室内の中央には、ガラステーブルを挟んでキャメル色の革のソファが向かい合わせになっており、窓際には大型のチャコールグレーの机がある。同色の座り心地の良さそうな椅子に背中を預けている、白いふわふわの毛皮を朱色の着物の肩にかけた色白の美人が、キセルの煙をふーっと吐いた。
「すっげー、美人……あれ?」
タカラが頬を染めて見惚れていると、頭に大振りな簪や櫛をいくつもさして花魁のように結い上げた頭の上にピョコッと猫耳が生えていることに気づいた。
「猫?」
「ひふみは、猫又の上位種の
「じゃあ、クロの上司? 古い知り合いって言ってなかったっけ?」
「そいつとは昔から縁があってね。今はあたいが上司みたいなものさ。クロ、そいつが例の人間かい」
美女がクロを見ながら、キセルでタカラを指した。
「そうにゃ。タカラにゃ」
「は、初めまして。小野タカラと申します」
タカラは慌てて一礼し、ひふみに目を向けた。
「あたいは、ひふみ。役所所長さ。タカラ、急に妖界に来て驚いたかい?」
「それはもう、驚きましたよ。起きたら3日経ってるし、クロはしゃべりだすし、会社やめることになってて給料入ってるし、クロが転職先仲介するからすぐ面接行けとかいうし、玄関開けたら妖界来てるし、ゲゲゲな妖怪だらけだし、夢としか思えないですよ。あ、でも、飲食店は全部おいしかったです」
ぶつぶつ文句を言いながらも、へらっと笑うタカラをクロは呆れた顔で見た。ひふみは笑みをこぼして興味深そうにタカラを見つめた。
「ふふっ。そうかい、うまかったか。ここの仕事のことはクロから聞いたかい?」
「新部署の責任者っていうのは聞いたんですけど」
「なんだ、それだけしか話してないのか」
ひふみが瞳孔を丸くしてクロを見た。
「時間がなかったから仕方ないにゃ」
クロはソファの上で伸びをして背もたれに背中を預けて足をだらーんと伸ばして座った。
「上司の前でよくそんなだらしない座り方できるな。あ~、可愛かったクロはどこにいったんだ……」
タカラが不遜な態度のクロを嘆いていると、クロはモフモフのおててで顔をこすって毛づくろいをしながら、ふんと鼻を鳴らした。
「タカラ、おまえさんも座りな」
タカラがクロの向かいのソファに腰を下ろすと、ひふみは煙管の煙を吸ってふーっと長く吐き出した。
「数年前までは人間界に暮らすあやかしが、人間界で相談事を請け負ってたんだけど、少々問題が起きちまってね。これからはあたいが管理する役所に、相談窓口の部署を作って対応することにしたのさ」
「今まではあやかしが、あやかしの相談の対応をしてたんですよね? あやかしの相談って、人間が解決できるものなんですか?」
「人間界に住んでるんだから、あやかし側だけの目線では解決しない悩みもある。人間の力も必要なのさ。
今は門によって妖界と人間界は隔たっているが、昔は人間界であやかしも共に生きていた。その名残で、昔から人間界に住み着いているあやかしが、新しく人間界に住むようになったあやかしの困り事を請け負って解決してきたのさ。
でも、人間界の成長は著しい。時の流れが人間よりも緩いあたいらはついていけないことも多くてね。悩みを解決するどころか余計に迷わせてしまうことが少なからずあった。
そこで、妖界であやかしのために働ける人間を責任者として立てて、新たに相談窓口を作ることになったのさ」
ひふみはキセルを吸うとふーっと長く細い煙を吐き出した。そして椅子から立ち上がり、タカラの方に近付いていく。ひふみの腰辺りに、ふさふさの三毛の尻尾が3本、ゆらゆら動いているのが見えた。
「とはいっても、人間を連れてくるのは簡単なことじゃない。頭を抱えていたら、ちょうどクロからおまえさんの話を聞いてね。ブラック企業で3年間も働いた根性と忍耐力に加えて、あやかしと波長が合う霊力も兼ね備えている、まさに探し求めていた人材だ」
キセルをつきつけられ、タカラは仰け反った。
「あの、あやかしと波長が合う霊力って、どういうことですか?」
「言ってなかったかにゃ? タカラにはあやかしを引き寄せる力がうっすらあるにゃ」
「うっすら?」
ひふみが鼻をひくつかせながら、タカラの胸元に顔をぐっと近付けてくる。タカラは顔を赤らめ、どぎまぎして体を強張らせた。
「ほう。お守りが力を抑えているようだね」
ひふみは顔を離して、真っ赤な紅をひいた唇でニンマリ笑った。
「お守りってこれですか?」
タカラはシャツの下から、常に首にぶら下げている年季の入った紫紺のお守りを取り出して見せた。
「そうさ。これを作った者も相当霊力が高い」
「えっ? ばあちゃんの手作りですよ?」
「きっとタカラはそういう血筋なんだにゃ。だから吾輩もタカラの力に惹かれたのかもしれないにゃ」
「偶然、アパートの前で死にかけてたんじゃないのか?」
「あの時のことはよくおぼえてないにゃ。多分、そうかもしれないってことにゃ」
「とにかく、小野タカラ、おまえさんにはこれからあやかし相談窓口の責任者として働いてもらう。よいな?」
「えっと、いいかと聞かれても、業務内容がふわふわしてて、できるかどうかも分からないし、まだ現実味ないっていうか、それに福利厚生どうなってるのか聞いてないし、なんかブラックではないけど、グレーっぽい臭いもして怖いっていうか……」
手をぎゅっと組み合わせてうつむき、もごもごと話すタカラの膝の上にクロが飛び乗ってきて、丸い瞳でタカラを見上げた。
「タカラならできるにゃ。吾輩のお墨付きにゃ」
「クロ……!」
クロの頭を撫でようと手を伸ばすと、爪の出ていない猫パンチで払い除けられた。クロは獲物を捉える時のように瞳を最大限見開き、髭をピンと伸ばして、脅すようにもふもふのおてての間から鋭くとがった爪を見せてきた。
「タカラをブラック企業から救って、未払いの給料も振り込ませて、転職先も仲介してやったのは吾輩にゃ。ここでできないとかやりませんとか言って吾輩の顔に泥を塗るようなことはしないよにゃあ?」
「ひぃーっ! 語尾だけかわいくても怖い!」
タカラは役所に来る前に引っ掛かれて未だにじんじん痛む頬に手を当てた。
「ここに転職するよにゃあ?」
今度は牙まで剥き出し、膝に軽く爪を立て、腕を甘噛みしてきた。タカラはぶんぶん勢いよく首を縦に振る。
「て、転職します! ここに入社しますから! だから引っ掻くのと噛むのやめてー」
ひふみはふっと笑みを浮かべ、机の上から書類を2枚取ってタカラに渡した。
「契約書だよ。1枚はあたいが持っておくから、もう1枚はタカラが持っておきな。問題なければ2枚とも署名して、拇印するんだよ」
「あのー、給料とか福利厚生はどうなります?」
タカラは不安気な顔でひふみを見つめた。
「ここは役所だよ。福利厚生は充実してるに決まってるじゃないか。1日の業務時間は9時から17時まで、その間昼休み1時間。週休2日で、残業、休日出勤なし。相談を解決したら都度報酬あり。もし残業、休日出勤をすることになったら手当てもつくし、代休も申請可」
「おお! 夢にまでみたホワイト企業! グレーとか言ってすいませんでした!」
タカラは目を輝かせる。
「住居は役所の社員寮で、3食付き。寮費はかからず、食費だけ給料から天引き。職場までの距離はわずか30秒。ペットも飼えるから、クロと一緒に住めるさ」
いたずらっぽい笑みを浮かべてくすくす笑うひふみに、クロは尻尾とひげを逆立てて怒りをあらわにした。
「誰がペットにゃ!」
「にゃーにゃー言ってるじゃないか」
「フシャーッ!」
「まあまあ。一緒に住めるんだからいいじゃないか」
タカラは、今にも飛びかかりそうなクロの背中を撫で、落ち着かせた。
「ふん! タカラ、さっさと名前書いて拇印するにゃ」
「ちょっと待った! 職場に近い所に住むのはいいとして、もう二度と人間界に帰れないとかはないですよね? これからずっとここで生きなきゃいけいとかじゃないですよね?!」
「まさか。あやかしも自由に人間界にいけるのに、おまえさんが行けないはずはないさ。休みの日は、行きたければ行くといい。相談内容によっては、人間界に行くこともあるだろうさ。おまえさんには、妖界と人間界の架け橋になってもらいたいんだよ」
「妖界と人間界の架け橋? 俺が?」
「ああ。タカラにしかできないやりがいのある仕事だよ」
ひふみは黄金色の瞳を丸くしてタカラをじっと見つめる。タカラの脳内でひふみの言葉が反芻された。
『タカラにしかできない、やりがいのある仕事』
ドクンと胸が高鳴り、タカラの全身に希望に満ち溢れた血液が踊りながら流れていく。
「これまでのブラック企業では味わえなかった仕事へのやりがい、働く楽しさを知ることができるはずだよ」
タカラの目をじっと見つめながらひふみがよく通るアルト調の声で話す。
「仕事へのやりがい、働く楽しさ……」
タカラが呟くと、脳内でサンバの陽気な曲が流れだし、ひふみやクロとサンバを踊っている光景が浮かんできた。
「サンバ、楽しそう……」
「サンバ? タカラ、大丈夫にゃ?」
焦点の合わない目でぼうっとひふみの瞳を見つめているタカラに、クロが怪訝な顔を向ける。
ひふみがパンッと手を打つと、タカラはビクッと体を震わせ、キョロキョロ辺りを見回した。
「あ、あれ、サンバは?」
「タカラ、この仕事やってくれるな?」
ひふみがペン立てからボールペンを取ってタカラに渡し、朱肉をガラステーブルの上に置いた。
「やりがいがあって楽しい仕事なら、やってみます!」
タカラは2枚の契約書に署名をして、名前の横に拇印を押した。
ひふみも親指に朱肉をつけ、2枚を並べて割印をした。タカラもやるように言われ、同じように割印をすると、契約書が一瞬ピカッと光り、右手の甲がチクッと痛んだ。
「何だこれ!」
タカラの右手の甲に、光を放つ猫の顔のマークがあらわれた。マークの中には「ひふみ」と書いてある。
「契約の証さ」
ひふみは光を放っている左手の甲をタカラに見せた。円の中に「小野タカラ」と書かれてある。光は徐々に弱まり、それと同じくマークも薄くなっていく。光が消えるとマークも消えて見えなくなった。
「破ると命に関わるのさ。契約違反は死に繋がるから覚悟しておきな」
ひふみの瞳がキランと光り、タカラは背中に氷を落とされたかのようにビクビクッと体を震わせ、今はなにも見えない右手の甲を見下ろした。
「本当にホワイト企業?!」
眉を八の字にして不安そうな顔をするタカラに、ひふみは三又の尻尾をゆらゆら動かしながら、ふふふっと笑みを浮かべた。
「違反しなければいいだけのことさ」
「吾輩がついているから安心するにゃ。職場も住むところも一緒にゃ」
クロはポンポン、とタカラの背中を叩いて自信ありげに頷いた。
「そういえば、相談窓口は他に誰か職員がいるんですか?」
「いや、職員としてはタカラだけで、クロはサポート役さ。あと、細々した事務作業をこなす事務員がいるね。さあ、契約もすんだことだし、クロに職場まで連れてってもらいな。あ、そうだ、これを渡しておくよ」
ひふみは机の上に置いてあるクレジットカードの大きさのブラックカードをタカラに渡した。
「これ、何ですか?」
「あたいの下僕の証さ」
にやりと目を細めてほくそ笑むひふみに恐怖を覚え、タカラはカードを突き返した。
「い、いらないです!」
「冗談だよ。所長の許可証みたいなもんさ。これがあれば妖界のどこでもあたいの許可なく行きたいところに自由に行けるのさ。それに、人間界に行く時にもこれがあればタカラでもあの扉を開けることができるのさ」
「なんだ、驚かさないでくださいよ。めっちゃ便利なカードじゃないですか!」
「そうさ。妖力のない人間のおまえさんにとっては生活しづらいこともあると思うが、人間界以上に不自由ない生活が送れるようサポートするさ。もちろん、やりがいもあって楽しい仕事ができるようにあたいも手助けする、こともあるさ」
「ひふみ様! ありがとうございます! 仕事頑張ります!」
目を輝かせてひふみを見つめるタカラの脳内には、またサンバが流れ出し、血液が踊りながら全身を駆け巡り、ドキドキと胸が高鳴った。クロは、興奮気味に頬を紅潮させているタカラを呆れた顔で見てため息をついた。
「にゃ~、ひふみのカリスマ妖力に魅入られてるにゃん。単純なやつにゃ」
ブラックカードを両手に包み込んで大事そうに撫でているタカラの足をクロが押し、にんまり笑みを浮かべているひふみに見送られながら所長室を後にした。