東京都 杉盛区
スーパー『安杉の盛』
「来たか! こっちだ!」
パトカーを降りて早々に、同じ制服に身を包んだ青年が規制テープを越えて駆け寄ってきた。
「飯倉さん、現場の状況は?」
「被害者の身元がわかった。五井野麻結、21歳。今までの被害者同様に頭部外傷による脳損傷で即死だ」
巡査部長・飯倉に案内されるがままに見たブルーシートの奥で手を合わせる。
「これで3件目ですね」
――最近、世間を騒がせている事件がある。正体不明の犯人によって繰り返される犯行は、まるで頭が潰されたかのように破裂している残忍極まりないものだ。
「現場となったこのスーパーは、月一で大安売りをすることで有名なんだ。そんな日には、県外からも多くの客が押し寄せる。被害者の死亡推定時刻は、そのセールの真っ只中で、前回の事件と同じく、話を聞けた奴らは多くないぞ」
今回も上手く撒かれたみたいだな。そう言って望は角刈り頭を掻いた。
未だ十分な証拠は掴めていない。
新米巡査・高本早夢は内ポケットから手帳を取り出して広げた。
1件目の現場は電車内で、2件目は交差点。3件目となる今回は大型スーパーの駐車場だ。2人目の被害者が出た時点で、同一犯の犯行である連続殺人が認められたが、捜査は難航を極めている。
「今回も被害者同士に共通点や交友関係はないですか?」
「今調べてる所だが、どうせ何も出ねぇだろうよ」
――人通りの多い場所での犯行……。こんなの、不審者を見てないっていう方がおかしいのに。
1件目はトンネル内を走行中の電車内での犯行ということもあり、違和感は残ったままだ。通報してきた駅員によれば、事件のあった号車にいた乗客全員と運転士以外は帰宅させたという。その間に車内を移動した者はなく、早夢が現場に到着したと同時に、事情聴取が開始されたが、誰1人として怪しい人物は居なかった。
2件目は交差点の真ん真ん中での犯行だ。ただでさえ人通りの多い場所ではあるが、犯行日は3連休初日で、人がごった返していたはずだ。被害者の周囲にいた人は特に、一目散に逃げてしまった者も多く――これが正常な反応なのだが――さすがに全員に話を聞くことはできなかった。
「嫌な空だ……。せめて痕跡がありゃいいんだけどな」
望を倣って見上げた空は黒い雲が覆い尽くしている。今にも雨が降りそうだ。
「とても人間の仕業とは思えませんね」
増えてきたギャラリーに混ざってかき消されそうになった呟きは、緊張と焦りを帯びている。
「早夢――」
「失礼します!」
ブルーシートの壁を抜けて若い警官が望に声をかける。
「200メートル先のコンビニで事件の参考人と思しき人物を確保しました!」
「何っ!? 話をさせてくれ!」
厳しい顔の望が警官の誘導で壁の外へ出る。早夢も後を追う。
「事件の手がかりを探るため近辺を捜索していた時、我々の顔を見るなり走り出す者がいたので追跡しました。身柄を捕らえたはいいのですが――」
目の前で項垂れて座るのは欧米の顔立ちをした男だった。
「日本語も英語も通じないようで、対応できる者がおらず……」
「やましい事をしてるのは間違いねぇが、事件に関係ない可能性も否定できないと」
「はい……」
話す2人の間を通り、早夢は男の前で膝をついた。男が顔を上げる。
「こんにちは」
「……
男は困惑した様子で早夢を見ながら言葉を発した。
ボンジュール。フランス語だ。それなら――早夢は立ち上がり、辺りを見回す。すると、絶えずカメラのフラッシュが焚かれている規制線から見慣れた顔が姿を現した。
「あら、早夢じゃないの!」
「!」
綺麗なソプラノの声を響かせて駆け寄ってきた彼女。
「あなたもこの現場だったのね?」
白衣に身を包んだ川崎美晴は早夢の同期で、フランス出身の監察医だ。風を切りながら颯爽と歩く姿に振り返る男達も多い。早夢の良き理解者でもある。
「ああ。美晴、来て早々で悪いが彼と話をしてほしい。フランス語を話すみたいなんだ」
「まあ……!」
美晴は驚きと嬉しさが混ざったような顔で男と目線を合わせる。
「Bonjour!」
「……Bonjour」
男は変わらず困惑しているが、言葉が通じるとわかったのか先程よりも肩の力が抜けている気がする。
「それで。何を聞けばいいのかしら? ここにいるということは関係者なんでしょう?」
「解決のためにはそうであってほしいが……まずはそこからだ。警官を見て逃げた理由を聞いてくれ」
「わかったわ」
テキパキと聞き出す美晴とその指示を出す早夢。後ろで見ていた望は、いいコンビだと口の端を上げた。
「あの男は早夢達に任せる」
「え、いいんですか!?」
「構わねぇよ。早夢は俺の部下だ。俺が面倒見てりゃ、も文句言えねぇだろうさ」
早夢は警視総監の父を持つ。まだ18という若さにどれ程の不安とプレッシャーを抱えているのか。
「お前も持ち場に戻れ。ありがとうな」
「はい!」警官は敬礼し去っていく。
望は早夢の父と同期で、数々の事件を解決してきたベテラン巡査部長だ。早夢の事は幼い頃から何かと面倒を見てきた第2の父親と言える。
聞き取りを続ける早夢に歩みを進めた望は、いつの間にか逞しくなった後ろ姿に笑みが零れる。
「――そうか。わかった、ありがとう美晴!」
「お安い御用よ。彼のことは私が手配しておくわ」
「ああ、頼んだよ」
振り向いた早夢が望の元へ駆けてくる。
「飯倉さん! 彼についての聞き取りが完了しました」
そう言って差し出されたメモには名前や生年月日、出身などの個人情報から、この事件への関わり、今日に至るまでの行動など詳細が記されていた。
「…………」
「……飯倉さん?」
「ああ、聞き取りもできるようになったのか」
「いつも飯倉さんの見てますから」
「調子のいいやつだ」
改めて手渡されたメモを読んでいく。
「“ビザなしで働ける求人”?」
「はい。恐らくSNSを勧誘媒体としている闇バイトに応募したものかと」
「ちっ。ああいうのは匿名性が高くて嫌になっちまうなぁ……。まあいい、とにかくこの情報を元にもう一度洗うぞ。俺は先に本部に戻るが、お前はもう少し現場の空気吸っておけ」
「はい! 絶対に捕まえてやりましょう!」
軽く手を上げて立ち去る望に敬礼する早夢。
「頼もしいわねぇ」感心したように頬に手を添える彼女のオレンジ色の髪が揺れた。
「この難事件をどう解決していくのか見物ね」
「……その言い方、お前が犯人みたいじゃないか?」
「やめてちょうだいよ」頬に添えていた手を払う。それが髪に当たってシャンプーの香りが早夢の鼻腔を擽った。
本気で嫌そうにしている美晴に「冗談だ」と笑い返した後「俺たちは完全に踊らされてるな」と声に真剣さを混ぜる。
「ええ。わかっているのは、全員頭が破裂したように亡くなってるってことだけね……」
「アニメや漫画にあるような、大きいトンカチを振り下ろすイメージ、だったか?」
彼の言葉に頷いた美晴は「でもそんなの現実的に考えて不可能よ」と顔を顰めた。
「敢えて人が多い場所や時間を選んで犯行に及んでることを考えると、見られても違和感がない手法をとってるんだろうけどな……」
そこまではわかっていても、痕跡を残さないのは、捕まりそうで捕まらないという犯人のスリル好きが見て取れる。
「見られても違和感がないって、例えばどんなの?」
「んー、目を合わせるとかか?」
早夢はそう言って美晴と視線を合わせる。暫し見つめ合ったエメラルドの瞳は、恥ずかしげに逸らされてしまった。
「た、確かに、目で殺すっていう言葉はあるけど、ずっと合わせてるのはちょっと……」
ふぅと息を吐いて、少し染まった頬を落ち着かせる美晴に対し、彼は「そうだよなぁ」と呑気に天を仰いだ。
「恋人ならまだしも、なあ?」口の端を悪戯に上げた早夢は、堪えきれなくなったのかケタケタと笑った。
「もうっ、早夢ったら! こんな場所で不謹慎よ!」
「あははは! ごめんなー!」
「――お、押さないでください!!」苦しそうな声を聞いて、2人は振り向いた。こちらを覗くギャラリーに押し潰されながら、先程の若い警官が必死に叫んでいる。マスコミも張り付いており、1人で場を収めるのは難しそうだ。
「……俺、ちょっと行ってくるよ」
「ええ。後で連絡するわね」
美晴の返答に軽く手を振り、押し寄せるギャラリーに「下がってください!」と近寄った。
「例の連続殺人事件の被害者が出たということで間違いないですか?」
「警察はもう犯人の目星はついてるんですか?」
飛び交う質問を避けながら、若い警官を逃がす。早夢はもう一度声を上げた。
「犯人は必ず捕まえますから! とりあえず下がって!!」
その瞬間、現場に向いていた数台のカメラが早夢に見返った。サッと血の気が引く。
「それは、犯人逮捕に繋がる証拠が出たということですね!?」
「あ、いえ。そういう訳では──」
「警察官として、これまで被害に遭われた方や遺族に申し訳ないという気持ちはありますか?」
「それはもちろん……」
「この事件をきっかけに人混みを恐れる人達が増えています。警察から犯人に狙われない為の対策や予防方法はありますか?」
答えては遮られ、束になったマイクが迫る。もはや袋の鼠だ。
似たような質問の繰り返しに、流石の早夢も眉間に皺が寄る。
「あの、すみません──まだ捜査中で詳しいことは話せません。戻らないといけないので失礼します!」
「あ、ちょっと! まだインタビュー終わってないんですけど!」
規制テープを押し退けて入って来ようとしたカメラを睨む。
「インタビューを受けるためにこちらに来たわけではないので! あなた方がマナーを守って報道するなら構いませんが、ここは! 関係者以外立ち入り禁止! です!」
黄色いそれを指で弾くとパチンと音を立てて波打った。早夢は鼻息荒く現場へと足を向けた。
× × ×
東京都 某所
カフェ『Re:set』
クラシック音楽の流れる店内は、いつものようにゆったりとした時が流れていた。
『犯人は俺が必ず捕まえますから!』
先程から繰り返し同じニュースが報道され、警官が顰めっ面で吠えている。
フードの奥からその人物を見据えて、紅茶を一口飲み込んだ。
「…………」
通称『花殺し』の異名を持つ彼女は殺し屋だ。深く被るフードに隠された素顔を知る者は少ない。
『ここは! 関係者以外立ち入り禁止! です!』
「高本早夢ってのは、彼かい?」
声を掛けてきた青年は野菜ジュースを注いだコップを持っている。店内に残っていた2人客を見送った後、こちらに来たらしい。
「新弥」
そう呼ばれた彼は「やあ、夜久」と殺し屋の名を口にして微笑む。野菜ジュースをコクリと飲んでから彼女の前に座った。
新弥は花殺しの仲間で、人質や無関係者の安全を守るい屋だ。
「彼から芸術家に繋がる情報は何もなかったんだって?」
彼が身につけたピンクのスカーフの下から傷跡が覗く。紛うことなき“あの日”の傷跡だ。
夜久は頷いてもう一口紅茶を飲んだ。
「でも、ヤツの手掛かりになる高本早夢ってのは、彼しかいないんでしょ?」
その言葉に再び頷いた彼女を見て、新弥は続ける。
「なら、さっさと吐かせて、彼も殺しちゃいなよ」
薄ら笑みを浮かべて見つめてくる彼の視線には気付かないふりをして、流れたままのテレビに目を向けた。
「……なぜ、高本早夢を殺さなければならないんだ?」
彼女の問いに、新弥はガタンと席を立って腕を伸ばす。そのまま夜久のフードに触れた。
「君にこんな深い傷を残したヤツの知り合いだよ? 俺は憎くて仕方ないね!」
夜久は何をしたって綺麗だけどさ! と続けながら、フードを脱がせた素顔を見る。彼女の右目には真っ赤な椿が咲いていた。
「私は、芸術家だけを殺せればいい」
「俺が許せないんだよ」
それを被り直した夜久は、目を細めて彼を見る。
「なら、あんたが殺ればいい」
「殺し屋は君だろう?」
今度は新弥が彼女の視線に気付かないふりをして、野菜ジュースを飲む。
『下がってください!』
テレビに流れる彼の奥に、世話好きな顔が映っている。揺れる白衣とオレンジ色の髪がよく映える。
「夜久。君はこの事件をどう思う?」
「素人じゃないことは確かだ」
「殺しのプロ――、まるで君みたいだね」
新弥は褒め称えるように笑いかけた。
「何が言いたい?」
貼り付けたような笑みを浮かべる彼に夜久は眉をひそめる。
「別にー?」
一頻りコップの底を見つめた彼は、楽しそうに笑顔のままおかわりを注ぎに席を立つ。氷がカランと音を立てた。
「……飲み過ぎは体に毒だ」
「わかってるよー」
新弥は静止の言葉を受け流して、野菜ジュースを注いだ。
* * *
東京都 百代田区
警視庁本部
なるべく音を立てないよう、ゆっくりと扉を閉めた。
「はぁ……」安堵のような、疲労のようなため息を吐いて、早夢は振り返る。杉盛区の現場から戻ってきた矢先に呼び出され、マスコミに対する態度について絞られていたのだ。
「もう2時間も経ったのか」
腕時計で時刻を確認し、歩き出した。『警視総監室』と書かれた金色の立て札は錆びつき始めている。
早夢の部屋と化した倉庫は10畳ほどのワンルームだ。テレビを見つつ、コンビニで買ってきた弁当と珈琲を飲んで寝るだけなら快適な場所なのだが、先客がいるとなると話は別だ。
『連日、世間を騒がせている連続殺人事件で、新たな被害者と思われる遺体が、今日、杉盛区にあるスーパーの駐車場で発見されました』
流れ始めたニュースを横目に、2人掛けソファに寝転がる人物に声をかけた。
「飯倉さん」
『今回の被害者を加え、既に2人の死亡が確認されており、警察は犯人の特定を急いでいます』
聞こえているのに反応しない相手に苛立ちを覚え、近くにあったリモコンを引っ掴んで、ブチッと消す。手に余ったそれはごみ箱に放り込んだ。
「おいおい、荒れてんなぁ」
これからがいい所なのによ、と望は投げ捨てられたリモコンを拾い上げて、テーブルの上へ戻す。
「テレビを見たって、今はそのニュースしかやってませんよ」
「ああ、そうだな。でも、俺の知り合いがデカデカと映し出されるんだ。見ててもいいだろ?」
ニヤリと笑った彼に、早夢はテレビで流れるそれと同じく睨んだ。
「なんて言わなきゃ、こんなに使われることもなかったろうに」
「……これでも反省してるんですから、抉らないでください」
「あははは! まあまあ、座れよ。珈琲淹れてやっから!」
「いや、ここ俺の部屋なんですけど……」彼の呟きは届かず、巡査部長は立ち上がって珈琲メーカーに向かった。早夢は空けられたソファに腰掛け、残る生温さに一瞬身体を震わせた。
「ブラックでよかったな?」
差し出された珈琲を素直に受け取って、礼を言う。しばらくしてソファと珈琲が揺れ、隣に望が腰掛けた。
「飯倉さん、何でここにいるんですか?」
「あ? 別にいいだろ。避難だ、避難」
「避難?」
彼の手に収まったマグカップにも湯気が立っている。
「たまの休憩は必要ってことだ」
望は「あちっ」と小さく唸りながら珈琲を啜った。
「なるほど、心配してくれたんですね」
彼に倣って啜った珈琲は、クーラーで冷えきった身体を温めていく。
「…………」
しばし黙り込んだ望は「まあ、そういうことにしておくか」とカップをテーブルに置いた。
「それで、あの男……あーなんつったか? えーっと……」
「ソアン・オルウィン。38歳。奥さんと娘息子の4人で移住のためにフランスから来日したが、就労ビザの取得はしていなかった」
ポケットから先程のメモを取り出すよりも早く早夢は言い切った。
「……相変わらずすげーなその能力」
「へへ、暗記は得意なので」
人差し指で鼻下を撫でて笑う早夢に、望は手帳を広げて言った。
「そいつな、供述変えたぞ。移住するために来たんじゃなくて、出張で来たんだそうだ。就労ビザは持っているし、会社に問い合せたところ勤務態度や業績に著しい変化はない」
「……そうですか。じゃあ、この事件とは何の関わりも――」
「いや、それがな、妙なことを言ってる」
望はカップのコーヒーを一口飲んで続ける。
「“ある男に力を授けてもらった”と」
その言葉に早夢の視線は鋭くなる。
「ある男……」
「ああ。ソアンはその男からカプセル型の錠剤を一粒貰ったと供述している」
「薬物案件ですか」
「だといいが、それにしては代償がデカい」
顎に手を添えて考え込む新米巡査。
「今、ソアンさんは?」
「歯の痛みを訴えて病院で手当てを受けているはずだ」
「歯の痛み……そうですか」
「んで? あいつはなんて?」
「え?」
「玄月の所行ってきたんだろ? 何て言ってた? 息子が立派にテレビ出演なんか果たしちまって」
未だに面白いのか、顔を隠してクツクツと笑う。そんな第2の父を半ば呆れて見ながら、早夢は言った。
「捜査班から外れろ、と」
「……は?」
顔を新米に向ければ、既に彼の視線はこちらになく、揺れる珈琲に注がれている。
「お前には警察官としての修行が足りない。一度、この事件の捜査から離れ、新設された警察署への異動を命じる」
父の口調を真似た後、彼は再度珈琲を啜った。
「おい、それって……」
「左遷ですね」
きっぱりと言い切った早夢にちらりと視線をやり、片方の眉を上げた。
「なんだ、嬉しそうじゃねぇか」
心做しか口角が上がっている警官は、まだ湯気の立つそれを飲み干して、ソファの背もたれに身体を預けた。
「これで余計なことを考えずに捜査に集中できますから」
「……諦めの悪い奴だな。1人で調べるつもりかよ?」
「もちろん。あそこまで大口叩いちゃいましたし」今度は困ったように笑った。
外では忙しない足音が行き来する。望の角刈り頭が視界に写った。
「それにしたって、どうするつもりだ? 捜査班を外れちゃ、現場にも入れねぇぞ」
「そこは問題ありません」
期待の眼差しを受けた望は「お前、まさか……」と顔を引き攣らせた。
「え、違うんですか? てっきり飯倉さんが俺に情報をくれるのかと」
「やめろ、俺の首が飛ぶ」
「そこは父さんの同期である好ってことで」
「無理だ」
「それは残念です」わざとらしく肩を落とした早夢はまるで犬のようだ。
何処となくしんみりとした空気が部屋を包んだ。望はまたカップを口に運んで話を切り替える。
「なぁ、俺の耳にも警察署が新設されたなんて話は届いちゃいねェ。どの辺りまで飛ばされるんだ?」
「えーっと、悲哀村って所なんですけど……」
知ってます? 早夢は自身の胸ポケットから手帳を取り出して、確認しながら言った。
「悲哀村ぁ? 聞いたこともねぇな」
「一応、東京らしいですね。神奈川との県境だそうで」
「そうかよ。異動ってことは他の奴も居るんだろうな?」
その言葉にハッとしたような顔を見せた早夢に、彼は大きく息を落とした。
「おいおい、誰と一緒かも知らねぇのかよ」
「自分1人だと思ってました……」
「馬鹿か!」
新設されたって言ってんだから1人なわけねぇだろ! 眉間に皺を寄せた望は、呆れたようにもう一度ため息を吐いた。
「そう、ですよね」
少しだけ寂しさを残した彼を見て、望は席を立った。いつの間にかマグカップは空だ。
「……まあ、お前ならすぐ戻ってこれるだろうし。戻ってこれなくても、遊びに来りゃいいさ」
ドアノブに手を掛けた望は「厄介な持って来んじゃねぇぞ」とひらひらと手を振って部屋を出て行った。扉が開いた一瞬だけ大きく聞こえる足音はまだ落ち着きそうにない。
テーブルの上に置かれたままのカップを見つめる早夢は、脱力して目を閉じた。
─―さて、どうしたものか……。
父である警視総監に警察として認めてもらうには、この事件の解決が何よりも効果的で、このままでは早夢もマスコミに顔を向けられない。今までより入ってくる情報は限られるし、早夢自身に探偵のような推理力がある訳ではないが、動きやすいのは確かだった。
「……まずは荷造りから始めるとするかな」
そう思い立って腰を上げた刹那、部屋の扉が鳴る。
「失礼ー?」
また忙しない足音と共にガチャリと扉が開く。振り返れば、同期が先程と変わらぬ白衣姿で立っていた。
「おう、美晴か! どうしたんだ?」
「どうしたんだって……聞いてないの?」
首を傾げた美晴を見て、思い当たることがない彼もそれを真似した。
「私もあなたと同じで異動するのよ。これからは同期であり、同僚になるわね」
「え!? そうだったのか!」
ウインクをして、美晴は微笑んだ。心置きなく話せる人物が一緒という事実に安堵し、ほっと息を吐く。
「それで、荷造りは終わってるのかしら?」
「あ、いや……これからだけど」
「そう? なら、あと30分で準備してちょうだい。迎えを待たせてるの」
「迎え……?」
「そうよ。ここから悲哀村までは遠いし、あなたの荷物が多いかと思って。同居人にお願いして来てもらったの」
「同居人!?」
早夢は彼女の言葉に急かされながら持ち上げかけたダンボールを落とす。がしゃんと音がして、慌ててそれを開いた。
「お前……、一緒に暮らす仲の奴がいるのか……?」
中身の無事を確認しつつ、おずおずと尋ねる早夢に、その真意に気付きながら彼女は言った。「ええ、5人ね」
「5人も!?」
告白されるのが日課である美晴に、そのような存在の人物が1人や2人居てもおかしくないのは前提として、何かを勘違いしたらしい彼に拍車をかけた。
「そうよ? 毎日、色んなお世話が大変でね……」
「い、色んなお世話!? おまっ……、そんな奴だったのか!? もう日が落ちてるからってな!? そういうのは……ちょっと、その、考えてから発言しろよ!」
顔から火が出る勢いで早口に言う早夢は、咳払いをして目を泳がせた。
「……色んなお世話って、何を想像したの? 私は料理とか洗濯とか、家事の話をしてるのよ?」
してやったりと口角を上げれば、彼は「え」と小さく声を漏らす。そして、もうそれは茹でダコの如く顔を赤らめた。
「確かに、同居人に男はいるけど、家族みたいなものよ」ふふふ、と笑って彼女は腰を上げた。
「あなた、本当にからかい甲斐があるわね。さあ、急いで? 私も手伝うわ」
鼻歌交じりに片付け始めた彼女を睨んで、早夢も手を動かした。
「覚えてろよ、美晴……」
そんな言葉を呟きながら。
荷物をまとめ終え警視庁の外に出ると、黒光りする車の前で煙草を吹かしていた着物の男が小さく手を挙げる。凛々しくも厳つい和の雰囲気が漂うが、身に付けたヘッドホンがそれを壊している。大塚源次と名乗ったその男は美晴の同居人の1人で、仄かな煙草の匂いと人懐っこい笑みが似合う。
車を走らせること1時間半。他愛もない会話から、美晴たちの家が悲哀村にあることがわかり仰天した。
「それならそうと言ってくれればいいのに……」と零せば「だってあなたの驚く顔、ミーアキャットみたいで可愛いんだもの!」なんて悪戯に笑って返される。
――ミーアキャット……?
褒められたのか貶されたのかわからないそれに、早夢は苦笑した。左側に座る源次もまた似たような顔でハンドルを握っている。着物のままでは運転しにくいだろうに、優雅に見えるのは不思議だ。
「そういやお前、美晴の手料理食ったことあるのか?」源次は思い出したように、ちらりと隣を見て問う。
「美味いんだぞぉ。良かったらで食べていったらどうだ? そろそろ腹が空く頃合いだろう?」
なあ、美晴? そう言って彼はルームミラーを覗いた。
「そうね、名案だわ!」後部座席を陣取った彼女は前のめりに答える。
「え、いいのか? 送ってもらう上にご馳走になるなんて」
「もちろんよ! 食事は大勢の方が楽しめるし、あなたに同居人の紹介もしておきたいわ」
美晴は片手を頬に添えて微笑んだ。
「そろそろ着くぞ」源次の声に警官は背筋を伸ばす。
東京の街並みも背の高いビルが覆い尽くすようになってきたが、街灯に照らされた悲哀村にはまだ緑が残っているようだ。
「あ、これが悲哀村警察署か?」
村の入口に小綺麗な平屋が建っている。通り過ぎる一瞬だけ捉えたポリスマークに見覚えがあった。
「そうみたいね! 新しいものってワクワクするし、気持ちも引き締まるわぁ」
楽しげに笑う彼女を見て、早夢の口角も自然と上がる。
入口から続く並木道を進んでしばらくすると、道脇に浅瀬ほどの川が流れ始め、木の下にはベンチが備え付けられている開けた場所に出た。昼には雀が地面を啄いていそうな、これも雰囲気良い場所だ。
「さあ、着いた」
そこに建つのは1軒の民家。3階建てのスタイリッシュなデザインに程よく和が混ざった、まるでパンフレットから飛び出したような家だった。
「ここがお前たちの? お洒落な所に住んでるんだなー!」
「うふふ! ありがとう。私は副業でカフェを営んでいるの。1階がカフェスペースで2階と3階が居住スペースになってるのよ」
「へぇ! すごいなぁ」
――あれ、警察官の副業は認められてないんじゃなかったか……?
感嘆の声をあげた後、ふと頭を過ぎった疑問に思考を引っ張られていると、美晴は食事の支度をすると言って早々に車を降りた。源次はいつの間にか自宅横のガレージの扉を開けて駐車を始めていた。
カランコロンとドアベルを鳴らして店内へ。扉を開けてすぐに大広間ほどの広々とした空間が迎えた。高い天井にいくつかのシーリングファンが回転している。そのスペースを存分に使った2人用のテーブル席が2つと4人用のテーブル席が1つ置かれていて、流れてくるクラシック音楽が心地良い。
その内、2人用のテーブル席には黄緑色の繋を着た青年と中年の男が座っている。美晴の同居人だろうか、早夢は軽く頭を下げた。
「やあ、早かったね」
繋を着た青年がそう言って微笑むと、帰り支度をしていた手を止めて中年の男が振り返った。寝癖のようなボサボサ頭が清潔感に欠ける。
「お、接客中か?」
靴を脱いだ源次に倣って警官も「お邪魔します」とスリッパに足を入れた。
「いや、ちょうど終わったよ。悲哀村の取材だってさ、珍しいよね」
「ほぉ、こりゃご苦労なこった」
男の名刺と思われるカードをひらひらと弄んで、青年は頬杖をついた。源次は一言返した後で、どこから取り出したのか、を巻いて階段を登っていく。
「早夢、適当に座ってちょうだい! すぐにご飯作るわ!」
部屋の奥では美晴が麦茶を注いでいた。
「ああ、ありがとう!」
早夢はキッチンから一番近い4人用のテーブル席へと腰を下ろした。途中、中年の男と視線が合う。オーバーサイズの半袖、ジャージのズボンにサンダルというとてもラフな格好だった。
「あ、あの」近寄ってきたその男は何日も寝ていないような隈の目が印象に残る。
「高本早夢さん、ですよね?」
「え。そうですけど……」
「俺、野々村導彦と申します。オカルト雑誌の記者をしておりまして、この度、悲哀村の特集を組もうかと取材に参りました」
夕方のニュース見てましたよ。と余計な一言を加えられ、警官の口端がヒクリと動く。
「……どうも」
渡された名刺を受け取ると、流れるように握手を求められ、条件反射で握ってしまった。手汗が気持ち悪い。ようやく着慣れた制服で手を拭いた後、警察手帳を取り出して名刺の代わりに見せた。
「まさかこんな所でお会いできるとは! ぜひ事件について聞かせていただけませんか!?」
「あ、いや……その、テレビでも言いましたけど俺から話せるようなことは何もないので……」
愛想笑いを浮かべながら、豪語した事を再度反省する。
「ネット界隈では花殺しの仕業ではないかとの声もあがってますけど、どうです?」
「……花殺し?」
記者が発した聞き慣れない単語に首を捻った。
「ご存知ありませんか」
彼は早夢の前の席へ座り身を乗り出す。
「正式名称は花の殺し屋。年齢、性別、その他諸々の情報は一切不明。最近、若者の間で流行っている都市伝説のようなものなんですがね」
「都市伝説……」
美晴からタイミング良く出された麦茶で喉を潤し、話を聞く。繋の青年は面白そうにこちらの様子を伺っていた。
手帳の一ページを引きちぎった導彦は続ける。
「被害者は、現時点で3人。順に、八重島富栄、七護勇真、五井野麻結で間違いないですか?」
乱雑な文字で記者は紙に被害者の名を連ねていく。「そうです」早夢は頷いた。
「見てください、被害者の苗字を。全て数字から始まるんです」
彼は紙を早夢に向け、赤いペンで漢数字に印をつけた。
「確かにそうですけど、それと花殺しがどう関係してくるんです?」
腕を組んで考えるように眉を寄せた早夢は、導彦に先を促した。
「花殺しは数字に語呂合わせができます。8、7、5、6、4……」
そこで早夢は顔を上げた。
「恐らく、次に殺されるのは数字の6から始まる苗字の人。そして、犯人は……」
「「花殺し」」
2人の声が重なる。
「……なるほど。そう考えれば、花殺しという線もあるかもしれませんね」
「はい。一番怪しいのは彼女ではないかと」
視界の端に写った美晴は料理に悩んでいるのか、少し訝しげな顔をしている。
「どうしたら会えるのか、どうやって依頼をするのかまでは、俺も掴めていないんです」
――花殺し、か……。
早夢は渡された紙を持ち上げて考え込んだ。
「都市伝説とは言えど、追ってみる価値はありそうですね。情報提供のご協力感謝します」
「いえいえ。頼りにしてますよ、日本の警察を」
記者の目の色が変わる。同時に部屋の空気が凍った気がした。美晴が不安げに顔を上げる。
「事件の犯人に繋がる証拠が出たら教えてください。その暁には俺の書いた記事の売上も伸びますからね!」
口の端を持ち上げて得意げに笑う導彦は、そう言った後、警官の肩をポンッと叩いて出て行く。カランコロンとドアベルが鳴った。
「大変だねぇ、早夢くん」黄緑色の繋を着た青年が歩み寄る。
息を吐く為に吸い込んだ空気はしばし肺に留まって鼻から抜けた。
「自己紹介が遅れてごめんね。俺、染背新弥。君と同じ18歳。美晴から話は聞いてるよ」
先程まで記者がいた場所に座り、持って来たグラスを煽る。微笑む彼の瞳は、心の奥底まで見ているような水色で反射的に逸らしてしまう。
「よ、よろしくお願いします」先程と同様に警察手帳を取り出して見せた。
「本当に警官なんだね! すごいよ!」
俺には無理さ。目を輝かせる彼は胸元で小さく拍手をする。
「ありがとうございます……」
大袈裟なくらいに褒められて小恥ずかしくなって頭を搔いた時、トントンと刻み良い音が届く。キッチンではピンク色のエプロンを身に付けた美晴がまな板に向き合っていた。
「君は、この事件が花殺しの仕業だと思うかい?」
真剣さを帯びた彼の目に、早夢は言葉を詰まらせた。
「……なんて、本人に聞けたら苦労しないよね」
新弥は意味ありげに微笑んで、警官から奥の階段へと視線を滑らせた。
早夢は困惑した。新弥と名乗った彼の視線を追って奥の階段を見れば、女が1人。彼女は赤いVネックのタンクトップの上から黒色のロングベストを羽織っていた。漂うミステリアスな雰囲気に、早夢は「え……?」と小さく声を出すのが精一杯だった。
「早夢くん、紹介するね。夜久だよ。彼女が花殺しさ!」
「なっ……!?」
思わぬ人物の登場に椅子から立ち上がったものの、彼女は何食わぬ顔で新弥の隣へと腰を下ろした。
「よろしく」と言った花殺しは同い年の少女だった。
「美味しくなかった?」
それからしばらく、2口目を掬ったオムライスを見つめながら動かない彼を気にして、美晴は声をかけた。
「……いや、そういうわけじゃないんだ」
手元のオムライスを頬張って、斜め向かいを盗み見る。
――なぜ俺は、連続殺人事件の犯人かもしれない奴と同じ食卓を囲んでいるんだ……?
「私は関係ない」
穴が飽きそうなほど突き刺さる疑念の目に、彼女は食事の手を止めて告げた。
「……そう言いきれる証拠は?」
「芸術家を殺せればそれでいい」
深く被ったフードの奥から視線を感じ、早夢は顔を背けた。手持ち無沙汰に冷め始めたオムライスを食べる。
「芸術家っていうのは、俺たちに傷を付けた奴のことだよ」
食事を再開した夜久に代わって、今度は新弥が口を開く。ピンクのスカーフを降ろして見せた首元に切りつけられたような古傷が目立つ。
「俺はこの程度で済んでるけど、夜久や他の皆は違うんだ」
お前も、なのか? そんな意図を込めて、早夢は隣を見る。
「……いいえ。私はみんなに助けられたの」
苦しそうに笑って答えた美晴に胸が締め付けられた。
「2階にいる、まだ紹介できてない2人と源次、それから、夜久の合わせて4人だよ」横目で確認した夜久は最後の一口を運んだ所だった。
新弥は続けて「奴を追って、もう12年になる」とオムライスを口に放り込んだ。
「12年……」
食べ終えた皿を片付ける殺し屋は、ガラスの透明なティーカップに紅茶を注ぐ。後から角砂糖を3つ、底に沈めた。
「“たかもとそうむ”……これが奴に近付く唯一のキーワードなのさ。だから、同じ名を持つ君に接触した」
今まで生きてきた大半の時間を、彼らはその『芸術家』の為に割いてきたというのか。
「……あんたを恨んでいるわけじゃない」
クルクルと液体をかき混ぜる夜久は、顔を落としたまま会話に参加する。新弥は彼女を見つめて黙った。キッチンでは美晴が皿洗いを始めたのか、水音が聞こえる。
「お前はどこに傷を付けられたんだ?」
人を殺してはならない。だが、罪を犯してしまった者も人間で、その背景を知れば納得できてしまうことだってあるだろう。
「……ここだ」
少し迷う素振りを見せた後、彼女はゆっくりとフードをとる。短い黒髪から覗く真っ赤な椿の花に、早夢は思わず息を飲んだ。
「は、花……?」
彼女本来の紫色の目が初めて警官のそれと合わさった。影を感じさせる夜久の雰囲気と椿は年齢の上をゆく妖艶さだ。
「源次は両耳に、残りの2人はそれぞれ口と両目に花を咲かせている」
コクリと紅茶を飲んだ彼女の言葉に、源次がヘッドホンをしていたことを思い出した。
そもそも法律では安全運転に必要な音が聞こえなくなる事を理由に運転中はヘッドホンやイヤホンをすることを禁止している。乗せてもらう身で恐縮はしたが、早夢も彼にヘッドホンを外すように促したのだ。しかし、美晴の許可があるとのことで、彼は外さなかった。実際は会話もできていたし、終始安全運転だった為、何も問題はなかったわけだが、早夢としてはどことなくしこりがあるように感じていた。
――なるほど。あれは花を隠していたのか……。
改めて夜久を見る。作り物とは思えないそれは存在を主張するように咲き誇っている。
「それは……見えてるのか?」早夢は彼女の花を指して言う。首を横に振って答えた夜久は「触っても皮一枚挟んで触れているような感じがする」と続けた。
「でも、痛みはあって花弁をちぎれば出血する。完全に神経が逝ったわけじゃないようだ」
持っていたカップをソーサーに置く。食器の音が小さく聞こえた。
「源次は両耳に花が咲いてるって言ったな? お前と同じ場合は失聴すると思うんだが、会話はできていたぞ」
「源次は傷が浅かった。ヘッドホンが補聴器の役割を担っている」
新弥は絶えず発言者を見て会話を見守っていた。洗い物を終えた美晴もそれと同じだ。
「そもそも、傷跡が花になるっておかしいだろう? 何がどうなってるんだ?」
「それも合わせて芸術家に問いたい」フードを被り直して新しく紅茶を注ぐ。
「よう、待たせた」
またも奥の階段から声が聞こえ振り返る。源次の他に両目と口それぞれに花を咲かせた男2人が降りてきていた。
「遅くなって悪ィな」
「構わない。ちょうど話し終えた所だ」
夜久はそう言って、湯気の立つカップに口をつけた。
『広田來』
口元に黄色のカーネーションを咲かせた男が早夢の元へ歩み寄り、文字の書かれたタブレットを見せてくる。黒縁の眼鏡を少し上げて、見定めるように彼を見ていた。
「あ、來さん……。どうも……」
近寄り難い雰囲気を感じて、笑顔が引きつった。そんな様子を汲み取ったのか、來はタブレットを操作してまた見せた。
『19歳の情報屋! 気軽によろしく♪』
「あ、ああ……よろしく?」
無愛想な顔に反して文字は優しく、恥ずかしいのか手元が震えている。
「ブフゥッ……!!」タブレットを覗き込んだ新弥が盛大に野菜ジュースを吹き出した。
「ちょっと!? 汚いわね!! ……あら、ふふふ!」
慌てて駆け寄った美晴もタブレットを見て笑っている。野菜ジュースまみれになった來を丁寧に拭きながら、もう一度「ふふふ」と笑った。
「あははは! 『気軽によろしく♪』だってさ!! あの來が!!」
新弥は堪えきれず、腹を抱えて大口を開けた。隣に座る夜久も心做しか口角が上がっているように見える。
「な、なんだ……? 変なのか?」
「ごめんなさいねぇ……うふふ! 普段の來は口が悪くて、こんなこと言わない子なのよ。ふふ」
必死に堪えつつ説明した美晴は目に涙を溜めている。余程可笑しいらしい。
來は顔を赤くしながら、タブレットで新弥を叩いていた。大して痛くないのか「ごめんごめん」と笑顔で謝罪している。
――なんかいいなぁ。
羨ましいと思う光景を目の前に、もう1人の男が源次の引率でやって来た。スイセンが両目に咲いている。
「やあ、高本早夢くんだね?」
金髪を揺らしながら小首を傾げた男は、気配を辿って警官と目を合わせた。
「はい。よろしくお願いします」
ただこちらを見つめる2輪の花に若干の恐怖が芽生え、目を逸らした。
「僕は篠宮春人。イタリア出身で弟を探して日本に来たんだ」
よろしくね。差し出された右手をとって軽く上下した。
「この見た目……いきなりは難しいと思うけど、少しずつ慣れていってね」そう言って彼は微笑んだ。
新弥と來のじゃれ合いを尻目に見ながら夜久は口を開いた。「証拠になったか?」
「……この事件の犯人は人通りの多い場所や時間帯で犯行を行なっている。そんな中でも足跡を残さない。プロの犯行と言えるだろう」
目前に置かれたままの野菜ジュースを見て、早夢も麦茶を煽った。
「とはいえ、俺はこの目でお前たちの犯行を見たわけじゃない。しかし、疑いが晴れたわけでもない。──忘れるなよ」
視線を鋭く彼女に投げかける。ピリッとした空気に、夜久は満足気に口端を上げた。
「大変!」
落ち着かない來に拭くことを諦めた美晴が突然に声を上げる。片手にはスマートフォンを握っていて、そのまま慌ただしくテレビの電源を入れた。
『速報です。連日、世間を騒がせている連続殺人事件の容疑者が逮捕されました』
タイミング良く付いたそれから思いもよらぬ言葉が聞こえ、全員が動きを止めて振り向いた。場面が切り替わり、現場から生放送をする形でキャスターが話し始める。
『こちら、警視庁前です。先程、容疑者と思われる男を乗せたパトカーが到着しました。逮捕されたのは伊堂千花容疑者、18歳。……あ! ただ今、容疑者が複数人の警官に囲まれながらこちらに歩いてきています!』
『おい! てめぇ、この野郎! 離せっ!!』
俺は何もやってねぇ!! 叫び暴れる青年は白銅色の短髪を揺らした。乱れた髪の隙間から覗く金色の目が周囲の人間を睨む。日が落ちて暗くなった外に際立っている。
「逮捕……!? 証拠が出たのか!?」源次を制するようにして、夜久が警官に向き直った。
「替え玉か?」
「……多分な」
眉間に皺を寄せた早夢は、一言だけ返してさらに皺を濃くする。
「って事は、彼は罪のない一般人!?」
「少なくとも、この事件には関係ない人物だろう。複数の報道陣と警官、そしてギャラリー……。人目に触れるいい場所だ」
これから何が起こるのか予測したのか、夜久はフードのつばを引っ張った。
「なら、今映ってるのは――」
「ああ。新たな現場だ」
暴れる彼を押さえつけながら歩みを進める団体が街灯の下に入った途端、何かが潰されるような気持ちの悪い音と人々の悲鳴が木霊する。テレビに映された映像が大きくブレた後で一瞬だけ見えた赤い物体は原型を留めていない。
「なんてこと……!!」美晴は口を覆って絶句した。
早夢の携帯が着信を告げる。相手は巡査部長の飯倉望だ。
『早夢! ニュース見てたか!?』
警官は問いかけに答えながら、耳を澄ます。電話口の喧騒が事の大きさを物語っている。つけていたテレビは中継が切れたのか既に別のニュースに切り替わっていた。
『大混乱だ! 人手が足りない! オレンジの姉ちゃん連れて現場に来い!』
「わかりました。すぐに向かいます!」通話を切って美晴に声をかける。
「車出すぞ。俺は運び屋だ」
源次が指で車の鍵を回したと思えば、夜久が席を立って「私も行く」と言い出した。噂になった当人もそれを気にかけているようだった。
「またおいで」
新弥の微笑みに応え、4人は現場へと急いだ。
× × ×
東京都 百代田区
警視庁前
到着すると、既にブルーシートに覆われ、規制線が張られていた。すぐ横の大通りは急遽通行止めとなり、数人の警官がスピーカーを片手に事件発生を説明している。他にもニュースを見ていた人々が一目見ようと押し寄せ大混乱を招いていた。
警察手帳を見せて足を踏み入れると、数時間前まで行動を共にしていたチームのメンバーが揃っている。一緒に来た美晴は鑑識の元で経過を聞いているようだった。
「高本さん!!」メンバーの1人が早夢に気付いて手を挙げる。
「お待たせしてすみません。状況はどうですか?」
「はい。被害者は六藤宏、46歳。警備警察官です。報道でご覧になったかと思いますが、例の事件と同様に頭部に損傷があり、即死です」
彼の案内で被害者と対面する。自然と眉が寄った。
「それと、不審者を見たという方がいらっしゃって、あちらで飯倉さんが対応しています」
ブルーシートの奥、警視庁の入口を指してメンバーは言う。自動ドアの先で望が長椅子に座っているのが見えた。
「わかりました。話を聞いてきます」
頷いた彼は小走りで元いた場所へと戻り、捜査を再開した。
「飯倉さん」
自動ドアを抜け、角刈り頭に声をかける。
「早夢、悪いな。急に呼び出して」
「いえ。それより、目撃者が出たと聞きましたが、聴取は終わりましたか?」
「一通りな……。あ、戻って来たぞ、彼が目撃者の野々村導彦さんだ」
げっそりした様子で男が手洗い場から出てきた。寝癖のような髪と不健康な隈は、間違いなく美晴のカフェで会った記者だ。
「あなたは――!」早夢に気付いた彼は目を丸くして立ち止まる。
「知り合いか?」
「ええ、まあ……」
「なら話は早い。早夢、ここは頼んでもいいか? 俺は他の奴らにも話を聞いてくる」
そう言うや否や、巡査部長は足早に自動ドアをくぐり抜けた。
「野々村さん。既に聴取は終えたと伺っていますが、もう一度お聞かせ願えませんか?」
早夢は長椅子の隣に設置された自動販売機でココアとお茶を購入した。腰掛けた導彦にお茶を差し出して、自身も腰を下ろす。
「……やっぱり、花殺しの仕業なんじゃないですか?」
両手で握った缶を見つめながら、記者は口を開いた。
「今回の被害者の苗字も数字から始まります! もう確定じゃないですか!」
「いえ、まだそうと決まったわけでは──」
「じゃあ、誰だって言うんです!? 何の根拠があってそんな戯言を!!」
落ち着きを取り戻すように「すみません」と一言、缶を開けた。
「……花殺しの犯行に見せかけている可能性があります」早夢は前屈みに体制を直す。
「こうなるのも計画のうちだと……?」
グッと喉を鳴らしてココアを飲む。クーラーの効いた庁内の空気と一緒に舌に残る甘さと香りが早夢は好きだった。
「俺はその可能性が捨て切れません。だから、もう一度お聞かせください」
警視庁内 地下牢獄
運び屋の車を降り、警視庁内部に潜入する。本来であれば、こんなことをせずとも高本早夢の関係者として入庁できれば楽だが、そこまでの信用はまだ獲得できていない。
『このままだと替え玉のあいつが犯人にされる。真犯人を野放しにしておけば、いずれまた同じ過ちを繰り返すだけだ! お前だって、濡れ衣を着せられるのは嫌だろ?』
『お前が本当に犯人じゃないって言うなら――手を組まないか?』
車中で掛けられた彼の言葉が、夜久の眉間に皺を作った。
――芸術家を探してるだけなのに……。
手を組まなければ、ここでお前を逮捕する。そうして彼女の細い手首に手錠がかけられたのは、つい先刻の出来事だ。ミラー越しに反射した源次と美晴の視線が痛いほどに刺さった。
警官と殺し屋という異色のコンビなど誰が期待するものか。第1に彼女には早夢と手を組むメリットがない。冷静に返答したところで、彼は簡単に引く男ではなかった。
『芸術家探し、俺も手伝う』
確かにそう言ったのだ。魅力的な提案ではあったが、そもそも“芸術家”を知らない時点で夜久たちの求める“たかもとそうむ”ではないことは明白だった。しかし、早夢が認知していないだけだとしたら? 彼の行動を監視すれば、標的に繋がる鍵が見つかるかもしれない。そうして警官の提案に頷いた。
被疑者・伊党千花の身の安全を確保する。これが早夢から頼まれた案件だ。彼は警視庁地下に特設された牢獄に収容されているという。そのまま自身を逮捕するつもりなのではないかとも考えたが、早夢がそれほど賢いとも思えず素直に従うことにした。
地下牢へ続く道はセキュリティが厳重となり、指紋や網膜認証が殆どだ。
『やあ、夜久。びっくりしたかい?』
情報屋に連絡を取ろうとスマートフォンに手を伸ばした先で、無線機が鼓膜を揺らした。
「……新弥」
『源次から連絡をもらってね。來が操作してくれてるから、心配しなくても大丈夫だよ。そのまま進んで』
そういう事は早めに教えてくれないか? 口から出そうになった言葉を飲み込んで、地下へ降りる。ここまで監視カメラに映らないよう移動したのは意味を成さなかったようだ。
『あ、地下牢の鍵は南京錠だってさ』
「この時代に? 古風だな」
『今は何でもデジタルだからねぇ、だからこそのアナログかもしれないよ。それに、鍵を開けるのは君の得意技じゃないか』
コンクリートが打ちっぱなしにされた廊下の突き当たりに扉が見えた。人の気配はなく、地上より何度か温度も低いように感じる。
『俺の心の鍵も開けてほし……痛っ! ちょっと來! やめてよ!』
ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた無線機に「着いたから切る」と告げ、夜久は扉を開く。
『え、ちょ、待っ――』新弥の制止が聞こえたが、掛け直して来ないあたり、重要な話ではないだろう。
地下牢は息が白くなる程に冷え、辺りは消えかけた電灯があるくらいで暗い。
「……誰だ、てめぇ」
バリトンが響く。荒くなった息と鎖の音が、どれだけ藻掻いたかを示している。
夜久は彼の質問には答えず、コツコツと足音を鳴らして鉄格子の前へ歩んだ。
「『芸術家』を知っているか?」
「ああ!?」
格子が揺れる。闇に慣れ始めた目が金色のそれと結びついた。
繋がれた鎖は外れかけ、巷を騒がせた極悪犯を収容するには少々物足りない。そうなれば、彼が自力でこの状態まで持っていったのだろう。
――単なる馬鹿ではなさそうだ。
「てめぇ、サツじゃねぇな……?」
先程からビリビリと感じていた殺気は薄れたものの、警戒は解かれない。「極悪非道の犯罪者を拝もうとやって来たお尋ね者だ」と笑うと再度格子が揺れた。一定の距離から近付かない事から、鎖に繋がれていない足で蹴っているようだ。尤も、この勢いではいつ枷が外れて襲いかかってくるかわからないのだが。
「っざけんな!! 俺は関係ねぇ!!」
「だとしても、世間はそう認知している」
目の前で事件が起きれば尚更だろう? そう続ければ、舌打ちをして床に寝転んだ。
夜久は内ポケットからキーピックを取り出して、鉄格子の解錠を始める。
「……お尋ね者がどういう風の吹き回しだ?」頭だけ起き上がらせた彼は怪訝な面持ちで問う。
「私の任務は、あんたの無実を晴らす事らしいから」
南京錠を外して微笑んだ。
警視庁内 ロビー
記者から話を聞いた早夢は絶句した。
「近くに居た細身の警官が被害者の影を踏んだ……?」
「そうです。影を踏んだ瞬間に彼の頭が破裂したんです」
なんという事だ。犯人が連行されようという時にマスコミや警官、ギャラリーが押しかけた中で誰が他人の影を踏まないように歩けるというのだ。これでは証言にならない。
「影を踏んでしまうのは仕方のない事なのでは……?」自分でも情けない声が出たと思う程に弱々しく尋ねる。
「本当なんです!」
「いや、本当なんでしょうけど――」早夢はため息を吐いた。
「とりあえず、野々村さんの発言を踏まえて捜査して参ります。ご協力ありがとうございました。また何か思い出したことなどあればご連絡ください」
早口に言って彼を近くにいた他の警官に押し出す。促されて渋々歩き出した背中を眺めて「今回も手がかりなしか……」と呟く。飲み終えた缶をゴミ箱へ放った後、早夢のスマートフォンが揺れた。非通知だ。
「……はい」
『伊党千花はちゃんと生きてるぞ』電話口から聞こえた声は夜久だった。
「はっ!? なんで俺の番号……!!」
『來から教えてもらった』
驚きに声量をあげ、慌てて口を塞いだ。幸いにも、こちらを振り返る人はいなかった。
――そうだ、あいつ情報屋だった……。
脳内で赤面しながら怒る來が浮かんだ。
『んで、どうすればいい?』
「は?」
『身の安全を、と言わなかったか? 奴は既に源次に引き渡したぞ』殺し屋の発言に血の気が引いた。
「何だって!? 俺は、見張っていろって言ったんだ!!」
できるだけ小さく話す。心音がやけに響いて、変な汗が背中を伝った。
『それは……、すまない事をした』
想定外の間違いに電話先も狼狽えているようで、小さく謝罪が聞こえた。しかし、周りの警官たちは直近の事件に手一杯で被疑者の逃亡は発見を免れている。
「とりあえず、気付かれる前に牢に連れ戻し――」
「早夢! 大変だ!」
巡査部長の飯倉望がドアに体を滑らせて駆け込んできた。
「被疑者が脱走した!!」
警官は顔白い顔のまま、錆び付いたロボットの如くギチギチと彼に振り向く。
「……顔色悪いが、大丈夫か?」
「ま、まあ……。大丈夫です」
多分。と付け加えて顔を伏せた。見事なフラグ回収である。
「替え玉は機密。無実とはいえ脱走はまずいぞ」
「……父さんには?」
「報告は済んでる」
なぜそんなことを聞く? 望は探るような視線を寄越した。
「俺が追います。要は替え玉の件が世間にバレなければいいんですよね?」
「ああ、ざっくり言うと……そんな感じになるのか。でも、お前はチームを――」
「飯倉さんは例の事件をお願いします。何かわかったらすぐに連絡をください」
「……わかった。頼んだぞ」
策がある事を悟ったのか、素直に去っていった巡査部長の背中を見送って、早夢はスマートフォンを耳に押し当てた。「聞こえたか?」
『ああ、すまない』
「お前も源次と一緒に居るのか?」
『いや、私は地下の書庫にいる。事件の詳細に目を通しておきたかったんだが……、ここにはないのか?』
「…………」早夢は、もう一度大きくため息を吐いた。
手を組んだとはいえ、警官と殺し屋だ。車中で手錠をかけた時に身勝手な行動は慎めとの意味も込めたのだが、これでは伝わっていないようだ。
父に実力を認めてもらうことを優先した結果、早々に後悔の念が押し寄せてきた。夜久たちの改心もあったものではない。
「……用を済ませてそっちに合流する。いいか? 俺が行くまで絶対にその部屋を出るな」
警官は返事を聞く前に通話終了のボタンを押した。まず向かうは警視総監室だ。
身なりを整えて扉を4回ノックする。
「……失礼します。悲哀村警察巡査の高本早夢です」
返事が聞こえるまで、扉に耳を当てて待つ。
「入れ」
意識せずとも背筋が伸びる。
「既にお聞きになったかと思いますが、捜査中の連続殺人事件において、地下牢獄に収容中でした被疑者の伊党千花が脱走しました」
広々とした室内で、本革の社長椅子に腰かけた髭面の男こそ、高本玄月、早夢の父親である。
「先刻に警視庁前で発生した犯行により混乱が起き、伊党千花の捜索に割く人手がありません」
スクエア型の銀縁眼鏡が反射して、自身の情けない顔が映る。早夢は引き攣った仮面の下で苦笑した。
彼が警官になりたいと言い出すまでは、笑顔を絶やさない人物だったのだが、こうも無愛想だと別人にも思える。
「はっきり言え」
庁内では、射抜くような鋭さと赤黒い目から“蛇目の返り血”という異名があると聞いたが、早夢には父親としての一面が垣間見えていたこともあり、あまり実感が湧かない。――わからなくはないが。
「伊党千花の捜索を一任させて頂きたいのです」
「……お前に?」
厳格な父は、常に正しいことを告げ、高みを目指している。いつしか正解しか認めない、間違いを許せない人間になってしまうのではないかと考えることもあるが、自身を認めてもらうことで、同じ世界を見られたのなら、父の言動が理解できるようになるかもしれない。
「はい」
そう思って、ワックスで固められた色のソフトモヒカンが威圧感を演出しているだけだと自身を納得させている。
「国民の安全を守るのが我々の使命だ」
「もちろんです」
「本音を言えば、被疑者の捜索に1日でも時間を割くのは効率が悪い」
椅子からゆっくりと立ち上がり、革靴を鳴らして息子の側へと歩み寄った。早夢は確固たる意志を持ち、蛇目を見つめる。決して逸らさない。
「……チームに合流することは許さんぞ」
「ありがとうございます!」
右手で敬意を表して「失礼しました」と部屋を出る直前に声が掛かった。
「早夢」
振り返る先の父が「気を付けろ」と僅かに微笑んだように見えた。
扉を閉めて体の力を抜く。思いのほか、トントン拍子に事が進み、早夢は安堵の息を吐いた。情けなくも座り込んで深呼吸した後、殺し屋の待つ地下の書庫へと足を急かす。
――地下の書庫……、あそこのセキュリティも突破したのか。
殺し屋一同、大したもんだと頭を搔いた。
元々相対する存在で、いつ裏切られるかも――命を奪われるかも――わからないのに、よくここまでやったものだと感心する。
「問題を起こしたのなら、しっかりその尻は拭ってもらわないとな」
指紋認証と網膜認証を終えて階段を駆け下りる。すぐに上がった息に苦笑しながら書庫のドアを開いた。丁寧にファイリングされた資料がラックに並んでいる。
「夜久?」
決して広くはない部屋なのに視界を埋め尽くすほどの資料の数は、見ているだけで頭が痛くなってきそうだ。
「……早かったな」
奥の棚から申し訳なさそうにひょっこりと顔を出したフードの女は事件の資料を片手に持っていた。
「父さんに頼んで、被疑者の捜索を俺に一任してもらった。真犯人と共に俺が連れ帰る。それまでは他人の目に触れないようにしておきたい」
真犯人を捕まえるまでの時間稼ぎになる。そう伝えると、夜久は警官の前に歩み出た。
「それならで匿えばいい。こうなった以上、下手な真似はできない仲だ。都合がいいだろう?」
「ああ。助かるよ」
「元はと言えば私が聞き間違えたから」
すまない、と彼女は手元に目を落とした。
「仮に真犯人を捕まえられたとして、替え玉はどうなる?」
「さあな。俺も詳しくは知らない」
替え玉を利用した事件の真犯人が見つかったなんて前例はない。
「資料を見終わったなら源次のところに向かおう。お前も長居していい人間じゃない」
「わかったよ」
夜久はパタンと音を立てて資料を閉じ、隙間の空いた棚に押し填めた。
× × ×
東京都 悲哀村
カフェ『Re:set』
「悪い。中々戻って来ないから、もしかしたらと思って無線に掛けたんだが、繋がらなくてよ……」
クラシック音楽も止まったカフェで、眉を八の字にした源次に悪気はなさそうだ。というより、殺し屋の状況を理解した上で便乗した匿い屋の悪意は目に余る。何処吹く風とクッキーを頬張っている黄緑色の繋を睨んだ。
「んぐっ……!?」
念力の甲斐あって咳き込んだ彼を、夜久は鼻で笑った。
「それで、何かわかったことはあるのかい?」
新弥の背中を擦りながら、スイセンが尋ねた。
「ここに来てた雑誌記者の野々村導彦さんが目撃者として話をしてくれた。……細身の男が被害者の影を踏んだ瞬間に頭部が破裂した、と」
早夢は続けて「ただ、あの状況下で他人の影を踏まないことは無理に等しい。事件発生には関係しないと思ってる」と手帳を見て答える。
「でも、本部はそうでもないみたいで……さっき入った連絡じゃ、この事件が『影踏み事件』と名称付られたって話だ」
「何にしても真犯人を特定できないようなら、アイツの無実は証明できないし、芸術家の件も先延ばしってわけか」源次が顎髭に手を添える。
別室では、暴れ回ったおかげで傷だらけだった千花の身体を、美晴が手当てしている。時折「痛てぇー!」と大声を上げながらも大人しく治療されているようだった。
「夜久は資料を見てきたんだよね? 何か気になることはなかったのかい?」
野菜ジュースを流し込みながら新弥が発言した時、彼の後ろのドアが開き千花と美晴が顔を出した。
「大丈夫か?」殺し屋が目線を向けて言う。所々に包帯が巻かれ、見ているこちらが痛い。
「大した怪我ではないけど、しばらく安静ってところね。……はい! それじゃあ皆、よく聞いて? 家でしばらく一緒に暮らす伊党千花くん! 新弥と夜久と早夢が同い年だから、仲良くするのよー?」
世話好きな彼女は嬉しそうに、千花を紹介する。そんな美晴の表情が伝染して、新弥を皮切りに自己紹介が始まった。花が咲いている面々には目を丸くして驚いているようだったが「元に戻るといいな」とはにかむ。
「……高本早夢だ。巻き込んですまない」
最後に短く名乗った警官は、チラリと千花を見た後、居心地悪そうに身体を縮こませた。
「構いやしねェよ。よろしくな」
美晴から聞いていたようで、彼は躊躇うことなく早夢の隣に腰を下ろした。
「今日はもう遅いし、みんな疲れたでしょう? すぐにお風呂沸かすから入っちゃってね!」
「あ、じゃあ、俺は帰るよ。美晴、オムライスご馳走様な!」
美晴が浴室へ足を向けた矢先、警官が立ち上がって礼を言った。
「何言ってるの、早夢? あなたも今日からここに住むのよ!」
「え!? いやいや、それはさすがに……」
「あら、ホテルでも取ってあるって言うの? それとも、ここからわざわざ家に帰るつもりかしら?」
ズンズンと詰め寄られ、その気迫に早夢は眉を下げる。
「職場も近い、3食・おやつとお風呂付き、個室もあるわ。警察官として、殺し屋を監視下におけるチャンスよ」
引き合いに出された夜久は嫌そうに目を向けた後で「まあ、芸術家探しも手伝ってもらわないとだからな」と渋々頷いた。
「決まりだね」新弥の一言で皆が頷き、釣られて頷いた早夢を見た監察医は、ルンルンで浴室へ向かっていった。
店内の明かりが薄く灯された中に、彼女は座っていた。向き合ったテーブルには1冊の資料。警視庁地下の書庫から持ち出したものだ。早夢の許可は取ってないから、いずれその皺寄せが来るであろうと思うと、少しばかりの良心が痛む。
――白薔薇事件……。
表紙に書かれた事件名に聞き覚えがあった。
日本には『トライアングル』と呼ばれる3つのマフィアグループがある。それぞれ、青舌、赤帽子、白薔薇だ。
今から20年近く前に、白薔薇とその傘下にあった製薬会社が打ち出した新薬に致死量の違法成分の混入が発覚。市販で手に入る薬品だった為、死者だけでも1万人を超え、約4千人の人々が今でも後遺症に苦しめられているという話だ。
白薔薇事件とは、後に警察が制裁し、白薔薇を壊滅させるまでの一連の事件のことを称している。
「…………」夜久は角張った文字で記載された報告者名を指でなぞる。
――高本玄月……。今の警視総監で、早夢の父親。この事件をきっかけに一気に出世したんだったか?
制裁は死を意味する。今でこそ警察との紛争はないが、正義を掲げる彼らが制裁の名のもとに殺しを容認していたとなると、一体何が正義になるのだろうか。
白薔薇は青舌と赤帽子に比べ数千人規模の大きな団体である。日本という島国においてこれは相当な数だ。その全てを制裁したというのだから侮れない。
夜久は静かにページをめくりながら、冷めきった紅茶に手を伸ばす。1枚の写真に目が止まった。『白薔薇の拠点より押収した新薬開発者のメモ』と紹介されたそれは、中央に筆記体の英文が走り書きされ、隅には『あなたの人生に幸多からんことを』とまた別の人物が書いたであろう一文が添えられている。何を意味するのかは記されておらず、報告書の空白を埋めるように添付してあった。
「まだ起きてんのかよ」
背後から掛けられた声に肩を跳ねさせて振り返る。千花が眠そうに階段を降りてきていた。
「水を飲みに来た」食器棚から夕飯時に使っていたグラスを取り出した。人懐っこいのか、数時間前まで騒ぎの渦中にいた男と思えぬほど、この家に馴染んでいる。コクリと喉を鳴らして水を飲む彼は欠伸を噛み殺した。
「……何者だ?」
夜久は並べていた足を組んで千花を見る。
「あ?」
「地下牢の鎖や枷は鉄だ。それを壊しかける力……。今も、気配なく降りてきた。最初から驚かせるつもりだったな?」
もう10年以上も人を殺めてきた彼女の勘が冴える。
「もう一度聞く。──何者だ?」
千花は片方の口端を遊ばせ、気だるげに「降参」と両手を上げた。水の入ったグラスを揺らして、夜久の前へと歩み寄って座る。怪しく光る金色の目が半月を描いていた。
「俺は海賊だ」一言、彼は水を飲みきった。
「この時代にか?」
「おう、子供の頃からの夢だからな!」
――道理で警察から目をつけられるわけだ。
替え玉として、他の犯罪者が捕まえられれば一般人に犠牲はない。
――この事件の場合、そうはいかなかったけど。
「だから、もしもの時は力になるぜ? せっかく無実を晴らしてもらうんだ。そのくらいはしねぇとな」
自身の二の腕を軽く叩いて得意げに笑う。嘘を言ってる様子は見受けられず、夜久は「覚えておこう」とだけ返して視線を資料へ戻した。
「何読んでんだ?」身を乗り出して覗き込まれ、殺し屋はフードの奥で顔を顰めた。
「You my clearか。白薔薇の新薬の名前だったよな」
千花は写真の英文を読み上げた。
「知ってるのか?」
「ああ。動物愛護施設で働いてた母さんから聞いた。いつも通りの餌やりにソイツを使ったらしい」
「餌やり? 被害が出てるのは人間だぞ?」
数ページ戻して『推定被害者人数』の欄を人差し指で叩いた。
「You my clearは犬猫の殺処分ゼロを目指して作られた薬なんだよ。投与すれば、たちまち人間に大変身。日本の少子高齢化や経済も復活っていう代物だ」
「動物が、人間に? そんなこと……」
資料にそんな記述はない。傷跡が花になっている人間がいる以上、あり得る話だろうが、いかにも信じ難い。
「人間と同じ生活をして暮らしていると?」
「夢があるよな」そう言って千花は背もたれに身を預けた。
「少なくとも、母さんが働いていた施設では餌やりの前に、人間の舌で食感を確かめてた」
硬すぎても柔らかすぎてもダメなんだってよ。彼の話を聞きながら、紅茶を飲んだ。
「――その副作用で母さんは失明した」
空になったグラスを煽って片眉を上げた千花は、「新薬のせいって言ったら難癖つけるみてぇになるけど」と前置きして続ける。
「漁師だった父さんは、母さんの世話をするのに転職した」
「……海賊に?」
「なんでそうなんだよ」間髪入れずにツッコミを入れる彼は、思い出したように目を輝かせた。
「そういや、母さんに内緒で父さんと2人で海に行った事があんだけどさ。俺、初めてで。日に当たってすっげぇキラキラしてんの。んで、そのキラキラに見惚れてたら溺れてよ」
懐かしんでいるのか、どこか遠くを見ながら話す海賊に、夜久もティーカップを煽る。赤みのかかった液体は口内に流れ込まず、代わりにカップの奥からボヤけた千花が見えた。
「父さんと周りの大人たちが助けてくれたけど、母さんにバレてこっぴどく叱られたぜ」苦笑した彼の目が細くなる。
「それから、母さんは海が嫌いになっちまって……。俺はその海の魅力を伝えるために海賊になるって決めたんだよ」
押しも押されもせぬ意志を宿して夜久を見る。ハッと我に返り「悪ィ……、思い出話になっちまったな」と席を立ちキッチンへ戻った。
「構わん。聞かせてくれてありがとう」シャコシャコとスポンジを泡立てて洗う彼は、食器を重ねた後に後に蛇口を閉める。小さく高い声で鳴いた食器は、薄明かりの照明を反射していた。
決して綺麗な思い出ではないかもしれないが、肉親のいない夜久にとっては欲しくても手が届かない貝殻のようだ。
「おう、俺は戻るぜ。お休み」
濡れた手をタオルで拭いてスリッパを鳴らした。
「1つ聞いてもいいか?」
殺し屋は階段に足をかけて振り向いた海賊に問う。
「その寝間着のセンスは……美晴、だな?」
全身にハートが散りばめられた寝巻きを着た彼は、いたずらに笑って暗闇に消えた。