空気は粘りつくようで、蒸し暑さがまだ残っていた。
まるで熔けた鉄のような男の体温が、息苦しいほどの熱気をまとっていた。
「そんなに甘える声で?」耳元で、しゃがれた声が倦怠感を含んだ笑いを帯びて、こすれるように響いた。
「じゃあ──」
「こうしては?」
「あっ!」
御堂汐音は目を見開いた。
心臓が崖から急降下したような、一瞬の浮遊感。
意識が戻り、それが夢だったと気づいた。
夢の中での激しい衝撃が、喉の渇きと鼓動を高鳴らせていた。
しばらくして落ち着くと、無意識に横を探った。
虚しくて、冷たかった。
彼女の旦那様、御堂司は、まだ戻っていない。
汐音は長い髪を後ろになでつけ、一息ついて立ち上がり、水を探しに向かった。
数歩歩くと、股間の不快感に眉をひそめ、クローゼットから清潔な衣類を取り出し浴室へ向かう。
女性にも男性と同じく、生理的な欲求はある。
特に彼女のように、結婚後、毎晩のように夜明けまで肌を寄せ合い、体がその頻度に慣れてしまった身にとっては。
あの出来事の後、御堂司は海外出張を命じられ、この一年、まったく音沙汰がなかった。
あんな夢を見るのも無理はない。
汐音が着替えを済ませ、洗濯かごに入れようとした時、ベッドサイドのスマホが不意に鳴り響き、深夜の静寂を破った。
外科医として、夜間の急患は珍しくなかった。
最初は気にも留めなかったが、受話器から聞こえたのは見知らぬ男の声だった。
「御堂汐音様でいらっしゃいますか?」
「はい、私です。どちら様でしょうか?」
「新宿交番の刑事です。御堂司様はご主人様でいらっしゃいますか? 居酒屋で酔っ払いの喧嘩を起こしましたので、引き取りにおいでください」
汐音は一瞬、言葉を失った。
御堂司が戻ってきた?
戻ってきただけでなく、交番にいる。
その結果に少なからず驚き、少し間を置いてから答えた。
「はい、すぐに参ります」
外出着に着替え、車のキーを掴んでドアを出た。
新宿は東京でも有名な歓楽街。
ネオンがぼんやりと浮かび、かすかな音楽の鼓動が夜を刻む。
都心から離れた御堂家の本邸からは遠く、汐音が到着したのはもう午前四時近くだった。
居酒屋が軒を連ね、トラブルも絶えない交番の中は、人でごった返していた。
汐音がガラスドアを開けると、白い鉄パイプの椅子に座った御堂司がすぐに視界に入った。
混乱と喧騒の中にいても、彼の存在は無視できない。
まるで周囲を隔絶するゾーンを持っているかのように、近づこうとするものは誰もいなかった。
一年ぶりに見るその姿は、汐音の目に映る限り、まったく変わっていない。
白いワイシャツに黒のスラックス。
ネクタイも上着もないが、薩摩上布にも劣らぬ最高級の生地には皺一つなく、優れたシルエットが188センチの長身を引き立てている。
足を開いて座り、ワイシャツの襟元は二つボタンを外し、鋭い喉仏と鎖骨の一部が覗いている。
スラックスは座った姿勢で少し縮れ、黒い靴下に包まれた足首が、危険を孕んだような倦怠感を漂わせていた。
が、危険を孕んだような倦怠感を漂わせていた。
彼はうつむき加減で、酔いが目尻をうっすら赤く染めている。
普段の端整な顔立ちに、妖しくも艶やかな雰囲気を加えていた。
これは極度の情動の時だけに現れる、誘惑的な表情だ。今、これが人目に晒されているのだ。
交番に入り出する誰もが、思わず視線を奪われるのも当然だった。
御堂財閥の御曹司にして、東京で誰もが一目置く存在。
常に天に懸かる冷たい月のように高く遠い御方だ。
それが今日はこんな場所にいる。
誰がそんな命知らずの真似を?
あるいは、汐音の視線を感じ取ったのか、男がゆっくりと顔を上げた。
焦点の定まらない目が、彼女を認識しているかはわからないが、その瞳は誰を見ても愛おしそうに見える。
汐音は司の元へは向かわず、まっすぐに受付カウンターへ歩み寄った。
御堂汐音です。先ほどお電話いただきました」
若い制服警官が担当として出てきた。
「御堂司様の奥様でいらっしゃいますね? 旦那様が居酒屋で喧嘩をなさいました。監視カメラの映像をご覧ください」
カメラは、御堂司を真正面から捉えていた。
ぼんやりとした光の居酒屋で、ほろ酔い気味の彼は、骨格の美しさが驚くほど際立っている。
遊び人のような気怠さが眉間に刻まれている。
片手をポケットに突っ込み、もう一方の手でスマホを操作している。
すると、スタイル抜群の女が飛びつき、彼の腰をぎゅっと抱きしめた。
汐音は思わず指に力を込めた。
車のキーの角が、掌を鋭く刺した。
女は爪先立ちで彼の耳元に何か囁いた。
司はそれを面白がったらしく、口元が緩んでほのかに笑みを浮かべた。
その時はまだ、高い鼻筋に金縁の眼鏡がかけられていて、知的でありながら悪党の雰囲気が漂っていた。
映像は流れ続け、御堂司はちょうどエレベーターから出てきた若者たちと鉢合わせになった。
話は聞き取れないが、司がゆっくりと眼鏡を外し、ポケットにしまうのが見える。
一瞬にして空気が変わり、乱闘が始まった!
司の腕前は汐音も知っている。
御堂家が幼い頃から巨費を投じて鍛えた合気道は、街中の乱暴者の力技とは格が違う。
数発の打撃で相手を地面に沈めた。
警備員が駆けつけ、通報され、刑事が介入した。
最初から最後まではっきりと記録されただ。
今、汐音の脳裏に焼き付いているのは、ある女が司に抱きついたあの瞬間だった。
女はあちらにいる酔っぱらいの男を見つめ、次に殴られた若者たちに目をやった。
若者の中に二人の女の子がおり、汐音が加害者の妻だと知ると、監視映像を見た後、目に同情の色が浮かんだ。
旦那の浮気疑惑、喧嘩騒ぎで交番のお世話になり、さらに本妻が引き取りに来る。
笑ってしまうほど荒唐無稽だ。
「お姉さん、私達ホントに被害者なんです」と、一人の女の子が口を切った。
「友達が冗談で『どうしたの、ポッコリお腹なくなったね? こっそり妊娠して、こっそり中絶したんじゃないの?』って言ったんです。おそらく、彼(御堂司)はそばにいたあの女の子のことを言ってるんだと思ったんでしょうね、いきなり手を出してきて…」
「こっそり中絶した」という言葉が、氷の槍のように汐音の背筋を貫いた。彼女は無意識に手を下腹に当てた。
ようやく理解した。
人前では常に優雅で落ち着き払った御堂家の御曹司が、なぜならず者のように公衆の面前で喧嘩をしたのかを。