ピチチ、と鳥の鳴き声で目を覚まし、わたしはおもわず憂鬱そうに起き上がりました。
脳裏に残るのはわたしに求愛してくる数々の男子生徒の声。
ある時は、無理矢理取りつけられた婚約の相手から。
『お前は俺の婚約者だろう。また他の男と話して……俺の言うことが聞けないのか?』
ある時は、学園の統率者として尊敬していたはずの生徒会長から。
『こんなに好きにさせておいて、僕のモノになってくれないんだ……じゃあ、あいつ殺しちゃおうかな?』
ある時は、友人の双子の兄で、潔癖な気質を持つ、完璧主義なクラスメイトから。
『……きみになら触れられたいとおもうのに、どうして触れてくれないの?』
ある時は、偶然助けただけで懐かれてしまった二学年下の後輩から。
『せーんぱいっ! へへっ、ねえ先輩、もっと俺と遊ぼうよ。最近構ってくれなくてさみしいんだよー?』
ある時は、帰国子女で海外経験が長かったというミステリアスな一学年下の後輩から。
『Beautiful! あなたほどうつくしいひとに出会ったのは初めてです。フフ、怖がらないで。私と踊りましょう! 完璧なあなたに似合うのは私だけ……』
振り払うように首を振って、わたしは自身をまもるように両腕で体を抱いて息を吐く。
好きで婚約したわけじゃない。好きで執着されているわけじゃない。好きで触れたいとおもうわけじゃない。好きで構っているわけじゃない。好きで振り回されているわけじゃない。
全部、全部、わたしが望まずとも勝手に発生しただけのもの。
いっそ、恐怖すら覚えますわ。
婚約者なら何でも言うことを聞かなければならないの? 勝手に執着されていても、それはわたしのせいなの? 構ってあげたつもりがなくても懐かれたら構わなくてはいけないの?
完璧で
だけど知っている。一部裏では「男
完璧で隙がないからこそ、誰にも
彼らが本気の好意で接してくれていることも、裏で噂を流す人間がわたしのつくり込まれた完璧さに
いつか必ず、誰かを選ばなければいけないのです。
それが婚約者であるのか、それ以外であるのか、わたしにもわかりません。
……否、わかりたくない、のでしょう。
婚約は家が決めたものであって、わたしは自分に声をかけてくる男子生徒に対して特別な感情をいだいたことなど一度もございませんので。特別な感情──それがどんなものであるかなど、わたしは、未だ知らぬままなのです。
わたしは、わたしの意思を尊重してくださる方としあわせになりたい。
わたしは、わたしを大切にしてくださる方と共に在りたい。
そのようなささやかな願いの、一体何が悪いのでしょう。それは悪なのでしょうか。
「……いけませんわ。
制服に着替え、鏡の前でニコリと
完璧な笑みを絶やさない。完璧であることをやめない。だからわたしは完璧でいられるのです。
「誰かが……わたしを助けてくださったらいいのに……」
意味もない言葉を吐いて、わたしは今日も寮室を出て、女子寮から学園までの道のりで女子生徒から挨拶を受けながら、完璧で無駄のない所作でコツコツと歩き続けます。立ち止まったところで、きっと誰も助けてはくださらないのだから。ただわたしが苦しむだけなのですから。
わたしの痛みを知る人間はどこにもいらっしゃいません。
わたしがさらけ出すことを決して認めないから。
決して弱みを見せる真似をしないから。
「おはようございます、みなさま」
ぐい、と肩を掴まれ、わたしはおもわず肩を
「おいおい、挨拶なら先に婚約者だろ。クラスがちがうからって後回しか? 毎朝おなじことを言わせるな、
「……失礼いたしました。おはようございます、
まるで待ち伏せしていたかのような「ご挨拶」に、わたしはニコリと笑みを浮かべて応じる。
だって、それ以外にどうしようもないのですから。
婚約者だからまず先に挨拶をする?
──おかしな話ですわ。わたしは「国内随一の財閥令嬢」であり、相手は「たかが大商社の跡取り候補ですらない次男」──どちらの立場が上であるかなど、火を見るよりも明らか。
なのに、ただわたしが女であるからというだけの理由でそこまで尽くさなければならないのでしょうか? わたしの婚約者になったというだけで、なぜそこまで尊大になれるのでしょう。
「随分な無礼ですね。毎朝こんな感じなんですか?」
すっと耳に入り込んできたのは爽やかで涼しさすら感じさせるようなやさしい声。
そっとわたしと宗一郎の間に割って入ったのは、宗一郎様の弟君である
「無礼? はは、櫻子のことだろう? わかっているじゃないか。そうだ、櫻子は──」
「兄さんに言っているんですよ。その程度の理解もできないから後継者候補から外されたのですよ。あれから何も学ばなかったんですか?」
「なっ、何を言っている! 登校したならまず俺に挨拶に来るべきだろう。それは当然のこと、何がまちがっていると言うのか! 俺は櫻子の婚約者なのだぞ!」
京一郎は呆れたように溜息をこぼし、櫻子の視界から宗一郎が消えるように立ちふさがる。
「立場の問題ですよ。……まさか、花菱財閥の一人娘と婚約したからって、自分まで──いえ、自分の方が偉い人間になったとでもおもっていらっしゃるんですか?」
「何もわかっていないな、女は黙って男の言うことを聞くものだ」
「そういうところですよ。古い考えをお持ちだからあなたが馬鹿にする弟にまで
「~~っ、貴様!」
「暴力に訴えるのも兄さんの悪い癖ですね。……櫻子さん、少しお時間をいただけますか? 生徒会のことで少しご相談が……いかがでしょうか?」
兄君の手をするりとよけて軽く彼の身を床に叩き落とした京一郎様はニコリとやわらかく警戒心を与えないようなやさしさを持った笑みを浮かべてわたしにそっと手を差し伸べた。
私はどうしても一瞬だけ戸惑うように目を揺らしてしまって、ですがすぐにニコリと笑い返して「もちろん」と手を取りました。わたしは、常に、完璧でいなければならないのです。
教室で話すわけにもいかないから、と教室からそう遠くない生徒会室へ向かい、わたしは京一郎様を振り返りました。彼は眉間に
「……すみません、兄があんな無礼な態度を取っているとは存じ上げませんでした」
「いいえ、あなたが謝ることではございませんわ、京一郎様。それで、ご相談とは?」
「ああ、はい……こちらの生徒会主催のダンスパーティの企画について……」
サッと渡された資料に目を通し、わたしはおもわず
京一郎も厳しい表情を浮かべており、どうされますか、と硬い声で
「……この日は花菱財閥の新規事業の祝賀パーティがありますわ。そちらを欠席することはできません」
「そうですよね。会長は何をおもってこの日程にしたのやら……」
「いつものことですわ。……いつも、仰っておりますもの」
「何と?」
「『僕を優先してくれるよね?』」
「……愚かですね。婚約者がいる上、花菱財閥という、我々のような者を取るに足らない──そもそも敵とすらおもっていただけない相手に何という無礼を。会長がその様子なら、他にもそういう態度を取られる方が……?」
「いないわけではございません。むしろ、あなたのように冷静かつ礼節の整った方を見る方が久しいことですわ」
「はあ、信じられない……櫻子さんのことを何だとおもっているんだ……? 櫻子さん。僕でよろしければいつでもお話をお聞きしますし、兄の婚約についても実家へ報告と相談を上げられます。……どうか、ご無理はなさいませんよう」
「ありがとうございます、京一郎様。……もう少し、耐えますわ。それでこそ『花菱財閥の後継者』を名乗れるでしょうから。逃げてばかりではいられません」
わたしはそっと京一郎様の手を取り、できうる限りやわらかく微笑んだ。
京一郎様は浮かない顔をしていらっしゃいましたが、そっと溜息をこぼして「仰せのままに」と最終的にはわたしの意志を尊重してくださいました。そんな
「あれ、こんなところで何してんの?」
不意に聞こえてきたのは生徒会長・
「この日程、明らかに花菱財閥の祝賀パーティと被せてますよね。どういうおつもりですか」
「ふふ……あはは! 可愛い子猫ちゃんなら僕を選んでくれるでしょ? 当然のことだよ」
「馬鹿げたことを……櫻子さんに確認しましたが、当日は『花菱財閥の祝賀パーティ』へ出席されるご予定のようです。櫻子さんがいない状態で生徒会主催のダンスパーティを円滑に進められるとおおもいですか? 僕はこれまでの経験上、櫻子さんの実力に頼りきってきたこの生徒会が櫻子さん抜きに『できるわけがない』と考えていますよ」
「……ふーん、櫻子ちゃんは僕を、僕たちを選んでくれないんだぁ」
「選ぶ選ばないではありません。
いずみ様はふてくされたように唇を尖らせ、わかったよ、と京一郎様の手からパッと資料を奪いました。
「日程をずらせばいいんでしょ。……ほんっとに今年は口うるさい馬鹿が入ってきたなぁ」
「……馬鹿はあなたですわ、会長」
わたしはおもわず口にしてしまいました。
いままで誰にも言わずに耐えてきたのに、自分をどう言われようと笑顔を絶やさずにいられたのに、わたしはどうしても京一郎様を馬鹿にされることを許せませんでした。こんなにも誠実で聡明なひとを「馬鹿」だなんて。
「……子猫ちゃん、いま何て言った? よく聞こえなかったなぁ」
「ですから、馬鹿はあなただと申し上げたのです」
「わざわざ聞こえないふりしてあげたのに、何でこいつを庇うの?」
「京一郎様だけがっ……わたしを尊重してくださるからです。いつも、いつも、自分を選んでくれると信じて疑わない殿方に振り回され続けて、わたしはもう疲れました。わたしは、わたしの意志を持って生きていきたいのです。花菱財閥の後継者である以上、わたしはこの日程のダンスパーティには決して出席できません。それをわかっていて、わざわざおなじ日程を選んで自分を選ばせようなどというあなたと、わたしの実家事情まで丁寧に汲み取って相談を持ちかけてくださった京一郎様……馬鹿はどちらだと言うのです? わたしは当然、あなた様とお答えします」
「……櫻子ちゃんさぁ、何でそんなにこいつに肩入れするの?」
「彼がわたしの意志と立場を尊重してくださるからですわ。何度も言わせないで」
「ふーん、じゃあ僕はもういらないんだ?」
「いる、いらないという話はしておりません! いつもいつもっ、そうやって曲解ばかりなさって……!」
「櫻子さん、落ち着いて。……会長、次はありませんよ。次に花菱家を
「……失せろ、
「どうぞご自由に。……潰せるかどうかは、ご実家次第ですけど」
「生意気なガキが……覚えておけよ」
わたしの手を取って生徒会室をあとにした京一郎様は、教室へ戻る前に振り返り、すみません、と謝罪の言葉をこぼされました。
わたしはなぜ謝られるのかがわからなくて、おもわず彼の手を取りました。
「どうして謝罪なさるの?」
「……僕の余計な言葉のせいで、あなたがつらい思いをなさるのではないかとおもって」
わたしは初めて眉を下げて笑って、京一郎様の頬に手を添えました。わたしはいつだって「完璧な笑み」を崩したことなどございませんでした。それは弱みを見せるのと同義でございましたから。まちがっていると、苦しいと声を上げるのも──初めて。
「あなた様のおかげで、わたしは『完璧なわたし』でいなければならないという呪縛から抜け出してもいいのだとおもえました。……あなたを潰させないだけの力はわたしが持っております。どうか安心してお過ごしになって。──花菱の力があれば、夏川などひとつまみですわ」
「……櫻子さん……大丈夫です。軽率にまもるだなんて言えませんが、あなたが苦しんでいるのを見過ごすほど愚かな男ではありません。いつでも頼ってください。花菱の人間だからということではなく、一人の人間として、あなたは尊重されるべきです。一方的な言葉の暴力に耐える必要はありません」
「ありがとう。……ありがとうっ……」
ずっと痛かった。ずっと苦しかった。ずっと泣きたかった。
初めて自分を尊重してくれるひとを見つけられた。初めて泣いてもいいとおもえた。
わたしは知らずほろほろと涙をこぼし、京一郎様は慌てたようにその頬を流れる涙を拭った。
トン、と京一郎様の胸に額を押し当て、泣き顔が見えないようにしながらグス、と鼻を
「……まるで誰かが操作しているように、わたしは言いたくもないことを口にしては行動に移して、みなさまから集中的に好意を向けられるようになりました。わからないのです。わたしが一体誰なのか、何者なのか、どうしてこんなことになってしまったのか……わたしは、ただわたしを一人の人間として尊重してくださって、完璧でいなくてもいいと仰ってくださる方と出会いたかった。どうして──どうして、いまになってあなたに救われるのでしょう……」
「僕には、櫻子さんが兄さんと上手くやっているように見えていました。だから……ずっと言わないでおこうとおもっていたんです。……あなたをお慕いしていると。こんな時に言うことでもありませんが、でも、言わないと後悔するような気がするんです。またあなたは仮面を被って何でもないような顔で平然と日常に戻ってしまう気がして……」
わたしは覚悟を決めて顔を上げ、涙で瞳を潤ませながらぎゅっと京一郎様の手を握って口を開きました。ちゃんと、わたしの言葉で伝えなければ。
「わたし、お父様に
「じ、直談判?」
「あなたさえよろしければ、婚約者の名をあなた様に変えようと……わたし、もう宗一郎の尊大で支配的な態度にはついてまいれません。いままでNOと申したことはございませんでしたし、この婚約も諦めておりました。それが両家にとっての利益になるから……でも、もう我慢いたしません。おなじ家同士の婚約なら、あなた様でも何ら問題はないはずですわ」
「そ──それは、そうかもしれませんが……」
「ですが、あなたがお嫌でいらっしゃるなら、正式に婚約の破棄だけいたします。これ以上、尊厳を踏みにじられるのも、馬鹿にされるのも、痛いおもいをするのも御免です。……どうされますか、京一郎様」
京一郎様は動揺したように瞳を揺らし、何度か口を開いては閉じてを繰り返し、それからわたしのことをぎゅうと抱きしめました。
「……あなたが僕を選んでくださるなら、僕は何を賭けてでもあなたをおまもりします」
「……ありがとう、京一郎様。すぐにでもお父様に伝達いたしますわ」
「こちらこそ……僕を選んでくださりありがとうございます。僕は……一生叶わぬ恋だとおもっていたのに、不思議な縁もあるものですね……」
わたしは呼び出した精霊に言葉を込めて飛ばし、父の元へ送りました。
「櫻子さん、このまま医務室へまいりましょう。目が腫れてしまっています」
「あら……ああ、泣いたから……一人で行けますわ、京一郎様は授業があるでしょう?」
「予鈴も鳴ったあとですし、どうせ遅刻です。それならあなたに寄り添っていたい。お手をどうぞ」
「……ありがとう、京一郎様」
あなたに出会えて、あなたに認められて、あなたに尊重されて──櫻子は、しあわせです。
「……今度こそ、櫻子さんをまもりたいって、そうおもっていたんです。……どうしてでしょうね、不思議なことですけれど」