軍法会議の朝が来た。
出廷した昼斗は、無表情で床を見ていた。もう長らく、表情筋を動かした記憶がない。周囲の印象も、昼斗は無口で無表情というものである。
黒い髪と目をしている昼斗は、日本人らしい日本人だ。既に人類が人として住める権利があるという意味において大地の国境線は意味をなさなくなり、古びた地図に引かれているラインと、世界の情勢は著しく変わっているが、その中にあってまだ独立国を保っている日本、そこに古くから暮らす人々の色彩と、昼斗の鴉の濡れ羽色の黒は同一だという事だ。ここ数日の間にも、国境線は塗り替わっている。それは、Hoopの侵攻により陥落した国家がまた一つ増えたというような話だ。亡命政府の樹立も間に合わない頻度で、人類の居住可能地は、脅かされている。
「粕谷昼斗大佐」
昔は一佐と言ったらしいが、地球防衛軍に編入されて以後、昼斗はより古い時代に使われていたらしい〝大佐〟という階級まで昇格していた。だが元々が軍人ではないから、階級にはピンとこない。
「旧東京湾の人工島――第二首都・
人工島は、Hoopが水中にはいないと考えられていた時代に、一気に建築された人工的な陸地である。国内であれば、旧佐渡湾と旧東京湾に建設されていた。旧東京都には、Hoopが幾度か落下したため、その土地の多くの者や企業は、深東京市という名の人工島に居を移していた。
しかし二ヶ月前、その深東京市と旧関東圏を結ぶ水中トンネルが食い破られ、地上トンネルは破壊され、人工島は一時間も経たない内に、Hoopの群れに飲み込まれた。放置しておけば、通じている部分から、日本本土への侵攻を許す事になる。しかし往来通路を全て封鎖すれば、人工島にいる一千万人もの居住者及び勤務者は、死ぬ以外の道が無い。Hoopが巣食う場所に、避難誘導は困難だ。
昼斗はその日、人型戦略機のコクピットの中で、両手の指を組んでいた。
すると、北関東基地の指令室から通信が入った。
『粕谷大佐』
「はい」
『貴方はどうすべきだと思いますか?』
「避難誘導後、その……切り離して沈没の処理を」
『それは、どの程度の時間ですか?』
「可能な限りの――」
『私の下した決断とは異なるようで同じでしょう。私もそう考えていますが、〝避難誘導可能時間はゼロ〟だと判断しています。つまり、現時点をもって、人工島を本土より切り離し措置をし、沈没させ、その上でまだ動いているHoopがいるのであれば、殲滅して下さい。命令は、以上です』
声の主は、北関東基地の総司令官である、
昼斗は、避難を提案しようとした。それは事実だ。だが、迷わず命令を実行した。
嫌いな海に、大嫌いな海に、一つの島を沈めた。
そうすれば、本土がもう少しの間、持つと考えたからだ。トロッコ問題と同じだ。
このようにして、命令ではあったが、昼斗は一千万人が居た人工島を沈没させた。
事後、三月は嗤った。
「私は現場の判断に任せました」
それは、嘘ではないだろう。こうして、殺戮者のレッテルを貼られた昼斗は、本日軍法会議に出廷した。そこに、三月への恨みはない。いつも、似たようなやりとりが、三月とは交わされてきた。こうなるだろうという予測も出来たし、反論する自由だってあったが、ただ、昼斗は何もしなかった。
「――降格処分とする。大佐から、大尉への降格とする。また、以後情報将校による監視を徹底する事とする」
軍法会議の結論は、それだった。既に、第二世代や第三世代の人型戦略機があるとはいえど、昼斗を手放すはずがないこの世界は、相変わらず残酷で、けれどただ、法廷の外の紅葉だけは、非常に色づいていて秋らしく、綺麗だった。
そのまま、昼斗は監視者である情報将校と顔合わせをする事になった。別室へと促され、簡素な椅子に座る。処分には不満も何もない。寧ろ、刑事罰を受けた方が気は楽だったかもしれないなと、内心で光莉に話しかけていた昼斗は、ノックの音で顔を上げた。
軋んだ音がして、扉が開く。
「っ」
そこに現れた女性将校の姿を見て、昼斗は目を見開いた。薄茶色の髪と瞳、鮮烈な既視感がある色彩だった。顔の造形自体も、嘗て喪った婚約者によく似ている。胸元の階級章の脇の名札には、〝瑳灘灯莉〟と記されている。呆然としたままで見上げた昼斗は、身長がすらりと伸びた灯莉と、〝再会〟を果たした。
「……二人にしてもらえる?」
灯莉が冷たい声音を放つと、面会室から他の人間が出ていった。ガラス窓を挟む形で、昼斗は座ったままで、対面する場所にいる灯莉を見る。視線を合わせない灯莉の顔は冷酷で、薄茶色の睫毛が縁どるアーモンド型の瞳は、下を向いていた。
――恨まれているのだろう。
昼斗は、そう確信していた。室内の張りつめているような空気も、当然の事のように思える。自分から何か声をかけるべきなのだろうかと考えて、けれど喉がつかえたようになってしまう。だから、昼斗はただ見ていた。
すると灯莉が、ゆっくりと凍てつくような眼差しを昼斗へと向け、そして……不意に薄い唇の両端を、わずかに持ち上げた。瞬間的に室内の空気が和らいだ。
「久しぶりね……
「っ」
「だって、そうだろう? 私達は、義理の兄妹になるはずだったんだし。あ、気を悪くした? すみません。粕谷大佐――……大尉、か。三月司令の命令で守っただけなんでしょう? 三月と私、同期で親しいから、話は聞いているの。三月も気を回して、監視というよりは、折角だから暫くの間、〝粕谷大佐にも休息してほしい〟って話していて、私の事を派遣したのよ。会えてよかった、嬉しい。お元気でした?」
微笑してつらつらと語る灯莉の声は柔らかで、昼斗には、その場に花が舞ったように見えた。自分よりも身長も体格も良くなっているのは明らかだったが、優し気な印象を与える物腰穏やかな灯莉の姿を見て、昼斗は最初に、胸が満ちた。光莉に、見せてあげたいと想った。同時に、光莉に似た優しさが、灯莉から溢れだしているように思えた。
「粕谷大佐?」
「……」
「昼斗さん、って呼んでもいいかな?」
沈黙している昼斗を一瞥し、灯莉が微苦笑しながら述べた。必死で頷くのが精一杯だった昼斗は、それから胸の動悸に気づいた。何故、笑顔が自分に向いているのか、理解が出来ないからだ。何せ、恨まれているはずである。己は、彼女の姉を、殺害したに等しい。
そう思うと同時に、人間の笑顔が自分に向くのを目にするのが久方ぶりすぎて、純粋に反応に困るとも思っていた。もう二ヶ月も、ほとんど誰にも笑顔を向けられなかったから、己の表情筋の動かし方も失念していたが、他者の〝表情〟も分からなくなっていた。距離感が不明瞭になり、掴めない。
「ダメ?」
「あ……い、いいや……好きに呼んでくれ」
「うん。それじゃあ――昼斗? 呼び捨てでもいいかな?」
「あ、ああ」
昼斗より四歳年下の、二十四歳の灯莉は、顎を縦に動かした、嘗て自分が義兄になるはずだった相手の仕草に、非常に満足したように、とても綺麗に笑ってみせた。
「監視、という名目があるからね。今日から、昼斗と私は同じ家に住む事になるの。元々家族になるはずだったんだし、そう変ではないかな」
「……」
「引っ越しの準備をしないとね。今日にでも、荷物をまとめられる?」
急な言葉に、昼斗は目を丸くする。だが、会議の決定や監視者の行動に、異議を申し立てる権利は持ち合わせていない。仮に持っていたとしても、そうする気力もない。そう感じていたはずなのに、〝家族〟という語が胸に突き刺さり、苦しくなった。彼女から大切な姉を奪ったのは、己なのだから。それは変わらない現実だ。
「業者の手配は終わっているのよ。さぁ、行こうか。昼斗義兄さん」
こうして、昼斗にとっての新生活が幕を開ける事となった。