横浜市――
激しい雨の夜。
佐藤美咲は夫・佐藤健一に電話をかけた。
呼び出し音は鳴ったが、応答はない。
腕の中では高熱で意識が朦朧とする娘が、か細くつぶやく。
「 パパ……パパ……会いたい……」
美咲は娘を抱きかかえ、足早に階下へ向かう。そして女執事の松本に声をかけた。
「松本さん、すぐに病院へ行きます」
「ご主人をお待ちしましょうか?」
松本が戸惑いながら尋ねる。
「いいえ、必要ありません」
今夜は、彼にとって大切な人の誕生日だ。
帰ってくるはずがない。
美咲の心は、窓の外の雨よりも冷たかった。
腕の中で娘の頬は真っ赤に熱を持ち、苦しげな呻き声が漏れる。
その父親は、今頃別の女性の誕生日を祝っている。
車は病院へとスピードを上げる。土砂降りの雨の中、美咲は不安に駆られ、アクセルを強く踏み込む。
不意に一台の車が無理やり追い越そうとし、美咲はハザードランプで警告するが、相手はそのまま突っ込んできた。
咄嗟にハンドルを切ると、車の前部がガードレールに激しくぶつかった。
後部座席の松本は娘をしっかり抱きしめ、悲鳴を上げる。
美咲はブレーキを踏み続け、車体はガードレールに当たったが、幸い大きな損傷はなかった。
しかし、美咲はこの瞬間、限界に達し、堪えていた涙が一気にあふれ出した。
長年の我慢が、ついに溢れ出す――
前方でハンドルに突っ伏して泣き崩れる美咲の姿を見て、松本は心配そうに声をかける。
「奥さま、しっかりしてください!早く病院に行かないと。栞奈ちゃん、ますます熱くなってます!」
美咲は我に返り、バックギアを入れて再び病院へと向かった。
病院に着くと、美咲は娘を抱えて受付へ駆け込んだ。
娘は意識が朦朧としながらも、採血のために指先を刺されると、本能的に抵抗し泣き叫ぶ。
美咲は娘の小さな手を押さえ、その叫び声に胸を切り裂かれる思いだった。
診断はウイルス感染、それも複数。
「少なくとも七種類のウイルスが同時に暴れています。肺のCTでは重度の感染が見られます。」
「すぐに肺洗浄の手術をお勧めします」
医師は真剣な口調だ。
松本は驚愕し、思わず口にする。
「そんな……こんな小さな子に手術なんて……」
美咲は医師の手からCT画像を受け取り、じっと見つめた。医師が驚いたように聞く。
「奥さま、医療の知識がおありなんですか?」
美咲はうなずき、きっぱり告げる。
「娘の熱が下がったら、すぐ手術をお願いします」
松本が小声で尋ねる。
「奥さま……このこと、ご主人にご相談なさいますか?」
美咲は娘の熱い額をそっと撫でながら、力強く言い切った。
「いいえ、必要ありません」
この瞬間、何かを決意したようだった――
*
三日後。
美咲は手術を終えたばかりの娘のベッドのそばで過ごしていた。
青白い顔で眠る娘を見つめていると、スマートフォンがメッセージの着信音を鳴らす。
「何か用か?」
たったそれだけ。冷たい距離が感じられる短い文面。
美咲は返信せずにスマートフォンを置いた。
給湯室で松本の携帯が鳴り、慌てて出る。
「何かあったのか?」
松本は一瞬言葉に詰まる。
「い、いえ、何もありません。ご主人、今日本にいらっしゃるんですか?」
「ああ」
「わかりました。お仕事頑張ってください。家のことは大丈夫ですので、ご心配なく」
電話を切った後、松本は思わずつぶやいた。
なぜ奥さまは、ご主人にこの数日のことを伝えたがらないのだろう。
ご主人は国内にいるのに――
美咲は、娘の小さな手を握りしめ、真っ赤に腫れた目を閉じるが、眠気は訪れない。
ふいに、娘がうなされるように手を振り回しながらつぶやく。
「パパ……夢乃さん……こわいよ……」
美咲はすぐに娘の手を握った。
「ママがいるよ」
栞奈は目を覚まし、美咲を見ると顔を背けて拗ねた声で言った。
「ママ、嫌。夢乃さん、いい……」
美咲は涙をこらえ、そっと娘の背中をなでて再び眠らせた。
七日目、美咲は娘を抱いて退院し、帰宅する。
限界まで疲れ切っていた。
松本に娘の世話を頼み、階段を上がって一時間だけ眠ろうとした。
目が覚めて階下に降りると、松本が困ったような顔で言う。
「奥さま、起きられたんですね……先ほどご主人が帰ってこられて、栞奈ちゃんを連れて夕食に出かけました」
美咲は喉の奥が詰まり、無言のまま振り返って部屋へ戻った。
階下で松本はため息をつく。
夫がいるのに、奥さまはなぜこんなに苦しそうなのだろう――
美咲は携帯を手に取り、健一に電話をかけた。
つながった。電話口からは、楽しそうな女性の声が聞こえてきた。
「健一さんは栞奈ちゃんとお手洗いに行っています。ご用件ですか?」
美咲は息が詰まり、唇を噛みしめて電話を切った。
目を閉じる。
父の反対を押し切り、学業まで捨てて選んだ結婚だった。
結局、全てを失う結果になった。
結婚の日、父はそっと問いかけた。
「本当に後悔しないか?」
幸せそうに笑って答えた。
「大丈夫だよ、お父さん。私は絶対に後悔しない」
*
そう言って、学業を諦め、結婚生活に飛び込んだ――
二年前、美咲は娘が夫の部屋で、彼の初恋の相手・白川夢乃と親子のように親しげに電話しているのを目撃した。
その夜、娘を連れて病院へ急ぐ車の中で、美咲はついに気づいた。
この結婚は、もう後悔しかない。
終わりにしよう。愛されない相手とどれだけ努力しても、心はすり減るだけだ。
これからの人生は、自分自身のために使う。
再びスマートフォンが鳴り、メールの着信を告げる。
美咲は三階の書斎に入り、パソコンを立ち上げてメールを開く。
送り主は、世界有数の医科大学の研究部だった。
美咲はそっと目を閉じ、静かに呟く。
「お父さん……あなたの言う通りだった。道を残してくれて、ありがとう。」
脳裏には、父が亡くなる前に遺した言葉が響く。
「私の娘が無駄になるはずがない。結婚しても、学びをやめるな。私の誇りになれ。」
美咲は誰にも知られず、父の用意してくれた道を歩み続けていた――