和哉は真っ暗な闇の中、落ちていた。
いや、正確にはブラックホールのような
ただただ、時間感覚すらも失せるような黒の世界を、意識だけが漂っている――そんな感覚だった。
ふと見れば、黒一色の中に小さな点のような光が浮かび上がっているのに和哉は気が付いた。
小さな光は見る間にどんどん膨れ上がっていき、光量も増して行くが――途中、和哉は光の中に誰かの後ろ姿を見た気がした。
光の窓からポツンと見えるその背中が妙に寂しそうで、悲しそうで、思わず声をかけようとする和哉だったが、そうしている間にも眩いほどの強い光に包まれてゆき……。
「ん……」
気がつけば和哉は地面に横たわっていた。
ぼんやりと鮮明になってくる目に飛び込んできたのは、広い大地だった。
(――へ?なにこれ?)
慌てて起き上がり周囲を見回すも、辺り一面広がるのは見渡す限りの荒野で、遥か向こうに岩山のようなものが
上を見上げれば、雲一つない青空と輝く太陽、そして遥か上空を飛んでいく鳥(?)の小さな影が見える。
まるでサバンナのど真ん中のような、どう見ても日本とは思えない景色に和哉の頭は混乱するばかりだった。
「え?え?ええええ?――なんで!?ってかココどこっ!?」
しかも、携帯も財布も何も持っていない上に、身に付けている服は弓道の道着である
(えっと……確か、道場で練習中に猫を助けようとして……それから……???わからん!どうしてこうなった!?もしかしてあれか?ドッキリ?ドッキリなのか!?)
必死に考えを巡らせる和哉だったが、答えは出ない。
だが、このままここで座り込んでいても何も変わらないのは確かだ――和哉は立ち上がると、取り敢えず足を一歩前に踏み出した。
****
****
(うう~……なにが、どうなってるんだよ……?)
和哉は混乱する頭を抱えながら、荒野を
あたりを見渡しても、ただただ荒れて乾いた大地が目の前に広がるだけだ。
どのくらい歩いただろうか?
右も左も分からない――土と砂ぼこりが舞い、ゴツゴツとした岩が点在しているだけの荒野を和哉はただあてもなく歩き続けていた。
ここに来るまでに二体ほど得体の知れない生物を遠目に見かけたが、和哉はそれを逃げるように避けてきた。
こんな無防備な状態で野生の動物に襲われでもしたらひとたまりもないことは容易に想像がついたからだ。
「お腹すいたなぁ……喉も乾いたし……」
夢でも見ているのだと思いたかったが、この空腹感と口の渇き、それと全身を襲う疲労感はまぎれもなく現実のものだった。
(とにかくこの荒野から抜け出さないと。食料も水もないのに、こんな所で野宿なんて自殺行為だ)
そんなことを考えながら空を見上げた和哉は、太陽が傾き始めていることに気付き焦った。
夜になったらどんな危険が待ち受けているか分からないからだ。
どこか安全そうな場所を探すも、残念ながら近くには何も見当たらない。
焦る気持ちとは裏腹に時間だけはどんどんと過ぎていき、景色が茜色に染まり始めた頃、とうとう和哉は足を止めてしまった。
(ダメだ、もう歩けない)
「つ、疲れたぁ……」
全身に走る疲労感も相まって和哉の心はすっかり折れてしまい、近くの大きな岩にもたれ掛かるようにへなへなと地面に座り込む。
「いったい……何なんだよぉ……」
思わず誰ともなく独り言ちる言葉も虚しく、ただ乾いた風が吹き抜けていくだけで返事などもちろん返ってくる筈もなかった。
(もしかして僕、こんなトコで死んじゃうのか?)
半分諦めにも似た気持ちのまま、ぼんやりと遠く地平線の向こうに沈もうとしていく太陽を眺めていた時だった――和哉の耳に遠くから何かが駆けてくるような地響きが聞こえてきた。
(――!?)
一気に緊張が走り身構える。
和哉はすぐに立ち上がると、岩の陰から音のするほうをそっと覗き様子を窺った。
遠目に見えるあれは……。
(馬だ!)
しかもその馬に乗っている人影らしき者が見える――それは、誰かが黒い馬に
徐々に近づいてくるその人物は、ストールを頭部全体に巻き付けていて目の部分だけを露出させる、
ただ、どうやら男性のようだということは分かる。
(た、助かったかもしれない!)
和哉の中に僅かな希望が芽生えた。
疲労と空腹で限界の和哉には“もし彼が悪い人物だったら……”などと疑う余裕も無かった。
「ヒヒヒ~ン!!」
いきなり現れた人影に驚いたのか、駆けていた馬は
乗っていた男は振り落とされまいと必死に手綱を握りしめ、馬を落ち着かせる。
なんとか馬を鎮めた男はフウと息を吐くと、巻き付けた布の間から鋭い目で和哉を睨みつけた。
「バカ野郎! 死にてぇのか!」
開口一番、いきなりの怒鳴り声に、和哉はビクリと身を
(こ、怖い……!)
しかし、和哉としてもここで怯んではいられなかった――なにしろ自分がこの世界に来て初めて出会った〝人間〟なのだ。
「あ、あのっ!」
「あ゛ぁ?」
怖気づく気持ちをねじ伏せながら思い切って声をかける和哉に対して、男は機嫌の悪さを隠そうともしない声色で返す。
凄みのある声の迫力に和哉は一瞬怯むが、それでもなんとか言葉を続けた。
「た、助けてください!僕……気が付いたらこんな所で倒れてて……」
必死に訴える和哉だが、男は黙って睨み返すだけだった。
(ダメだ……この人、話が通じないのかも?)
男の反応の無さにガッカリする和哉だったが、諦めるのはまだ早かったようだ。
男の目に戸惑いの色が浮かんだのだ。
「なんだ、コイツ……?」
和哉の必死の訴えにただ事ではないと感じたのか、男はボソリと呟くと馬から下りて、警戒するような眼差しのまま腰に携えた剣に手を添え、ゆっくりとした足取りで和哉に近寄る。
男の
身長は和哉より高く、おそらく190㎝近くはあるだろう。
鍛え抜いた、引き締まった筋肉をしていることが服の上からでも見て分かる。
ストールを巻いているので人相までは分からないが、カーキ色の布の間からは金色がかった琥珀色の瞳が鋭く光って見えた。
布の下から覗く髪の色は銀色だ。
黒いアンダーシャツの上に金糸で縁取りされた藍色っぽいスタンドカラーのロングジャケットをラフに着こなし、その上にマントを羽織っていて、下は黒いズボンに膝までのブーツを履いていた。
(あれ? この恰好、どこかで……?)
和哉は男の姿を見て既視感を覚える。
初めて会った人のはずだが、どこかで見たような記憶があるのだ。
銀髪の男は和哉の目の前まで来ると、見下ろすようにして険しい視線のまま口を開いた。
「おい、お前」
「は、はいっ!!」
男の高圧的な声かけに、緊張のあまり裏返った声で応える和哉に対し、男は不審そうな声色で問いを投げかける。
「こんな所で何をしている」
(――そ、そんなの僕のほうが知りたいよ!)
男の問いに和哉はどう答えてよいのか分からなかった――そもそも、ここがどこなのか、すら分からないのだ。
とりあえず正直に答えるしかなかった。
「あの……分かりません」
「はぁ!?分からないだと?」
一瞬驚いたように目を見開いた男だが、すぐにストールの間から覗く眉間に皺をよせ、更に険しい表情になる。
「なに言ってんだお前!?んなわけねぇだろ!どうやってここまで来たんだ?しかもそんな恰好で……ここがどんなとこか分かってんのか?」
「ほ、本当にぜんぜん分からないんです!気が付いたらここにいて……」
立て続けに繰り出される問答に和哉は混乱しつつも必死に訴えた。
そんな和哉の態度を見た男は、少し考えるように腕を組み、そして何かを思いついたかのようにハッとした表情を浮かべた。
「まさか……お前、記憶がないとか、か?自分の名前は覚えてんのか?」
その問いかけを受け、和哉は即答することができなかった。
全く記憶がないわけではない。
ただ、なぜこの状況に至ったかを話すことができないのだ。
ならば、とりあえずここは男が言ったように”記憶喪失”ということにしたほうが都合が良いかもしれない――そう考えた和哉は、聞かれた名前だけを告げることにした。
「名前は……覚えています、僕は
「イチジョウカズヤ?変わった名前だな……」
銀髪の男は再び
「……俺はギルランス・レイフォードだ」
「えっ!?」
男の名前を聞き、和哉は自分の耳を疑った。
(今、この人、ギルランス・レイフォードって言った?この名前って……しかもこの恰好……もしかして?いや、まさか……)
その名前に心当たりがあり過ぎて、つい、まじまじと目の前の銀髪の男を見つめてしまう。
すると、和哉の
「――あ゛?なにじろじろ見てんだよ?」
(こ、怖っ……)
「い、いえ、あの……」
ギルランスの眼光に怖気づいた和哉がもじもじと言い
「てめぇ!さっきから何なんだよ!?言いたいこがとあるならはっきり言いやがれ!」
「は、はいっ!!すみませんが、お顔を見せてもらってもいいですか!?」
咄嗟に出た言葉だった――だが、実際和哉が彼の顔を見たいと思っていたのは事実だ。
「――はあ??」
予想もしない言葉だったのか、ギルランスは一瞬何を言われたのか分からなかったようだ。
しかしすぐに気付いたように布に覆われた自分の顔に指を指す。
「あぁ、これか?」
「そうです!!」
コクコクと頷く和哉の顔をギルランスは
「チッ、なんでそんな事しなくちゃなんねぇんだよ」
舌打ちをして文句を言いながらも、布を解くギルランスを和哉は固唾を呑んでその様子を見守っていたが、やがて布を取り去った下から現れたのは――。
(――やっぱり!)
ギルランスの顔を見て和哉は思わず息を呑んだ。
そこには想像していた通りの人物の顔があったからだ。
輝く銀糸のような髪に琥珀色の瞳、そして、前髪の間から覗く額の傷跡……それは和哉が大好きな小説『ダブルソード』の登場人物であり、主人公その人だった。
(は?う、うそだろ……こ、この人、あの『ダブルソード』のギルランスじゃないか!なんで?どうして?ここはいったいどこなんだ!?まさかコスプレか?――ってか、カッコよ!)
思わず目を奪われるほど整った容貌に、眉上から右耳の方にかけて斜めに入った痕を持つギルランスの姿を前に、和哉の思考は驚きを超え、もはやプチパニック状態だ。
目を見開いたままパクパクと口を開閉させているだけの和哉に、ギルランスは不審そうに眉を
「俺の顔が何だってんだよ?」
訝し
「あっいや、いえいえいえ! 何でもありません! お顔を見せていただき、ありがとうございます! 嬉しいです!!」
「はあぁ!?」
和哉を見るギルランスの目が、ますます不審なものを見るような目つきになっていく。
無理もないだろう、いきなり現れて「顔を見せろ」やら「顔が見れて嬉しい」などと言う男など不審者以外の何者でもない。
(まずいな……何か言わなきゃ怪しまれちゃうよ)
焦る和哉はテンパったまま、なんとかフォローしようと試みるも――。
「あ、あの、お顔がとても素敵だったので、つい
(――って、何言ってんだよ、僕は!?)
慌てて、取り繕うように口にした自分の言葉に和哉は冷や汗をかいた。
(最悪だ! なんてことを言ってるんだ!)
しかし時すでに遅し。
ギルランスは一瞬驚いたように目を見開いた後、和哉から目を逸らし、困惑したように頭をガシガシと掻きながら呟く。
「お前……ホントに大丈夫か?」
(ああぁぁ、もう完全に不審者だと思われている……)
「す、すみません! ちょっと僕、おかしいかも、です……ハハ」
(だって『ダブルソード』のキャラと実際に会うなんてビックリするに決まってるだろ!?コスプレにしては完璧過ぎるし、もうワケが分かんないじゃん!)
とにかく今のこの状況をなんとかしなくてはと、和哉は愛想笑いで誤魔化すが、ギルランスは不審そうな表情を崩すことはなかった。
「まぁ、いい……それで?」
ギルランスの促しに、和哉はハタと自分の置かれた状況を思い出し、慌てる。
「あ、あの! 僕、気が付いたらここに倒れてて!もう、何がなんだか……助けてくださ……い……」
この状況から脱したい一心でギルランスに助けを求めるが、そう言っている間にも和哉の視界は急激に暗く狭まっていった。
(あ、あれ……?)
「――なっ!?お、おい!」
慌てるようなギルランスの声が遠のいて行く中、自分の身に何が起こったのか理解できぬまま、和哉の意識はそこでプツリと途切れてしまった――。