藤原陽菜は気づいた。
普段冷静沈着な藤原悠真でさえ、今は明らかな驚嘆と賞賛の表情を浮かべていることに。
藤原景子、橋本涼介、山下佑利は興奮のあまり席から飛び上がった。
試合は白熱の段階に入っていた。
藤原海斗は双眼鏡を取り戻した。
彼は完全に下瀬知絵に集中しているようで、藤原悠真たちが会場にいることには気づいていない様子だった。
暫定順位で下瀬知絵が首位に立つと、藤原陽菜は藤原海斗から双眼鏡を返してもらった。
「お姉さんも俺の女神にハマったか?やっぱり彼女の魅力には敵わないだろ!」
藤原海斗は嬉しそうに言った。
陽菜は俯きながら微笑み、何も答えなかった。
彼女は今、藤原悠真に電話をかけてみたいと思った。
おそらく即座に切られるだろうが。
いつもそうだったから。
考えただけで興味を失いかけたが、最後にもう一度だけと決意し、携帯を手に取った。
双眼鏡を覗きながら、悠真が着信表示を見て一瞬で電話を切り、再びレース中の下瀬知絵に視線を戻すのを目撃した。
彼の瞳に映るのは下瀬知絵だけだった。
陽菜は深く息を吸い、平静を保って双眼鏡を海斗に返した。
その後は試合も見ず、悠真のことも気にしなかった。
全てのレースが終わり、下瀬知絵が優勝した。
海斗と友人たちはサインをもらおうと騒いでいたが、
「CCさんはお嬢様で博士号持ち、レースは趣味でファンサービスはしないからサインはまず無理だよ」
「今回はプライベートレースだったけど、選手専用通路があるから近づけない…」
そんな会話の中、下瀬知絵は既に友人と祝賀会に向かったとの情報が入った。
藤原清から催促の電話がかかり、陽菜は海斗の遊びの誘いを断り、帰宅の準備をした。
トイレに寄った帰り道、誰かとぶつかった。
「すみません」
「失礼しました」
二人が同時に謝罪し、一歩下がる。
見上げると、相手は藤原悠真の親友の一人、橋本涼介だった。
涼介が陽菜に気づき、元々冷たい表情がさらに距離を置いたものになった。
陽菜は気づいていた。
10歳で悠真と知り合って以来、結婚後もずっと、悠真は陽菜を自分の交友圏から外れ続けていた。
橋本涼介たちとは十年来の顔見知りながら、挨拶程度の関係ですらなかった。
だが下瀬知絵は悠真に紹介されて間もなく、彼らの仲間として受け入れられていた。
誕生日を祝われ、レースには応援に来られる仲。
ここ二年、涼介たちの陽菜への態度はますます冷たくなっていた。
陽菜にもプライドがあった。
だから、相手が涼介だと気づいてから、挨拶はしないことに決め、その場を去ろうとした。
そこへ、「藤原さんもレースにご興味が?」涼介の声は冷ややかだった。
涼介の真意は悠真を追って来たのではないかという疑いを悟り、陽菜は振り向いて言い返した。
「何が言いたいの?」と
「ただ、藤原さんのような人間がレースを好むタイプには見えなかったので」
涼介は薄笑いを浮かべた。
「私のような人間が、ですね?」陽菜の目が涼介を貫いた。
「橋本さん、私たちそんなに親しいですか?私はどのような人間が、聞かせてもらえますか?」
涼介の記憶にある陽菜は、静かで優しく、むしろ内気な女性だった。
だが彼はそれを「計算高い本性を隠した仮面」だと思っていた。
悠真を手に入れるためなら手段を選ばない、あの事件を起こした張本人だと。
涼介は何も答えなかった。
ただ、陽菜をジッと見つめていた。
答えたくない、答える価値がない。
しかし、今日の陽菜は何かがいつもと違った。
仮面を剥がしたかのように、冷たく鋭い視線で涼介を刺し、
「あなたが私を勝手に定義づける権利などない」とでも言わんばかりだった。
陽菜は涼介の反応など気にせず、その場を去った。
夜11時近く、藤原清が海斗の学校近くに借りたアパートまで送り届けた。
海斗は成長期で、夕食から時間が経ちお腹が空いていた。
「お姉さん、この辺の夜食が美味しいんだ。ご馳走するよ」
陽菜も空腹だったので、温かい物が食べたいと思い承諾した。
席に着くと、陽菜のお腹が鳴った。
「お姉さん…夕食食べてないの?」海斗が驚いた。
「うん」
「ごめん、俺のせいで…」
「大丈夫。さっきまでお腹空いてなかったから」
陽菜の優しい笑顔に、海斗は胸が苦しくなった。
彼は心から「お姉さんは本当に良い人なのに」と思った。
ただ残念なことに、兄さんは彼女を愛していないのだ。