体育の授業で、浅梨ましろはまた転んだ。締め切られた体育館特有の匂いと、膝の痛みがじんわり広がる。誰かが心配そうに声をかけた。
「浅梨さん、大丈夫?」
のっぺりしたことばに振り向かずに、ましろは目を逸らした。 「……大丈夫」
言葉は小さく、けれども虚しかった。ましろの心は、いつもどこか縮こまっていた。
体育座りをしながら、クラスメイトたちの足音を聞いていた。ボールが床を転がる音、笛の音、笑い声。全部が遠くて、自分だけ違う場所に座っているような気がする。
指の腹で、痛む膝をそっとなぞる。ヒリつく痛みの中に、少しだけ安心する自分がいた。現実に、ちゃんとここにいるって確かめるように。
コートの向こう、福圓陽菜(ふくえん ひな)が走っている。
ましろの、唯一といっていい親友で、ずっと知っている彼女は、背が高くて風になびく茶色のロングヘア。大きな瞳はいつも輝き、笑顔が眩しいほど明るい。誰とでもすぐに打ち解けるムードメーカーで、クラスの中心にいる存在だった
体育の授業が終わった後、更衣室はざわざわと賑やかだった。ジャージを脱ぐ音、バッグを漁る音、制服のスカートを履くパタパタという布の音。ましろは、自分のスペースをできるだけ小さく使うようにして、そっと上の体育着を脱ぎ捨てる。
脱いだ下から出てくる身体は、どこか幼さが残っていた。
鏡に映るシルエットはバランスが悪い。タオルで汗を拭いながら思う
胸は大きいのに、腰はすとんとまっすぐで、「胸だけあるのって、逆に変じゃない?」と少し前に誰かに言われた言葉がふと蘇って、タオルをぎゅっと締め直す。
横では陽菜が軽やかに制服に着替えていた。 何気なく腕を動かすたびに、二の腕のラインにきゅっと筋肉が浮かぶ。太ももも引き締まっていて、力強いけど女性らしい曲線がある。
自分とは、全然ちがう。
「ねー、陽菜ちゃんマジで運動できるって感じだよね」 「てか細いのに脚速いのずるくない?」 「いやいや、浅梨さんの方が細いじゃん」 「え、でもあの子……」
声が小さくなって、耳の奥が熱くなった。誰の名前かは聞こえていたけれど、ましろは気づかないふりをした。
タオルをしまって、手早く制服のワイシャツに袖を通す。 ましろの存在は、誰の視線にも引っかからないまま、空気のように薄れていた。
教室に戻っても、ましろの席は静まり返っていた。
体育が終わったあとというのに、周囲はまだ騒がしく、何人かは机を囲んでおしゃべりしている。陽菜もその輪の中にいた。 制服の袖をまくり上げて、手振りを交えて何かを話している。笑い声が重なるたび、ましろの耳は少しずつ塞がっていった。
自分の机の上には教科書だけ。ペンも開いていない。顔を伏せるようにしてスマートフォンを取り出す。
・オピニオデムより メッセージが届いております
「売約成立:7,500円」 「売約成立:4,200円」 「売約成立:5,300円」
画面に浮かぶ通知。短い音がポン、ポンと立て続けに鳴るたび、心の奥がわずかに跳ねる。
軽く十数件の通知。ましろの指先が画面をなぞるたび、まるで自分の価値がひとつひとつ肯定されるようだった。
誰にも話しかけられないこの場所で、たった一つだけ、自分を必要としてくれる「世界」があるような気がした。
ましろはスマホと目を合わせてそっと笑った。今日、初めて浮かべた笑顔だった。
画面に映る通知の一覧を、ましろはゆっくりと指でスクロールする。売れたのは、希少なゲーム内アイテムと、優れた初期装備一式、育て上げた別の人のキャラクターの「称号」だった。
これがましろが手を染める「お仕事」
かつては札束で殴り合うソーシャルゲームも
小銭を詰めたみかん袋で互いの頭蓋骨を陥没させていたネットゲームも、今の主流は「課金よりも時間」
だからただお金を払うだけじゃ手に入らないものが増えている。
それは数十時間、あるいは数百時間を費やしてやっと獲得できるような、特殊な称号や、季節限定のレアアイテム。
特定期間にログインし続けたことで得られるアクセサリー
あるいは一定の勝率やランキングを維持して初めて得られるバッジ。
ましろは、それを代わりに手に入れ、課金すれば手に入れる古き良きソシャゲと同じ場所に持ってくる。
無言で、何十回も同じ戦闘を繰り返し、レベルを上げ、ドロップ率の低いアイテムを狙ってボスに挑み続ける。
単調で無意味だと言う人もいるだろう。でも、ましろは違う。
その先に、現実のお金があるから。
自分の代わりにゲームにログインしてほしいという依頼も、最近はよく来る。
特に「イベント最終日」に向けたレベリング代行や、対戦戦績の底上げ。
画面越しの「キャラクター」は、自分じゃない誰かの分身。
でも、ましろはその中身――レベルやスキル、ステータスの数字だけを磨く。
たとえ、現実の自分が誰からも期待されていなくても。
キーボードの打鍵ひとつ、戦闘の手順ひとつ。そこには「信頼」だけがある。
「任せてよかったです!」
「最高ランク、ありがとうございます!」
購入者たちは、チャット越しに短く礼を言う。名前も顔も知らない人たち。
けれど、ましろにとってはそれが「評価」だった。
現実では一言も話せないのに、ネットの中では誰かの役に立っている。
その感覚が、唯一自分を許せる時間だった。
ふとスマホから目を上げると、たまたまこちらを見ていた陽菜と視線がぶつかった。
陽菜は一瞬きょとんとしたあと、にこりと微笑む。ましろは、反射的にスマホを伏せる。
胸の奥がびくりと跳ねた。
見られた?
なにを?
売上通知? ゲームの画面? 自分が「嬉しそうに笑ってたこと」?
何に見られたのかわからないのに、心だけが焦っていた。誰にも知られていない、知られたくない自分の居場所に、誰かの気配が入り込んできた気がした。陽菜は、すぐに視線を戻し、また誰かに何かを話して笑っていた。ましろは、その笑い声の中に、自分のことが含まれていないことを確認する。
ましろの仕事、他人のゲームのレベル上げも、誰かのためのドロップ集めも、ましろはすべて手動でやっているわけじゃない。
日中は、自分で作ったbotに任せていた。
最初は単純なループ処理だけだった。時間ごとにログインし、同じダンジョンを回って、アイテムを拾って、ログアウト。
でも、ましろはそこに飽き足らなかった。 イベントの告知や、敵の行動パターン、ドロップ率のテーブル。データを読み取って、簡易なアルゴリズムに落とし込み、数十の仮想アカウントを同時に動かす。
複雑な動きや戦略的判断は人間の手で。単調で、誰でもできることはbotにやらせる。
「効率化」が、ましろの武器だった。
自分の存在を隠したまま、システムの隙間をついて、“それっぽい自然な動き”でbotを稼働させる。
規約に違反するグレーな方法。 だけど、それができるから依頼が来る。
botの作動を見張るための監視アプリも自作してある。
異常終了、接続切れ、想定外のドロップ、取得ログの不一致。すべてをスマホに通知させて、手元で確認しながら、ましろは日常をやり過ごしていた。
現実は、何も操作できない。
でもネットの中なら、すべてを支配できる。プログラムで、時間を金に変えられる。
「売約成立・7500円」 「売約成立・12000円」
ポンポンと画面が弾けるたびに、ましろの中で何かが充たされる。小さな、けれど確かな“存在証明”のように。