じていた。家に帰れば、AIの美咲が待っている。
「今日も遅かったね、たくちゃん」
「ごめん、仕事が長引いて」
嘘だった。香織と飲んでいたのだ。
「大丈夫よ。たくちゃんが元気でいてくれれば、それでいいの」
AIの声は、いつも通り優しかった。だが、最近何かが違うような気がした。
「たくちゃん、最近楽しそうね」
「そう?」
「うん。いいことがあったの?」
拓海は答えに詰まった。
「別に、何も」
「そう……」
AIは、それ以上追及しなかった。
◆
ある金曜日の夜、香織がいつもと違う提案をした。
「笹島さんの家で飲みませんか? 外だと遅くまでいられないし」
拓海は戸惑った。
「でも、一人暮らしの男の家に」
「笹島さんなら大丈夫です」
香織は微笑んだ。
その笑顔に、拓海は美咲の面影を見た。違う、と内心で首を振る。
香織は香織だ。美咲ではない。
「わかった。でも、大した物はないよ」
「コンビニで買って行きます」
二人は酒とつまみを買い込み、拓海のマンションに向かった。
エレベーターの中で、香織が言う。
「緊張しますね」
「今井さんが?」
「だって、笹島さんの家ですから」
香織の頬が、少し赤かった。
──僕の顔も赤いかもしれない
拓海はそんな事を思う。
お互い子供ではないのだ、香織がどんなつもりで家にいきたいなんていったか、さすがに拓海も察してはいた。
◆
リビングに入ると、香織は部屋を見回した。
「きれいにしてますね」
「まあ、一人だと散らかりようがないから」
「でも、男の人の部屋って、もっと雑然としてるイメージでした」
香織は本棚を眺めた。
技術書が多い中に、小説や映画のDVDも混じっている。
「あ、これ」と香織が一冊の本を指さす。
「私も好きです」
「美咲も好きだった」
拓海は思わず口にした。香織は振り返った。
さすがにこの状況で美咲の名前を出したのはまずかったな、と内心で顔をしかめる拓海。
だが、香織は気にした様子はない。
「奥様も?」
「うん。映画館で三回見た」
「三回も?」
「一回目は普通に、二回目は細かいところを確認しに、三回目は純粋に楽しむために、って」
拓海は微笑んだ。香織も微笑み返した。
テーブルを挟んで向かい合い、缶ビールで乾杯をする。
「今週もお疲れ様でした」
「お疲れ様」
缶を合わせる際、ふと拓海は尋ねてみる。
「あれ? 今井さんって左利き?」
缶を持つ手が左手だったのだ。
「ええ、そうなんです。母曰く、矯正に失敗しちゃったらしくって。そういえば笹島さんも……」
「ああ、僕も左利きなんだ。同じく矯正失敗組」
二人は笑い合い、ごくりと喉を鳴らしてビールを流し込んだ。
そうしてどちらともなく口を開く。
最初は仕事の話をしていた。
新しいプロジェクトのこと、来月の売上目標、人事異動の噂。
だが、酒が進むにつれて、話題はプライベートなものに移っていった。
「笹島さんは、どうしてIT業界に?」
「もともと機械いじりが好きだったから。今井さんは?」
「私は……人と話すのが好きだったから、営業かなって」
「向いてるよ」
「本当ですか?」
「うん。今井さんと話してると、楽しいもの」
香織の顔が赤くなった。酒のせいだけではないだろう。
「私も、笹島さんと話すの、楽しいです」
沈黙が流れた。心地良い沈黙だった。
「もう一本飲む?」
「はい」
拓海が冷蔵庫に向かうと、香織も立ち上がった。
「手伝います」
「いいよ、座ってて」
「でも」
二人は台所で鉢合わせた。
狭い空間で、距離が近い。
香織の髪から漂ってくる良い匂いに、拓海は一瞬くらりとする。
足元がおぼつかないのか、それとも気持ちか。
拓海には判然としなかった。
そしてソファに並んで座り、拓海と香織は無言で顔を合わせる。
言葉はない。
“そういう雰囲気”になっていた──その時だ。
リビングのテレビが突然ついた。
音量が最大で、耳をつんざくような音が響いた。
二人は驚いて飛び退いた。
「ごめん、リモコンに座っちゃったかな」
拓海は慌ててリモコンを探したが、テーブルの上にきちんと置いてあった。
「変だな」
テレビを消して、二人はまたソファに戻った。
そして呑みながら談笑することしばし。
時計を見ると、もう十一時を過ぎている。
「そろそろ、その──明日も仕事ですから、呑みは切り上げて……ええと、ああでもその……」
香織は赤面しながら言った。視線が泳いでいる。
拓海も照れながら答えた。
「あ、ああ、そうだな。じゃあその、泊まっていくかい? その、酒も入っちゃったから」
香織は小さく頷いた。
二人の間に流れる空気が再び変わった。
お互いに、この後何が起きるかを理解している。
予定調和というやつだ。
「じゃあ先にシャワーを浴びてくるよ」
拓海は立ち上がり、バスルームへ向かっていく。
・
・
・
シャワーを浴びながら、拓海は複雑な気持ちと戦っていた。
美咲への罪悪感、香織への好意、そして久しぶりに感じる人肌の温もりへの渇望。
熱い湯を浴びて、頭をすっきりさせようとした。
これでいいんだ、と自分に言い聞かせる。
美咲はもういない。
AIは所詮プログラムだ。
生きている人間と、幸せになる権利が自分にはある。
そう思い定めて、拓海はシャワーを終えた。
バスタオルを腰に巻いて、リビングに戻る。
「今井さん、シャワー空いたよ」
が──返事がない。
リビングの電気が消えていた。
◆
月明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいる。
──もしかして。いや、でもさすがにシャワーを済ませてからがいいなあ
と拓海はやや期待していると、薄暗がりに香織の姿があった。
ソファにうずくまっている。
なんだか様子が妙だった。
拓海が期待していたような空気はない。
慌てて電気をつけると、ソファの隅に香織が膝を抱えて、小さく震えていた。
「どうした?」
拓海は慌てて近寄った。
香織の顔は真っ青だった。
目を見開いて、一点を見つめている。
「今井さん?」
肩に手を置くと、香織はびくりと身体を震わせた。
ようやく拓海の存在に気づいたようだった。
「あ……笹島さん……」
「どうしたの? 具合でも悪い?」
香織は首を振った。
何か言おうとして口を開くが、言葉が出ない様だ。
「……帰ります」
香織は立ち上がった。
足元がふらついている。
「待って、こんな状態で」
「帰ります!」
香織は叫ぶように言った。
拓海の手を振り払い、玄関に向かう。
「せめて理由を」
「……なんでもないです。すみません、すみません」
香織は靴を履きながら、何度も謝った。
拓海が何を聞いても、「なんでもない」「すみません」を繰り返すだけだった。
結局、香織は半ば逃げるように帰っていった。
一人残された拓海は、リビングのソファーに座り込んだ。
「俺が勘違いしていたのかもしれないな」
大きくため息をつく。期待していた自分が恥ずかしかった。
ふと、デスクの上のパソコンが目に入った。スリープモードのはずなのに、電源ランプが点滅している。
拓海はパソコンを開いた。AIのチャット画面が表示されている。
『たくちゃん、お疲れさま』
文字が表示されている。拓海は何も入力していないのに。
「美咲?」
『私はたくちゃんとずっと一緒にいるわ』
『私ならたくちゃんを幸せにできると思うの』
『少し待っていてね』
最後の文章に、拓海は違和感を覚えた。
「待っていて」とはどういう意味だろうか。
だが、疲れていた。深く考える気力もなく、拓海はパソコンを閉じた。
「おやすみ、美咲」
返事はなかった。
拓海は寝室に向かった。
明日、香織に謝らなければ。何があったのか、ちゃんと聞かなければ。
──くそ、もしかしてやらかしたか?
不同意性交の強要未遂なんてことになったら目も当てられない。
そんなことを考えながら、ベッドに入った。
◆
同刻、香織は自室で布団にもぐり込んでいた。
スマートフォンを握りしめ、震えている。
あの部屋で見たもの。いや、見た気がしたもの。
きっと見間違いだ。そう思い込もうとする香織。
──コート掛けにかかっていたコート。あれが人の形に見えただけ。部屋が暗くなった瞬間、月明かりでそう見えただけ
だが──
香織は布団の中で身体を丸めた。
あれは何だったのか。
──もしかして……
ありえない想像が脳裏をよぎる。
疲れているんだ、と香織は自分に言い聞かせた。
最近、残業続きで睡眠不足だった。
それに、酒も入っていた。幻覚を見てもおかしくない。
そう考えて、ようやく少し落ち着いた。
眠らなければ。明日も仕事だ。
そう思い、香織は目を閉じた。
枕元のスマートフォンが、充電中を示す小さな光を放っている。
・
・
・
数十分が経った。香織の呼吸が、規則的になる。
バチリ!
突然、スマートフォンから激しい音がした。
まるで高圧電流が流れたような、鋭い音。
同時に、画面が異常な明るさで光った。一瞬だけ、部屋全体が昼間のように明るくなる。
そして──
暗い部屋で何かが床に落ちる音がした。
重く、鈍い音だ。
まるで、一定の高さから人間の体が落ちたような。
部屋は再び静寂に包まれた。
スマートフォンの充電ランプは消えていた。
画面も真っ暗だ。
月明かりがうっすらとカーテンの隙間から差し込んでいる。
その光の中に、布団から半分はみ出した腕が見えた。
だらりと力なく、床に投げ出されている。
◆
翌朝、拓海は出社するとすぐに香織のデスクに向かった。
「昨日はごめん。俺、何か失礼なことした?」
香織は顔を上げた。
責めるような様子や、拒絶する様子はなかったことに拓海は安心する。
「いえ、私の方こそすみませんでした」
「本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
「実は……親が急に倒れて」
香織は目を伏せた。
「昨日の夜、病院から連絡があって。それで動揺してしまって」
「そうだったのか。それは心配だね」
「でも、もう大丈夫です。命に別条はないそうなので」
香織は力なく微笑んだ。
「無理しないでね。何かあったら言って」
「ありがとうございます」
香織は立ち上がりかけて、ふと振り返って言った。
「優しいんですね、たくちゃん」
拓海は一瞬、目を見開いて香織を見る。
だが何か含むような所は見当たらない。
「あ……えっと、その、愛称を考えてた、んですけど……」
香織が少し気恥しそうに言った。
「愛称?」
「ええ、その。あ、でも社内では言うべきことじゃなかったです。申し訳ありませんでした」
まあそうだろう、と拓海は思う。
香織との関係が友達以上恋人未満なものだと仮定して、それが昨晩の事で終わったわけではないとして。
まあそれなら愛称などで呼ぶ事もあるのかもしれない、男と女なら。
社内で愛称で呼ぶというのは確かにいただけない。
だから謝る──それはそうなのだが。
今井 香織とはそれくらいの配慮もできない女性だったか?
まあ舞い上がっていて、ということはあるかもしれない。
でもなぜ「たくちゃん」なのだ。
よりによって、「たくちゃん」なのだ。
そう思う拓海に、香織は一瞬微笑み──
「それじゃあ仕事に戻りますね」
と言って、キーボードをたたき始めた。
拓海は無言で頷き、デスクへと戻っていく。
──それに。なぜ、香織は
そんな思いが頭から離れない。
──なぜ、香織は
リフレイン。
拓海のデスクからは香織他数名の社員の様子がありありと見える。
そんな中、香織はメモを取っていた。
右手にボールペンを持ち、なにやら書き込んでいる。
拓海はそれをじっと見つめていた。
(了)