SR社が世界初のバーチャルリアリティゲームを発表したのが、今から三十年ほど前のことだったと言われている。
今まで、ヘッドセットを被ってバーチャルの世界を体験するゲームなんかはあったものの、意識が完全にバーチャルの世界に取り込まれる――いわゆる“フルダイブ”ができるような形のゲームは発明されていなかった。構想はあったものの、現実的には相当難しいとされていたのである。
オーバーテクノロジーだとさえ言われたこの壁を見事ぶち破ったのが日本企業だというのだから凄い話だ。
瞬く間にSR社が作ったゲーム機、及びゲームは世界中で人気を博し、ネットでも話題の的となった。
美少女たちに囲まれてラブコメの主人公になれるゲーム。
イケメンたちに愛されてちらほやされるゲーム。
レーシングカーに乗ってスリリングなレースを楽しむゲーム。
そして、勇者となって魔王を倒したり、モンスターと戦うようなゲーム。
現実ではけしてできない危険なこと、不可能なことがゲームの中なら思いのままだ。それこそモンスターにぺっちゃんこにされたって現実の体が死ぬことはない。本気で怖くなったらボタン一つでログアウトすればそれいい。いつでも好きな時に理想の自分になって、好きな時に現実に戻ってこられる。問題があるとすれば、ゲームに夢中になりすぎて長時間ダイブしすぎてしまい、現実の体が脱水症状になって死にかける人が時々現れる、くらいだろうか。
何故こういったゲームが人気になったのか。龍也にも、なんとなくわかるような気がするのである。
それは多くの若者たちが、ライトノベルに夢中になる感覚に近いものがあるだろう。
口うるさい先生。面倒くさい学校。パワハラだらけの上司。退屈で面白味も何もない仕事。いじめやら、人間関係のトラブルやら、セクハラやら、満員電車やら、疲れるばかりのタスクやらストレスやら。――架空の世界に飛び込んで、一時でもそういうものを忘れたい。忘れて、自分にとってどこまでも都合の良い世界に行きたい。そう考えるのはきっと、子供も大人も同じだったに違いない。
それを現実逃避、と言う人もいる。
実際、龍也自身嫌なことから逃げてるという自覚がないいわけではない。
だが、それはそもそも世の中にストレスが多いことが起因しているし――大体、一切合切逃げることなく現実を生きていける人なんて、この世にどれだけいるというのだろう。
毎日必死で生きるために、立ち向かうために、一時ご都合主義の幸せな空間に“逃げる”。誰かに迷惑をかけるわけでもないなら、それはけして間違ったことではないはずだ。むしろ、合理的とも言える。楽しいことがあるからこそ、人は辛いことも乗り越えて頑張れるのだから。
「あのね、何でこんなにミスが多いのかって聞いてるんだけど?」
龍也が“リアル”で勤務している会社。オフィスでは今日も女性課長の机の前で、女性社員が一人叱られていた。課長の声が大きいので嫌でも内容が聞こえてしまう。なんで自分の席、ここから近いんだろう――そう思いながらも、思わず顔を上げてそちらに視線を向けていた。
案の定、課長に怒鳴られていたのは“
あまり器用な質ではないのか、鮎子は上司に叱られることが非常に多かった。自分達平社員の主な仕事はお客様情報をひたすらデータ入力していくというものだが(時々商品の発注とか発送もやるが)、彼女はそのスピードが非常に遅いようだった。そして、ミスが多い。同時期に入社した他の派遣社員たちと比べられてしまうこともあり、ああやってよく呼び出されてしまっているのである。
――なんで、オフィスでみんなが見てる前でああやって叱責すっかな。
聞いている自分達も嫌な気持ちになる。
確かにミスが多いのは困るかもしれない。が、入社一か月そこらで完璧に仕事ができるようになってしまったら、何年も勤務してる自分達の立場がないではないか。まだまだできないことが多くて当然だし、速度だって遅くたって無理ないと思うのである。
大体、人によって得手不得手は異なる。彼女は発送作業や梱包作業は丁寧で上手なのだから、なるべくそっちを任せてあげればいいのに。なんで、画一的な仕事を押し付けて、他の人と比べて毎回のようにガミガミ叱るのだろう。
そんなことをしたって、ますます委縮して作業効率が落ちるだけではないか。
「こんな事言いたくないんだけどね」
課長は、きっと優秀な人材だったのだろう。鮎子より少しばかり年下の女性である。三十代で課長に上り詰めるのだから、きっと努力もしたはずだ。でも、正直自分達社員からはあまり好かれていない。人前で人を叱責するのそうだし、その内容もなかなか酷いものだからだ。
「あんた達派遣社員には、なるべく残業させるなって言われてるの。それがどういうことかわかる?」
「す、すみません……」
「すみません、じゃなくって!あんた達が残した分の仕事は、私達正社員が全部やらなきゃいけなくなるわけ。つまり、あんた達のツケを私達が払わされるの。しかも管理職までなると残業代出ないのよ?その意味がわかる?」
「も、申し訳ありません……」
「そう思うなら、もっとやる気出して頑張って。あなたのせいで、みんなが迷惑してるのよ」
「……はい」
確かに、誰かが仕事ができないとそのフォローに別の誰かが走る、というのはあるのだろう。それを苦痛だと感じることは龍也にもある。
しかし、仕事ができない人を“やる気がない”みたいに言うのはどうかと思うし、大体課長なら自分の采配が間違っているかもしれないというのを考えないのはいかがなものか。自分の目から見ても、彼女はデータ入力よりもっと向いている仕事があると感じるのに。
「……」
ようやく解放されて、泣きそうな顔で席へ戻っていく鮎子。彼女がすぐ近くを通った時、思わず龍也は言っていた。
「俺、迷惑だなんて思ってないですよ。……石狩さん、すっごく頑張ってると思う」
「……!」
小さな声だったので聞こえないかもしれないと思ったが、鮎子ははっとしたようにこちらを振り返った。そして、目に涙を浮かべて頭を下げてきたのである。
その唇が「ありがとう」と動いた。
青ざめたその顔を見て、ますます心配になってくる。そのうち潰れてしまわないだろうか。彼女には――自分のように、ストレスを発散できる手段は持っているのだろうか。
――今度、石狩さんにもゲーム、紹介してみようかな。……あ、でもバーチャルリアリティのゲーム機、結構高いんだよな……お金あるかな。
***
誰もが、嫌なこと、辛いこと、理不尽なことを抱えている。
帰りの電車の中でも、石狩鮎子の半泣きに近い顔が頭の中から離れなかった。
――あの課長にだって、新人の頃はあったはずなのに。……それとも、課長は新人の時から何でもできたタイプかな。だから、できない人の気持ちがわからないのかね。
実のところ、龍也だって叱責を受けることはあるのだ。自分の場合は「もう新人でもないのにこんなミスするなんて!」みたいな言い方をされるわけだが。
ブラック企業、というほどではないと思う。ない、と信じたい。
それでも人までで自分や他人が叱られているのを見ればげんなりするし、人間関係のトラブルも珍しくない。先日は休憩スペースで、女性社員たちが愚痴っているのを聞いてしまって嫌な気持ちになった。
『中島さんが産休に入るって言ったら、田村さんたちがものすごい嫌な顔してたんだけど。何よ、社会に貢献もしてない、暇な独身女のくせにね。嫉妬してんのかしら』
『まあ、中島さん子供三人目だし、産休と育休繰り返してるからイラってくるのはわからなくはないけど。だからってそれを顔に出すとか、モラルなってなさそうぎよね。産休育休は権利だってのに』
『そうそう。そんなに文句あるなら自分達も結婚して子供作って人口増やすのに貢献すればーってかんんじ。子育てと出産がどんなに大変なのかも知らないで、敬う気持ちもないのはどうなんだか!』
『そうよね。楽させてもらってるくせにね。まあ、子持ちに嫉妬するような醜い女がモテるとは思えないけど!』
『ほんとにねー。せめて立派に結婚して子供産んでるお母さんたちのフォローくらい積極的にやれっての。ああいう連中がむしろ、女性の社会進出を妨害してるわよねー』
子供を産む人間も、産まない人間も、それぞれ言い分があるはずだ。
こういうトラブルが起きるのは基本的に、誰かが休んだ時にフォローするための人材を増やさない会社側にあると思うのだが、大抵はお互いの間でヘイトを押し付け合うことになっているような気がする。本当に、誰にとっても得になっていない。
殆どの既婚者、独身者は自分なりに精一杯相手を助けようとするし、汚い罵倒をすることもない。それでもごくごく一部の人間の身勝手な言葉や不愉快な言葉はどうしても目立つし、無関係な人間の精神をも削り取っていくものだ。
――カノジョは欲しいけど、結婚は……ああいうの見ちまうと、やりたくねえなって思っちまうよな。
休憩スペースで愚痴っていた女性達が、同じレベルで夫への愚痴を漏らしているのも聞いたことがある。
結婚すると100%妻の望みを叶えない限り、あのように周りに悪口を言いふらされてしまうのだろうか。そういう女性ばかりではないのは頭では理解していても、男性側に非がある場合もあるのだとしても――やっぱり怖い、と思ってしまうのはどうしようもない。
――疲れることだらけだ。……だから、わかるような気もする。
電車の中、最近では珍しくなった雑誌のつり革広告が目に入った。
『バーチャルリアリティゲームにて、突然死した女性!辛い現実から逃げて、仮想空間で生きたいと願う若者たちのリアル!!』
一か月ほど前に亡くなった女性のニュースだ。テレビでも見たから知っている。
仮想空間で、未来永劫過ごしたい。そう思う人間がいるのも、仕方ないことではなかろうか。
――だって、現実って……嫌なことばっかだしな。
手摺に掴まって、深くため息をついた。
科学の進歩は素晴らしい。けれどなかなか、何十年前から変わっていけない闇もまたあるのだ。