帝国ホテルの最上階スイートルームには、淡い明かりが灯っていた。
煌びやかなビジューがあしらわれたウェディングドレスは無造作に床へと投げ出され、ベールもまた乱れたベッドの上に半ば覆いかぶさっていた。
早坂莉子は、鋭い痛みによって目を覚ました。意識がまだ朦朧とするなか、熱い吐息が耳元にかかり、低くかすれた声が囁く――
「初めて、なのか?」
あまりの痛みに身体が小さく震える。莉子が必死に目を開けると、目の前に現れたのは、端正でありながらも彼女を震え上がらせる顔――九条直樹だった。
彼女の義兄である、九条直樹。
莉子の思考は真っ白になった。本来なら今日は彼女と西尾夏樹の結婚式のはずだった。思い出せるのは、同じ日に結婚する姉・早坂清佳からもらった和菓子を食べた後、意識を失ったことだけ。気がつけば、なぜか義兄のベッドの中にいた。今日、姉と結ばれるはずだった男が、今――。
九条直樹は拳を固く握りしめ、引き締まった顎に汗が滲み、筋張った腕からも、この状況を必死で堪えていることがうかがえた。
「すまない、早坂さん。僕も罠にはめられたんだ」
そう言って、再び覆いかぶさるようにキスを落としながら、低く、しかしはっきりと告げた。
「安心してくれ。早坂家には僕から説明する。これからは、僕が君の夫になる」
圧倒的な激情に、莉子は身を任せるしかなかった――。
どれほど時間が経っただろうか。外の廊下から、甲高い泣き声と騒ぎが聞こえてきて、莉子は目を覚ました。
「お父さん、お母さん……もう生きていけない!私はずっと夏樹さんが好きだったけど、彼は妹の婚約者なのに……どうして彼のベッドに入ってしまったの?あの和菓子を食べてから、何も覚えていないの……もう死んだ方がましよ!」
廊下では、清佳が涙をぽろぽろとこぼしながら、壁に頭をぶつけようとしていた。
母の雅子はしっかりと娘を抱きしめ、鋭い声で叫んだ。
「あなた!清佳のために何とかして!莉子のあの子、自分の身を汚して清佳まで巻き込んで……結婚式の日に姉の夫を奪うなんて!こんなこと、西尾家にも大迷惑よ。祖父の遺言なんてもう関係ないわ!いっそ姉妹で花婿を交換して、今日は清佳が西尾家に嫁げばいいじゃない!」
父・国雄は顔を真っ赤にして黙り込み、どうするべきか思案していた。もし交換しなければ、早坂家の二人の娘が結婚式の日に花婿を取り替えたと世間に知られてしまう――。父が了承しかけた、その時――
「カチャリ」と、部屋のドアが静かに開いた。
冷たい泉のように澄んだ低い声が、騒ぎを一瞬で鎮めた。
「誰が、早坂家に僕の花嫁を決める権利があると思っているんですか?」
皆が驚き、振り向いた。
九条直樹は一人の女性を抱きかかえながら現れた。彼のタキシードの上着がしっかりと女性の体を包み、すらりとした脚だけが見えている。
そして、彼女の首筋には隠しきれない赤い痕が残り、部屋で何があったかを物語っていた。
「この恥知らず!」雅子は激昂し、九条の腕の中の莉子に向かって平手を振りかざした。
莉子は思わず目を閉じ、唇を噛んだ。しかし痛みは訪れず、頬は温かな大きな手に守られた。九条は莉子を抱きながら身をひるがえし、雅子の手を軽やかに避けた。
九条は冷ややかな視線を向けて言い放つ。
「まだ何も明らかになっていません。落ち着いてください、奥様」
「何が明らかじゃないっていうの!清佳が全部話したでしょう?莉子が下品な真似をして、西尾家の若様を奪い、あなたにも薬を盛ってこんな騒ぎになった!どこがわからないの!」
清佳は泣きながら夏樹の胸に飛び込む。
「夏樹さん、私、どうしていいかわからない……莉子がこんなことするなんて……」
夏樹は優しく彼女を慰めていた。
その様子が莉子の胸を締めつけた。本来なら自分の夫になるはずだった人は、今、姉を抱きしめている――。
だが誰も知らない。この混乱の原因が清佳であることを。すべての罪を莉子に押し付けているというのに。
莉子は九条の首元のシャツをぎゅっと握りしめ、震える声で問いかけた。
「清佳、薬を盛ったのは私だって言うの?」
「他に誰がいるのよ!」清佳は泣きじゃくりながら、「あなたがくれた和菓子を食べたら意識がなくなったの!」
「でも、その和菓子はあなたが――」莉子は弁解しようとしたが、
「もういい!」国雄が激しく遮り、莉子を睨みつける。「お前はこんな恥をさらして、家の名を汚しただけじゃなく、お姉ちゃんまで悪者にするのか?お前の母さんの言う通りにする!清佳が西尾家に嫁ぎ、莉子は九条のお嫁さんになるんだ!」
心が凍りつき、莉子は信じられない思いで父親を見つめた。家族さえも自分を信じてくれないなんて――。
その時、肩に温もりが広がった。
九条はしっかりと上着で莉子を包み込み、首元の痕も肌もすべて隠してくれた。低く落ち着いた声が、はっきりと響く。
「いいでしょう」
九条は冷たい光を湛えた目で周囲を見渡した。
「莉子は、僕が必ず迎えにいく」
そして、唇に冷たい笑みを浮かべながら続けた。
「ただし、花嫁を替えるのは僕の要求です。なぜなら――」
九条は鋭い目で清佳を見つめる。
「僕は、実の妹に薬を盛り、後から責任転嫁するような女を、妻にするつもりはありません」
清佳は九条の視線に打たれ、思わず身震いした。この男がただの没落した家の人間とは思えない、圧倒的な存在感があった。
最後に九条は国雄をじっと見つめて、ひとことひとことはっきりと告げた。
「社長、よくお聞きください。今日、花嫁を替えるのは僕の意思です。もしお嬢様に異論があるなら、今すぐ病院で血液検査を受けましょう。その時、真実が明らかになります。いかがですか?」