この日の彼女はご機嫌で、わたしの知らないフレーズを繰り返し口ずさんでいた。
「なんの歌?」
何気ない口調で問いかけると、彼女は歌うのをやめて大きな赤い瞳を、わたしに向けた。
いつもいつも毎度のように思うことだが、彼女の瞳は本当に美しい。透き通る宝石のよう――なんて言葉じゃ足りないくらいで、目を合わせていると吸い込まれそうな気持ちになる。
もちろん美しいのは瞳だけではなくて、彼女の容姿は完璧と言って差し支えのないものだった。
小柄なわたしと違って背丈は普通で、女性らしい凹凸に恵まれたプロポーションは男子だったら生唾ものだろう…………ここにいる、ごく一部の女子も含まれたりするが。
長い髪はごく淡い黄褐色で、いろいろ調べてわたしが辿り着いたのはミディーバルホワイトという色名だった。
名前は
彼女は顔にかかった髪を片手で軽く払いのけながら、その小さな唇を開いて答えてくる。
「よく知らないけど異国の歌みたいよ。楽園のことを歌ってるみたい」
「楽園かぁ……」
なんとなくわたしは空を仰いだ。
学校近くの公園に設けられたベンチは、夏が来るとまともに陽射しが当たって、まったく憩いの場所にはならないけれど、晴天に恵まれた冬の終わりには最高の場所だ。
「楽園はユートピアとも言うけど、サキはその言葉の意味を知ってるかな?」
「ええ、どこにもない場所でしょ?」
「うん。でも、わたしはどこにもないとは思えない。むしろ、そこら中にあるんじゃないかなって気がしてるの」
「ふむ……また不思議なことを言いだしたわね」
サキは面白がるように薄い唇を笑みの形にすると、軽く居住まいを正した。
「いいわ、聞いてあげるから、言ってみて」
「なんで上から目線?」
「深雪が小さいから」
「…………」
ちょっと釈然としないが、わたしは小さく嘆息してから、自分の考えを語りはじめた。
「わたしが思うに楽園っていうのは、大事な人と一緒にいられる時間と場所のことなんだよ」
「なるほど、愛する人と一緒にいられさえすれば、すでにそこが楽園ってわけね」
「うん。たぶん、そういう状況でも世の中や自分を取り巻く環境に、人間はいくらでも不満を持つだろうけど、それでも大事な人を失えば、きっとこう考えると思う」
それはテレビなんかで当たり前に耳にする言葉だ。
「あの人は自分のすべてだった。あの人さえ、そばにいてくれれば他に何もいらなかったんだって」
わたしの言葉を聞いてサキは笑みを浮かべたまま軽く腕を組んだ。
「確かに、その心情は想像できるわね。自分にとってすべてと言えるほど大事な人ならば、他のすべてを犠牲にしても取り戻そうとするでしょうし」
「うん。だから、それほどの想い人と一緒にいられるなら、その人にとってそこはもう楽園だと思うの」
「だけど、人間がそれに気づくのはいつだって、それを喪ったあと。だから、
サキはわたしが言わんとしていたことを正確に汲みとって爽やかにうなずいてみせた。
「そうね。仮に、どんな欲望でも満たせるような桃源郷があったとしても、隣に愛する人がいなければ、そんなものに価値なんて見出せないし、深雪の考えは正しいと思うわ」
「ありがとう」
わたしは嬉しくてニッコリと微笑んだ。サキに認められることは、他の誰に認められるよりも嬉しいことだ。
「でも、そうすると……」
不意にサキが小首を傾げるようにしながらつぶやく。
「わたしは今この瞬間、楽園にいるのかもしれないわね」
「え? それって……」
ドキリとするわたしだったが、サキは突然思い出したように手をポンッと合わせた。
「ああっ、イケナイ! わたしは今、深雪と絶交してるんだった」
どうでも良い方向に思考が脱線したようだ。
わたしとしてはサキの真意が気になるので、なんとかレールに戻そうと試みる。
「いや、だからそれはもういいでしょ」
「良くないわよ」
「でも、わたしは悪くないし……」
「そうよ、悪いのはわたしなの」
中学生には見えない大きな胸を張って、サキはぷんすかと表現したくなるような顔をする。
「わたしは心の狭い女だから、わたしを差し置いて免許皆伝になったあなたに嫉妬しているの」
「いや、本当にすごいのはサキの方だって……」
「どこがよ? 試合したら毎回あなたが勝つじゃない」
「いや、確かにチャンバラだけなら、わたしが上だけど……」
「剣術道場なんだからチャンバラ以上に大事なことはないでしょっ」
「そんなことはないって。サキの方が絶対に……」
「とにかくっ」
サキは人差し指をわたしにビシッと突きつける。
「あなたとはもう親分子分はやってられないから、そのつもりでいてちょうだい!」
「いや……親分にも子分にもなった覚えはないし……」
わたしは肩を落として告げるが、サキは拗ねたようにそっぽを向いてしまった。
そんな表情も実に愛らしいけど、それでもやはりわたしはサキの笑顔が好きだ。
なんとか笑顔に戻ってもらう方法はないかと頭を悩ませていると、やや強い風が吹いて桜の花びらが舞った。
釣られるように視線を公園の中央にそそり立つ大きな桜に向けると、不意に横から伸びてきた手が、わたしの髪にふれる。
くすぐったさに一瞬だけ目を細めつつ、隣を見れば、サキが桜の花びらを手に笑っていた。
「免許皆伝でも桜の花びらは避けられないみたいね」
冗談めかして言うと、サキは立ち上がって、わたしの正面に回り込む。そしてその穢れを知らないような白い手を差し出してきた。
「さあ、帰りましょう」
「う、うん」
わたしは嬉しくなって、その手を取って立ち上がる。
「じゃあ、絶交はこれで終わりだね?」
「ダメよ」
「え~~~?」
「少なくとも、わたしが免許皆伝になるまでは、絶交は維持することに決定なの」
「そんなぁ~」
口を尖らせるわたしだったけど、サキは気にすることなく、わたしの手をグイグイと引いて歩き始める。
その温かくてやわらかい手の感触が心地良くて、わたしはこっそりと幸せを噛みしめた。
サキがわたしをどう思ってくれているのか、本当のところは分からないけど、少なくとも嫌われてはいないはずだ。
わたしがサキをどう想っているかについては、これはもう考えるまでもない。
我ながら普通ではないと思うし、だからといって一線を超えられるなんてことを夢見たりはしていないけど、せめてこれからも彼女の隣にいたい。
だって、ここがわたしにとっての楽園なのだから。