テン テッテン テンテテ テッテン テテテテテン
テン テッテン テンテテ テッテン テテテテテン
ようやく朝日が昇ったばかりの早朝。
コンビニ弁当にカップ麺のゴミ、空になったビール缶、ぬぎちらかした服で足の踏み場もないワンルームのどこかに埋もれているスマホが、気の抜ける陽気な木琴のアラーム音を鳴らしている。
敷きっぱなしのせんべい布団の上に横たわっているヨレヨレのスーツを着た汚部屋の主、小野タカラは目を開けることも、ましてや起き上がることもできないほど心身ともに憔悴しきっていた。
(あー、しんどい。
あんなに頑張って就活したのに、崖っぷちで受かった会社がまさかのブラック企業。俺の人生、不運すぎる……)
不運の始まりは3歳。
両親と一緒に神奈川県の
幼児期、小学校6年間も不運は続いた。
両親の死後、父方の祖母に育てられ、親がいないことで保育園でも小学校でもからかわれたり、足を引っかけられて転ばされたり、ランドセルに石を詰められたり、犯人は分からなかったが、子供じみたいたずらのようないじめをされ続けた。
それでもめげずに近所の子達と仲良くなりたくて後を追いかけて神社の前を走っていたら、布で顔を覆われて窒息死しそうになり、近くにいた大人に助けられた。
それを祖母に話したらお守りをくれ、常に首にかけておくように言われた。どうしてかそれ以降、いたずらのようないじめはなくなったが、高学年になると周りから避けられていることに気づき、友達を作る気が失せた。
中学校3年間ももちろん不運。
友達作りは諦めて部活にも入らず、静かに3年間過ごそうと思っていた。しかし、新入初日の放課後、不運に巻き込まれてしまった。帰宅途中トイレに行きたくなって公園に寄ったら、2年生のヤンキーに絡まれている同じクラスの気弱そうな男子を見かけ、気づかない振りをして立ち去ろうとしたら、見つかって助けを求められてしまった。クラス一強い奴だとでまかせを言われ、ヤンキーにサンドバックにされている間に男子は逃げて行った。
それからは下僕のように扱われ、忍耐力とパシリのスキルが身に付いた。ヤンキー先輩が卒業してからは、高校デビューを夢見て受験勉強に没頭するようになった。
だが、高校デビューは夢で終わった。
志望校の安全圏には入れず、名前を書くだけで受かる高校になんとか入学。周りはヤンキーとギャルだらけでクラスではひとり浮いた存在で、いじめられることもなければからかわれることもなく、ただただ無視され続けた。
こうなったら大学で青春を謳歌するぞと意気込んで、高校生活の3年間はひとり黙々と勉強に励んだものの、頭の出来がよほど悪かったのか、それとも不運のせいなのか、成績が伸びることはなく、滑り止めどころか崖っぷちのFランクの大学にしか受からなかった。
大学生活は不運の連続。
大学の近くに部屋を借りて住むものの、泥棒に5回も入られ、引っ越しを余儀なくされたり、隣の人が酔っぱらって夜中に何度も入ってきたり、また引っ越しをしても何かしらご近所トラブルに巻き込まれ、結局毎日2時間かけて祖母の家から大学に通うことにした。
社会経験としてコンビニのバイトを始めても失敗ばかりで、最初は優しく接してくれていた店長も失敗が重なってくるとイライラが募ってきたようで、終いにはバックヤードから店外に聞こえるほど大声で「頼むから辞めてくれ!」と怒っているような、泣いているような複雑な顔で怒鳴られて辞めることにした。
こんなんで就職できるのか祖母に心配されながら就活を続け、案の定99社落ちて、100社めの鹿児島県内の水産業の加工、販売をしている企業からようやく採用通知が届いた。
就職浪人にならず社会人になったものの、タカラの不運は止まらない。
祖母と一緒に喜んだのも束の間、入社してすぐ偶然にも、記憶にはないが両親と暮らしていた神奈川県の愛半市内にある本社の営業部に配属された。タカラは縁を感じて両親がこの会社に入社させてくれたんだと感謝の気持ちを込めてお墓参りをしてから、希望に満ちて相模原市に引っ越し、意気揚々と出社した。しかし、そこはあまりにもブラックな会社だった。
以上、小野タカラ25歳の不運略歴である。
(これまでの人生振り返ってみても不運すぎるだろ、俺。ブラックでも、3年間ほぼ休みなしで通い続けたのに! 暴言吐かれながら働き続けたのに! ここ1年まともに給料入ってないし、もう貯金もないとか終わってる! 何かに呪われているとしか思えない!)
テン テッテン テンテテ テッテン テテテテテン
テン テッテン テンテテ テッテン テテテテテン
(そうだ、起きなきゃいけないんだ。まだ3時間しか寝てないけど、早く起きて出社しないと鬼部長からのペナルティが……)
部屋のどこかでずっとなり続けているアラームを憎らしく思いながらも、ちょっとしたことですぐに暴言を吐いて人格否定してくる部長の鬼の形相が浮かんでくる。
営業部に出社して一日目から、部長の態度は最悪だった。挨拶をしても目も合わせてくれず、書類が山積みなっているデスクを顎で指して、「分からないことがあれば近くのやつに聞け」というだけで部屋を出て行ってしまった。顎で指されたデスクの隣では、目の下に隈をつくってエナジードリンクの缶に埋もれながらパソコンとにらみ合っている社員がいた。面倒くさそうにしながらも基本的な業務内容を教えてくれ、最後に一言空恐ろしい顔でにんまり笑ってこう言った。
「地獄へようこそ」
その瞬間、希望が崩れ落ちる音が聞こえ、タカラは自分の「不運人生」に打ちのめされた。
よく耳にする働く為に必須な「報連相」はどこへやら、社員同士で何の連携も取れない状態でミスをやらかしまくり、営業先で土下座をすることもしばしば、泊まり込みで会社で朝を迎えることの方が増えた。
鬼部長に「お前みたいなバカは見たことない、社会のゴミくずめ、お前なんか必要ねえんだよ!」と拳で机をガンガン叩きながら人格否定されまくる日々。
最初の内は悔しさと恐怖で誰もいない場所で泣いたりしていたが、それも2年、3年になると涙は枯れて毎日怒られるために出社しているような気になってきた。
営業の成績も伸びず、いつまでたっても失敗ばかりして後輩に成績も抜かされてバカにされ、自分は部長のいうとおり社会のゴミくずなんだと諦めるようになっていった。
体力も気力も擦り切れ、もう限界だと思っても、鬼部長への恐怖心と出社しなければという強迫観念に圧され、目の下に隈を作って、生きているのか死んでいるのか分からないゾンビのような顔で、フラフラと出社する毎日を繰り返していた。
(スマホどこだ? アラーム止めないと。でも、体が動かない。もうとっくに限界超えてるよ。このまま死ぬのかも。いっそ死んだ方が楽になれるかな)
もふっ
お腹の上にずしっと重みがのしかかったと同時に、柔らかくてあったかい黒いモフ毛が顎の下に触れた。
(そうだ、俺にはこいつがいるんだった。まだ死ねない!)
就職したばかりの時に拾った黒猫のクロは、喉をゴロゴロ鳴らして退く気配がない。
(何で猫のゴロゴロ音ってこんなに眠くなるんだろ~。振動もたまらん。マジで起き上がれない。どうせ体動かないんだし、もうちょっとだけ寝ちゃおう)
地獄のブラック企業に入社してしまったことを知った日の夜、アパートの敷地内の茂みの前でビクッ、ビクッと体を震わせている黒い塊を見つけた。スマホのライトで照らしてみると、顔や背中から血を流した黒猫が痙攣をしていた。このままでは死んでしまうと、急いで部屋からタオルを持って来て包み込み、スマホで近くの動物病院を調べ手当たり次第に周り、5件目にしてようやく診てもらえることになった。しばらく動物病院に入院して、1週間後元気になり、里親が見つかるまでペット禁止のアパートでこっそり飼うことにした。ネットに写真を載せて里親を探すために、スマホのカメラで撮り始めると、タカラは気づいてしまった。
「この子……かわいい!」
ふにっと柔らかいもふもふで艶々な黒毛に、たらーんと伸びた尻尾をゆらゆら動かし、黄色にビー玉のような真ん丸で大きな黒い瞳でこちらをじっと見つめてくる。
目を逸らしたと思ったら床にごろんと寝転がり、もふもふの黒いお手で顔をこすり始め、突然ビクッとしたように顔を上げて丸くて大きな瞳をこちらに向け、目を細めて高い声で短く鳴いた。
「にゃーん」
「かわいい! かわいいすぎる!」
タカラは夢中でシャッターボタンをタップし続け、気づいたら100枚も黒猫を撮っていた。タカラはスマホを置いて、香箱座りをして目を閉じている真ん丸の黒猫をじっと見つめ、ゆっくりと手を伸ばし、そっと触れた。
モフッ
音こそしないが、モフッとしか言いようがないふわふわの毛並み、じんわりと手から伝わる温かい体温に心が溶けていき、慣れない場所でひとり、先行きの不安な会社で働くことへの不安が、黒猫のもふ毛に優しく包まれ、タカラの目からつーっと涙がこぼれていった。
次々と流れていく涙にタカラは堪えきれず、黒猫のお腹の下に手を入れ、もふもふに額を押し付けて嗚咽を殺して泣き続けた。黒猫は少し身じろぎしただけでタカラが泣き止むまで動かず、ただ目を閉じていた。
「よし、決めた!」
涙を拭ったタカラは鼻水を垂らしながら黒猫の顔を両手で包み込んだ。黒猫はグレーの髭をピンと伸ばして瞳を丸くした。
「お前は今日から俺が飼う!」
黒猫は言葉が分かったのか、髭をストンと落として、目を細めた。
それからクロと名付け、タカラはクロを養うため出社し続け、なるべく帰宅できるよう仕事を効率よく終わらせる術を身に着けた。それでも夜遅く帰ることも多々あり、帰るとクロが「アオーン」と低い大きな声で鳴いて階下に住む大家にばれないか心配になりながらも、クロを抱きしめて猫吸いしまくり、帰るとクロがいる幸せを嚙みしめた。
布団に寝転がるとすぐに、クロが顔の横にやってきて撫でている内に眠りにつき、数時間しか眠れないまま朝を迎え、隣で眠るクロのもふもふなお腹に誘惑されながらも、なんとか起きて出社する毎日を繰り返した。
クロに支えられ3年間やってこられたが、タカラの体と心はとうに限界を迎えていたのだった。