目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
社畜と天使のワンルーム
社畜と天使のワンルーム
結城彩咲
現代ファンタジー都市ファンタジー
2025年07月15日
公開日
1万字
連載中
「初めまして、沢良宜美穂さん。あなたを救いに来ました」  限界社畜OL、沢良宜美穂。ある日彼女が家に帰ると、そこには自らを天使と名乗る少女ミカエラがいた。  彼女の目的は天界で新たに立ち上げられたプロジェクト、その名も「天使の力で人々を励まして自殺者減らしちゃおうプロジェクト!」に基づき、美穂の心を癒すこと。そうして二人はやがて手狭なワンルームマンションの一部屋にて、生活を共にすることとなるーーーー。  限界社畜OLと可愛い天使の二人で送る、心温まる同棲ストーリー!

第1話 天使が舞い降りた夜

「沢良宜!! てめえこっち来い!!」


「……はい」


 とある日、とある企業の昼下がり。


――――オフィス内に、怒号が響き渡る。


 声の主は、体格の良い初老の男性。


 時田正臣。歳は知らないが、おそらく四十後半あたり。臭い口臭とたばこ臭にスーツの肩に溜まっているフケがとても不快な、私の直属の上司である。


 しかしそんな、同じ空間にいるだけで吐き気が止まらなくなるほど嫌いな上司(役職上はそうなっているだけで私はこれっぽっちもそうだとは認めていないため、上司と呼称することも憚られるが)に逆らうことこともできず。私――――こと沢良宜美穂はハリの無い、ただ長いだけの黒髪を左右に小さく揺らしながら。その男の元へと歩き出す。


(ああ、またか……)


 もう、何度目になるのだろうか。


 毎日毎日、大した年間休日も貰えぬまま毎月の手取り十七万で働いて。そんな日々をここに二十二歳で新卒入社した時からかれこれ三年も続け、精神はとうに限界のその先まですり減って壊れてしまっているというのに。


「俺言ったよな? この書類、昨日までに終わらせろって。そうしないと俺が迷惑を被ることになるって!!」


「……すみません。私の持てる力は尽くしたつもりですが、強制消灯までに終わらせることができず」


「なら家持って帰ってでもやれや!!」


「昨日は終電を逃したため家には帰れていません。万一のデータ漏洩等のリスクがあるため、宿泊したネットカフェでも作業が行えませんでした。そのため現在始業前から自身の業務を前倒しで行い、今日中にはその書類を完成させられるよう努めております」


「……始業前の業務でタイムカードは切ってないだろうな?」


「はい。残業分もタイムカードには記録しておりません」


「ちっ。もういい。絶対に今日中には終わらせろよ。もしできなかったら……分かってるよな?」


「最大限努力いたします」


 軽く会釈して。自身のオフィスへと戻る。


「……」


 もはや、ため息すら出ない。


 、アイツの″うさ晴らし″の的にされるのにもすっかり慣れてしまった。


 そもそもその書類はお前の担当で、自分が楽するために私に押し付けているだけのものだろーーーーとか、自分の持ち仕事に加えてお前のまでやってたら会社のパソコンが強制的に消灯される午前零時になるまで残業しても終わらないのは当然だろーーーーとか、残業代とネカフェの宿泊費払えーーーーーとか、臭え唾飛ばしてくんなーーーーとか。


 当然、今の短いやり取りの中でもぶちまけたい不満はごまんとあった。


 けれど、そのどれも口に出すことはない。口に出したところでどうせ解決はしないのだし、それならばもう何も言わない方が楽だと。そう思ってしまうほど、私は″手遅れ″の域にいる。


 そんなことよりも今は、今日こそはちゃんと家に帰れるのかの心配をするばかりだ。


「はぁ。ほんっと、使えねえ……」


 使えない、か。


 きっと自分がこのオフィスの中で一番の足手まといだと、本気で理解できていないのだろうな。


 アイツ以外は全員それを分かっている。けれどそれを伝えられる者はおらず、結果勘違いして調子に乗り続け、もうすっかり「裸の王様」だ。


 本当に気持ち悪い。アイツもーーーーアイツに言い返すことすらできない、自分自身も。


「……ふぅ」


 やめよう。これ以上考えるのは。


 発露できないストレスと自己嫌悪など、持っていたってなんのメリットも無いのだ。


 目頭を軽く指でつまみ、それらを飲み込んで。そのまま追い打ちをかけるようにエナジードリンクを口に含んで、胃の中に流す。


 昔はこんなもの、テスト前や受験の時に勉強する時に飲むただの不味いドリンクでしかなかったのに。今では不味いどころか、この不健康なまでに詰め込まれた糖分の濁流が無ければ生きていけないとさえ思うようになってしまった。


「っ……」


 ああ、″来た″。


 重い瞼がすぅっと軽くなり、PCの画面に映る内容が鮮明に頭へと流れ込んでくる。


 まるで、体が若返ったかのような全能感。


 体中を包む、ほんの僅かな多幸感。


 無論これが糖分とカフェインの見せる仮初の力で、同時に寿命の前借りでしかないことなど。とうに理解している。


 しかし、それでもいいのだ。


 だって、どうせ長く生きたところで……その先にある未来には希望など、ありはしないのだから。


 ひたすらに、キーボードを叩く。


――――この絶望に満ち満ちた今を、ただ生き永らえるために。


 ◇◆◇◆


「お疲れ様。今日は終電、間に合いそうかい?」


「……ええ。なんとか」


「そりゃあよかった。夜道、気を付けてね」


「どうも」


 夜、二十三時三十分。


 終電十分前になり、ようやく。私はオフィスを後にした。


 そして四階からエレベーターを使って一階へと降りると、戸締まりした鍵を窓口へと届ける。オフィス内で常に一番退社が遅い私にとっては、ここまでがセットで日々の業務である。


 窓口で気さくに話しかけてきたこの白髪混じりなおじさんは、夜勤の用務員さん。名前は……普通の社員と違って名札を付けていないので知らない。ただ、こうして鍵を預けて書類を書いている時間に軽く会話するだけの仲だ。


 書き込むのは名前と、鍵を返した時間。おそらくエクセルか何かで作成したのであろう表には時刻と名前が幾つも羅列されていた。……まあ、五つに一つは私の名前だけれど。


 この表を見ていると億劫だ。こんな風にほぼ毎日名前を書き込んでいても、それを労ってくれる人などいないというのに。


 ため息を漏らしそうになりながらも、その行為に意味が無いことに気づいている身体が無意識にそれを飲み込んで。鍵を渡し、会釈する。


「では。お疲れ様です」


「あっ、ちょっと」


「?」


 そして、その場を去ろうとしたのだが。


 呼び止められ、足が止まる。


 ーーーーそれは、初めての出来事だった。


 表への記入はもう何十、何百回と繰り返しているから今更間違えるはずもないし、鍵もちゃんと手渡したはず。何か不備があるとは思えない。


 不思議に思いながら、無機質に応える。


「なにか?」


「……いや。ごめんね。やっぱり大丈夫」


「? そう、ですか」


 なんだったというのか。


 明らかに何か……言いたげにしていたけれど。


 しかしまあ、本人が大丈夫と言ったのだからそうなのだろう。気にならないわけではないが、かといってわざわざ聞き返すほどじゃない。


「では、失礼します」


 それにせっかく集団に間に合いそうだというのに。こんなところで変に時間を食ってしまっても面倒だ。


 もう一度会釈し、踵を返す。


 そんな私の背中を、用務員さんは未だ何か言いたそうに見つめていたけれど。


 私がそれに気づくことは、無かった。


 ◇◆◇◆


 街頭に照らされたオフィス街の夜道を進むこと五分。最寄駅から改札を潜った私は、終電に乗り込んだ。


 電車内は空いており、簡単に腰を下ろすことができた。


 私の他には、おそらく居酒屋にでも行っていたのであろう騒がしい酔っ払いの学生(知り合いではないのであくまで目算だが)が三人と、あとは私のようにくたびれているスーツ姿のおじさんがそれぞれ離れた位置に一人ずつ。


 ……まあなんとも、終電らしい光景だった。


 そこからスマホで軽くネットニュースなんかを眺めながら車内で揺られていると、やがて。各駅停車で五駅停まったところで家の最寄りに着き、重い腰を上げる。


 私が住んでいるのは、駅から徒歩十分のワンルームマンションだ。


 家賃は三万五千円。築年数や内装の綺麗さから考えるとかなり破格で、一人暮らしする物件を探していた私はすぐに飛びついた。


 とはいえ、やはりワンルームというのは生活に困ることはないものの、少し手狭だ。だからある程度働いてお金が貯まってきたら引っ越そう……とか。そんなことを考えていた時期もあったなぁ。


 しかし現実は、社会人生活を三年続けても引っ越しなどすることはなく。おそらくこれからも、そんなことを考える暇すら無く″壊れる″まで働き詰めるのだと思う。


「……あ。コンビニ寄らなきゃ」


 自分で言っていてどこか悲しくなりながら。コンビニに寄り、切れかけていた日用品と飲み物、それから夜ご飯を購入して。手狭ながらももはや愛着の沸きつつある自宅に向け、見慣れた道を歩く。


 帰ったらたまにはゆっくりと湯船に浸かって、それから少し奮発したこの夜ご飯で胃を潤そう。始発には電車に乗らなきゃならないし、その分の睡眠時間も考えればゆっくり出来るのはせいぜい二時間程度だけれど。


 それでもいい。今の私には、そのたった二時間ですら貴重な癒しなのだから。


「やっと……一人になれる」


 家に帰れば、怒鳴り散らしてくるクソ上司はいない。


 文字通り、一人きりの時間。誰の目も気にすることなく羽を伸ばせる、唯一の時間。


 それが目の前に待っていると思うと、ほんの少しだけ。身体が軽くなったような気がした。


 ーーーーだというのに。


「…………えっ?」


 エントランスのオートロックを鍵で解除し、階段で上がった先の「201」号室。


 私以外誰も住んでいないはずの、家具が義務的に並べられたかのような無機質な空間が広がるワンルームにーーーー彼女は居た。


「初めまして、沢良宜美穂さん。あなたを救いに来ました」


 この日を境に、私の積み上げてきたつまらない日々は、音を立てて崩れ始める。


「………………誰?」


 突如訪れたこの日がーーーーこの出会いこそが。



 私の人生の、転換期であることを。この時はまだ……知る由もない。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?