静心療養院の門がゆっくりと開いた。
星野遥菜は体に合わない古びた服をまとい、ぼさぼさの髪、そして鮮やかな顔立ちにはいくつもの痣が目立っていた。
少し離れた場所に目立つ高級車が停まり、白鳥達也——彼女の養父が慌ただしく駆け寄ってきた。
「遥菜!やっと退院できたんだな!早く帰ろう、美桜がまた倒れたんだ、すぐに助けてくれ!」
達也は何も言わせず遥菜の手首をつかみ、その顔には焦りが浮かぶ。
冷たい感覚が全身を駆け巡った。三年間も療養院に閉じ込められて、すべてを見抜いてしまった。
遥菜は無表情で手を振り払う。
「お父さん、私が退院するかどうか、あなたが決めることなんですか?」
達也は一瞬、顔をこわばらせた。
「遥菜…俺たちにも事情があって…」
遥菜はそれ以上話す気もなく、そのまま車の方へ歩いていった。
八歳の時に白鳥家に連れられたその瞬間から、彼女は「本当の令嬢」である白鳥美桜の身代わりでしかないと悟っていた。
二人は同じ年、同じ月、同じ日に生まれた。
ただ違うのは、美桜は生まれつき体が弱く、波乱の人生を送っていたこと。
一方で、遥菜は運命が強いとされており、美桜の厄を代わりに背負わされるために選ばれた。
幼い頃、美桜が発作を起こすたびに、白鳥家の者は遥菜の腕を切り、流れた血を美桜の首につけた翡翠のお守りに垂らした。そうすれば美桜の病はおさまると、陰陽師の提案で、一度も失敗したことがなかった。
三年前、美桜の病が悪化し、陰陽師は「遥菜が白鳥家にいると美桜の回復を妨げる」と断言。美桜の翡翠のお守りを持ち、強い陰の気が漂うこの静心療養院に送られた。
遥菜は何度も抵抗し、逃げようとしたが、結局は連れ戻され、達也には「育ててやった恩を忘れるな」と脅された。
三年の監禁と苦しみで、白鳥家に対する最後の幻想も消え失せていた。
——白鳥家に、必ず報いを受けさせてやる。
白鳥家に着き。
達也は先に車を降り、助手席のドアを開けて遥菜を引っ張ろうとしたが、触れた腕は骨と勘違いし思わず手を止めた。
遥菜が療養院に入ってから、達也は一度も彼女に会っていなかった。院長には「ちゃんと面倒を見てくれ」と伝えたはずだったのに…
今、かつてはふっくらとしていた卵型の顔はすっかりやせ細り、まくった袖の下には無数の古傷が刻まれた細い腕が見えた。その光景に、達也の目に一瞬だけ後ろめたさがよぎった。
家の中から、美鈴の鋭い声が響いた。
「遥菜はもう帰ってきたの? 早く連れてきてよ!」
達也は我に返り、遥菜の腕を引いて中へ。
「ほら、遥菜、急いで…」
遥菜はその手を振りほどき、静かだがはっきりと告げた。
「私はもう美桜のために一滴も血を流さない。」
達也はあわてて食い下がる。
「これが最後だ!今回だけ美桜を助けてくれれば、きっとよくなる!少し血を流すくらい大したことないだろ、美桜は命がかかってるんだ!」
白鳥美鈴も飛び出し、もともと苛立っていたせいか、夫の言葉にさらに声を尖らせた。
「そうよ!遥菜、白鳥家はあなたに何不自由なく暮らさせてきたでしょ?食べ物も服も学費も、全部うちが出してあげたのよ?感謝しなさいよ、孤児院から拾ってあげて、お嬢様として育ててあげたのに、何が不満なの?」
まただ、三年前も今も変わらない「育ててやった恩」という言い訳。
遥菜は冷ややかに笑った。
「何を言われても、私はもう協力しない。」
「恩知らずめ!白鳥家が無駄に育ててやったんだから!」
美鈴は怒鳴り散らした。
達也は妻を抑え、遥菜に向き直る。
「遥菜、これが本当に最後だ。美桜を助けてくれたら、お前の本当の両親がどこにいるか教える。」
遥菜は荷物を取ってすぐ出ていくつもりだったが、その言葉に一瞬立ち止まった。深く息を吸い込む。
「わかった。」
夫婦は目を合わせ、喜びを隠せない様子だった。
遥菜は白鳥家の中に入り、何も感じさせないまなざしで新しくなった内装を見渡した。三年経って、ここにはもう自分の痕跡は何ひとつ残っていない。
美桜の部屋に入る。ベッドには美桜が横たわり、そのそばには三年ぶりに見る男——かつての婚約者、九条光司が座っていた。
三年前、遥菜が療養院から逃げ出して助けを求めた時、彼が自ら彼女を送り返し、院長に「しっかり監視して、二度と出すな」と冷たく命じたのだった。
九条光司は顔を上げて遥菜を見たが、彼女はそれを無視してベッドに近づき、美桜の人中を思いきりつねった。
「きゃあっ!」
叫び声が部屋中に響いた。
白鳥夫婦が駆け込んできた。
美桜は口を押さえて起き上がり、涙に濡れた瞳で哀れな様子を見せる。
九条光司は激怒し、遥菜を突き飛ばして美桜を抱きしめ、厳しい声で怒鳴った。
「遥菜!何をしてる!美桜に謝れ!」
遥菜は皮肉げに口元を歪めた。
「助けてあげたのに、お礼のひとつもないの?ほら、私の血なんて使わなくても美桜は元気そうじゃない。」
九条光司がさらに怒ろうとしたが、美桜が彼の袖をつかんで止めた。
「光司さん…遥菜を責めないで…わざとじゃないから…私は大丈夫…」
「いや、美桜、遥菜が悪いんだ!きちんと謝らせるから!」
「本当に大丈夫、光司さん…」
美桜は九条光司の袖を握りしめ、か弱い仕草を見せた。
二人の親密な様子に、遥菜はうんざりした顔で部屋を出た。
「住所を教えて。」
彼女は達也に言った。
美鈴は腕を組み、冷笑を浮かべる。
「遥菜、自分の身の程も知らないで。暮長町出身の汚い子を白鳥家が拾ってやっただけ有難いと思えば?今は貧乏な親を探すって?やっぱり根っからの卑しい性格は変わらないわね。」
「もうやめろ!」
達也は妻を止め、遥菜に小声で言った。
「実は…お前の本当の両親、一度探しに来てたんだ。でも俺たちが会わせなかった…。今は暮長町にいる。貧しい生活だけど、お前が白鳥家で幸せに暮らしていると思って何も言わなかったんだ…」
そう言って、住所が書かれた紙を渡した。
「あなた!」
美鈴が厳しい声で遮る。
「そんな奴に話すことはないでしょ!恩知らずなんだから!」
彼女は遥菜に向かって勝ち誇ったように言い放つ。
「本当に親を探す気なら、さっさと戸籍も移してよ!それから——九条家の嫁の座も美桜のものだから!」
遥菜はその罵倒を無視し、紙に書かれた「暮長町」という文字をじっと見つめた。それは横浜市で最も貧しい地区だった。
彼女は紙を丁寧にしまい込み、美鈴の得意げな目を真っ直ぐに見つめ返した。
「安心して、九条光司との関係ももう終わった。これからはお互い何の関わりもない。二度と会うこともないでしょう。」
ちょうど出てきた九条光司は、「お互い何の関わりもない、二度と会わない」という言葉を聞き、顔色が急に曇り、心の奥底で説明できない不安がよぎった。