「皆さん、こんばんは!今夜もMikaチャンネルをご視聴いただき、ありがとうございます」
スマートフォンの画面に向かって、桜井美香は慣れ親しんだ笑顔を向けた。画面の右上に表示される視聴者数は、既に三千人を超えている。コメント欄には「Mikaちゃん、今日も可愛い!」「今回はどこ行くの?」といった文字が次々と流れていく。
「今夜は皆さんからリクエストの多かった、あの場所に行きたいと思います」
美香は振り返り、背後に聳え立つ巨大な建物を映した。月明かりに照らされた廃病院は、まるで巨大な墓石のように不気味な影を落としている。
「そう、聖十字架医科大学病院の廃墟です!」
コメント欄が一気に盛り上がった。
「うわあああ、マジで行くの?」
「Mikaちゃん、気をつけて!」
「俺も昔行ったことあるけど、マジでヤバい」
「期待してます!」
視聴者数が四千人を突破した。美香の心臓が興奮で高鳴る。
「この病院、十年前に医療事故で閉鎖されたんですよね。それ以来、色々な噂が絶えなくて」
美香はスマートフォンを自分に向け直し、ウインクした。
「でも、美香は怖くないもん。皆がいるから、きっと大丈夫!」
実際のところ、美香は相当怖かった。しかし、最近視聴者数が伸び悩んでいる。もっと過激な企画をしなければ、他の配信者に置いていかれてしまう。
「それじゃあ、中に入ってみましょうか」
病院の正面玄関は、金属製の板で封鎖されていた。しかし、美香は事前に調べておいた裏口から侵入した。扉は朽ち果てており、軽く押すだけで開いた。
「うわあ、めっちゃ臭い」
美香は鼻を押さえながら、スマートフォンのライトで足元を照らした。床には落ち葉や埃が積もり、所々で配管から滴る水音が不気味に響いている。
「皆さん、見てください。これが廃病院の内部です」
画面越しに映る光景に、コメント欄はざわめいた。
「雰囲気やばすぎ」
「もう帰ろうよ」
「これは本物の心霊スポットだわ」
視聴者数が五千人を突破した。美香の顔に、思わず笑みが漏れる。
「あ、あそこに受付があります。行ってみましょう」
美香は慎重に足を進めた。受付カウンターには、色褪せた案内板や古い雑誌が散乱している。その奥には、診察室へと続く廊下が口を開けていた。
「怖いけど、奥に行ってみます。皆さんも一緒に来てくださいね」
廊下を進むにつれて、空気はより重く、より冷たくなっていった。美香の息が白く見えるほどだった。
「寒い…。でも、これも心霊現象かもしれませんね」
その時、コメント欄に奇妙な文字が現れた。
「もう遅い」
美香は気づかなかった。他のコメントに紛れて、その文字はすぐに流れ去っていった。
三階の病室エリアに辿り着いた頃、視聴者数は六千人を超えていた。美香はこれまでで最高の数字に心躍らせながら、病室の扉を一つずつ開けていった。
「この部屋、ベッドがまだあります。患者さんが使っていたのかな」
錆びついたベッドフレームに、朽ち果てた医療機器。窓から差し込む月光が、それらを不気味に照らし出している。
「あ、あそこに何かあります」
美香は部屋の隅に置かれた金属製のキャビネットを見つけた。引き出しを開けると、中から古いカルテが出てきた。
「医療記録みたいです。えーっと…」
美香は懐中電灯でカルテを照らし、その内容を読み上げようとした。しかし、患者の名前を見た瞬間、彼女の顔が青ざめた。
「さくらい…みか…?」
同じ名前、同じ生年月日。しかし、入院日は今から三年前となっている。
「な、何これ…冗談でしょ?」
美香は震える手でページをめくった。そこには詳細な医療記録が続いていたが、最後のページに書かれた死因欄に、美香は絶句した。
「死因:配信中の事故死」
「そんな、ありえない…」
コメント欄が急速に動き始めた。
「Mikaちゃん、どうしたの?」
「顔色悪いよ」
「もう遅い」
「何か見つけた?」
「もう遅い」
「Mikaちゃん、答えて」
「もう遅い」
「もう遅い」
「もう遅い」
「もう遅い」というコメントが、まるで呪文のように画面を埋め尽くしていく。美香は慌ててスマートフォンの画面を見た。
「な、何なのこれ…」
美香は配信を終了しようと、停止ボタンを押した。しかし、ボタンは反応しない。何度押しても、配信は続いている。
「止まらない…どうして?」
視聴者数は七千人を超えていた。コメント欄は「もう遅い」で完全に埋め尽くされている。
「皆さん、ちょっと配信の調子が悪いみたいで…」
美香は震え声で話しかけたが、コメントは変わらない。「もう遅い」「もう遅い」「もう遅い」
その時、別のコメントが現れた。
「Mika、後ろを見て」
美香は慌てて振り返った。しかし、そこには何もない。ただ、窓から差し込む月光が、床に美香の影を映し出しているだけだった。
「誰もいない…」
再びコメント欄を見ると、今度は新しいメッセージが流れていた。
「Mika、スマホの画面を見て」
美香は恐る恐るスマートフォンの画面を覗き込んだ。そこには、いつものように自分の顔が映っている。しかし、何かが違った。
画面の中の自分は、既に死んでいるような表情をしていた。
目は虚ろで、口は半開きになり、顔色は蝋のように白い。まるで死体のような顔が、スマートフォンの画面に映っていた。
「そんな…これは私じゃない…」
美香は手で自分の顔を触った。温かい。生きている。しかし、画面の中の自分は、確実に死んでいた。
コメント欄に新しいメッセージが現れた。
「Mika、もう分かったでしょ?」
視聴者数が八千人を突破した。
「これは夢よ。きっと夢に違いない」
美香は自分に言い聞かせながら、病室から出ようとした。しかし、扉は開かない。ハンドルを何度回しても、扉はびくともしなかった。
「開かない…出られない…」
コメント欄に、また新しいメッセージが現れた。
「Mika、真実を教えてあげる」
美香は震えながら画面を見つめた。
「あなたは三年前、ここで配信中に事故死した」
「そんなの嘘よ!私は生きてる!」
「でも、あなたは気づいていた。最近、鏡に映る自分の顔が変だということを」
美香は息を呑んだ。確かに、ここ数ヶ月、鏡に映る自分の顔に違和感を覚えていた。でも、それは照明のせいだと思っていた。
「友達が連絡を取ってくれなくなったことも」
「それは…みんな忙しいから…」
「家族からの電話が途絶えたことも」
美香の心臓が凍りついた。そういえば、母親から最後に電話があったのは、いつだったろう。
「あなたは三年前から、ずっと一人でここにいる」
「嘘よ!私には視聴者がいる!こんなにたくさんの人が見てくれてる!」
美香は必死にスマートフォンを振った。しかし、画面の視聴者数は変わらず八千人を示している。
「その視聴者も、全部あなたの想像よ」
コメント欄を見ると、「もう遅い」以外のコメントがすべて消えていた。
「Mika、現実を受け入れて」
美香は膝から崩れ落ちた。スマートフォンは床に落ち、画面にヒビが入った。しかし、配信は続いている。
割れた画面の中で、死んだ自分の顔が微笑みかけていた。
「分かった…分かったわ…」
美香は涙を流しながら、割れたスマートフォンを拾い上げた。
「私は…死んでる…」
その瞬間、病室の扉が静かに開いた。廊下から温かい光が差し込んできた。
「でも、私にはまだやることがある」
美香は立ち上がり、スマートフォンを胸に抱いた。
「最後の配信を…」
画面の中の自分は、もう死んだ顔をしていなかった。いつもの、視聴者に愛された美香の顔に戻っていた。
「皆さん、長い間ありがとうございました」
美香は画面に向かって、最後の笑顔を向けた。
「Mikaチャンネルは…これで終わりです」
視聴者数が零になった。コメント欄も空白になった。
美香は静かに目を閉じた。
翌朝、病院の跡地で一台のスマートフォンが発見された。画面は割れていたが、なぜか電源は入ったままだった。
発見者がスマートフォンを調べると、配信アプリが起動していた。しかし、チャンネルは存在しない。視聴者数は零。コメント欄も空白。
ただ、タイトル欄にだけ、小さく文字が残っていた。
「Mikaチャンネル - ラスト配信」
そして、その下に、震えるような文字で最後のメッセージが書かれていた。
「もう遅い」