運命というものは、時にほんの小さな出会いから始まる。
それは、まるで蝶の羽ばたきが遠くの地で嵐を呼ぶように、ささやかな出来事が人生を大きく揺らすこともあるのだ。
俺はその日、イタリアンレストランに立ち寄った。午後から採用面接があるから、その前に腹ごしらえをしようと思ったのだ。
ここまで五社の面接を受けて、全部不採用。今日の面接が、もしかしたら最後のチャンスかもしれない。
店内は満席で、店員が申し訳なさそうに俺を見つめている。
「お客様、申し訳ありません。本日は満席でして……」
俺は店内を見渡した。どのテーブルも埋まっている。予想以上に混んでいたようだ。
「あちらのお客様がお一人様ですので、もしよろしければ相席で……」
店員が指さした先には、白い着物を着た女性が一人で座っていた。栗毛色の長い髪が背中に流れ、端正な顔立ちだ。
その手元には、もう注文したスパゲティ・ミートソースが運ばれている。
「あ、いえ、大丈夫です。別の店を探しますので」
俺は丁寧に断ろうとした。その時だった。
「あら、お一人様でしたら、どうぞこちらへ」
着物姿の女性が、意外なほど明るい声で言った。その声に、店員も俺も思わず目を見開いた。
「え、でも……」
「大丈夫ですよ。私も一人ですし、それに……」
女性はふんわりと微笑んだ。
「ここのパスタ、本当に美味しいんです。ぜひ召し上がってみてください」
その言葉に、俺はつい頷いてしまった。店員に案内され、着物姿の女性の向かいに座る。
「ありがとうございます」
俺はメニューを開き、大好物の明太子クリームパスタを注文した。
たらこは旨味成分が豊富だけど、明太子は発酵させることでさらに旨味が増す。しかも、辛味とクリームソースの組み合わせが絶妙で、味に深みが出るのだ。
まさに至高の逸品だと俺は思う。
向かいの女性は一心不乱にスパゲティ・ミートソースを食べていた。その様子は、まるで世界に自分とパスタしか存在しないかのようだった。
その時だった。
「あの、もなさん……」
店員が恐る恐る近づいてきた。どうやら女性は常連らしい。
「お着物に、ミートソースが……」
女性は初めて気づいたように自分の着物を見下ろした。
白い着物の胸元に、真っ赤なミートソースが派手に飛び散っている。
「あ、あの……良かったら、これをどうぞ」
俺は内心ため息をついた。どうせ二度と会わない人だし、ここで見て見ぬふりもできない。母が『何かあった時のために』と鞄に入れてくれていた染み抜きスプレーを取り出した。
女性は一瞬驚いたが、すぐに微笑んだ。
「ありがとうございます。とても助かります。このあと、人と会う仕事があるんです」
そう言って、彼女は染み抜きスプレーを受け取り、さっと着物に吹きかけた。その手際は、まるで日常茶飯事のようだった。
「染みが落ちるといいのですが……」
「大丈夫みたいです。実は……」
女性は少し俯き、小声で続けた。
「実は、私の失敗は日常茶飯事なんです」
美人だけど、ちょっと変わった人だな……と俺は思った。
でも、ここで冷たくするのも気が引けて、適当に相槌を打つことにした。
「そうですか……それは大変ですね」
俺の注文したパスタが運ばれてきた。女性は、まだ胸元の染みを気にすることもなく、再びスパゲティにフォークを伸ばした。
その姿を見ながら、俺も自分のパスタを食べ始める。
食事が終わり、俺は会計を済ませた。女性はまだ食事の途中だったが、俺は軽く会釈して店を出ようとした。
「あの、染み抜きさん……」
思わず足を止めた。店員も、その呼び方に笑いを堪えている。
いや、『染み抜きさん』って……俺の名前じゃないし、ただ染み抜きスプレーを貸しただけなのに。
内心でツッコミを入れる。
「染み抜きスプレー……」
慌てて女性が声をかけてきた。返そうというのだろう。
「いえ、大丈夫です。どうせ使う機会もないですし、まだ汚れるかもしれませんし」
俺はそう言って、店を出た。
この出会いが、俺の運命を大きく変えることになるとは、その時はまだ思いもしなかった。
それどころか、こんなめんどくさい人とは二度と会いたくないとさえ思っていた。