三井雅人が帰ってきた。
彼の秘密の愛人である小松美穂は、真っ先に嵯峨野の別邸へ呼び寄せられた。
契約書の定め通り、彼に会う前には香水も化粧品の匂いも一切排除し、全身を清める必要がある。
彼女は三井のルールを厳守し、洗い清めた肌にひんやりとしたシルクのネグリジェをまとうと、二階の寝室へ向かった。
デスクで仕事中の男が物音に気づき、冷たい視線を一瞥させた。
「来い」
感情を排したその声は、小松の胸に重くのしかかる。
彼は常に冷たく、気分が読めない。三井の不機嫌を恐れる小松は、ためらわずに駆け寄った。
足を止める間もなく、三井は彼女を腕に引き寄せた。細長い指が小松の顎を掴む。
俯いた男の唇が覆いかぶさり、歯を強引に押し開けて彼女の息を貪るように奪っていく。
三井は元より言葉少なく、愛撫も前戯もほとんどない。彼女への欲求は常に直截的だ。
上品で禁欲的な風貌とは裏腹に、この事となると粗暴極まりない。
三ヶ月の海外出張で渇いた欲望は、今夜やすやすと彼女を解放しないだろう。
案の定、三井の手はいつにも増して苛烈だった。
ソファでもベッドでも、腰をがっしりと掴まれ繰り返し求められる。
小松が意識を失うまで、男はようやく満足したように動きを止めた。
目覚めた時、隣は空っぽだった。ただ浴室からシャワーの音がしていた。
すりガラスの向こうに、細長い人影が揺れている。
小松は驚いた。彼は通常終われば即座に去り、彼女の目覚めを待たない。今日はなぜ?
だるい体を起こし、おとなしく彼の出てくるのを待つ。
やがて水音が止み、バスタオルを巻いた男が現れた。
髪から滴った水が、蜜色に輝く引き締まった筋肉を伝い、くっきりと割れた腹筋の谷間に吸い込まれていく。危険なほどの色気を漂わせて。
彫刻のような切れ長の目は深い桃花眼だが、そこに宿るのは底知れぬ冷たさだった。
神がかった美貌を持ちながら、全身から放たれる寒気が人を寄せ付けない。
三井は小松が起きているのを見ると、氷のような瞳で一瞥した。
「今後は来なくていい」
小松は呆然とした。来なくていい?
三井は視線をそらすと、書類を手渡した。「契約を繰り上げ終了する」
愛人契約書。小松は悟った——関係を断つつもりだ。
待っていたのは未練ではなく、別れのためだった。
五年の関係。いつかは来ると覚悟はしていたが、この突然に。
理由も説明もなく、冷たい通告だけが突きつけられる。
心臓を締めつける痛みを押し殺し、服を着始めた三井を見上げた。
「あと半年で満期なのに……待ってくれませんか?」
余命三ヶ月と宣告された彼女は、最後まで傍にいたかった。
三井は答えず、ただ見下ろす。目には一片の未練もなく、飽きた品物を処分するような冷たさ。
その沈黙が小松に悟らせた。
五年の歳月も、彼の心を温めることはできなかった。そろそろ夢を覚ます時だ。
契約書を受け取り、軽やかな笑みを浮かべた。「真面目にしないで、冗談よ」
続けて言い足した。「実はずっと前から嫌になってたの。契約切れるなら願ったり叶ったり」
三井が袖口を直す指が微かに止まった。冷たい視線で小松を探る。
彼女の顔には悲しみの影もなく、むしろ解放されたような明るささえある。
濃い眉をひそめ、低い声で問いただした。「もう前から?」
小松は気軽にうなずく。「ええ、そろそろ結婚して子供を産まないと。籍のない関係にいつまでも縛られてられないでしょ?」
結婚と出産——彼女には叶わぬ夢だが、三井の前では潔く去らねば。
「契約が終わったんだから、次に彼氏を作ってもいいわよね?」
三井の目に一瞬の動揺が走ったかと思うと、ベッドサイドのパテックフィリップを手に取って背を向けた。
「好きにしろ」
それが彼の最後の言葉だった。
後ろ姿が見えなくなるまで、小松の笑みは徐々に消えていった。
自分の物に触れることを最も嫌う三井が、新しい男の話に無反応だ。
どうやら——
本当に飽きたらしい。
三井が去ると、秘書の佐藤太一が薬を持って入ってきた。
「小松さん、お召し上がりください」
避妊薬だ。愛さない者に子を産ませるわけがない。
三井は必ず佐藤に監視させて、確実に飲ませる。
白い錠剤を見つめ、小松の心臓が再び軋んだ。衰弱した臓器か、それとも最後の冷酷さに傷ついたのか、息もできない痛みだ。
「小松さん……」
ためらう彼女に、佐藤が急かすように声をかけた。
小松は静かに錠剤を受け取り、水なしで飲み込んだ。
佐藤は安堵すると、登記済権利証と小切手を差し出した。
「三井様からのお見舞いです。不動産と車に加え、五千万円。どうぞお納めください」