茹だるような夏の夜。祭囃子と赤提灯。
お面をつけた人々が踊る中を過ぎ、男の子に腕を引かれて蛍が舞う田舎道を走る。
『決して、お面を外してはいけないよ』と言った彼は誰だったのか。
ただ、その手の熱さに導かれるようについて行った。
村はずれにまで連れ出されてから、彼は告げた。
『もう、此処に戻って来てはいけない』と。
あの夜、誰に追われていたのかもわからないまま、わらべ歌に背中を押されて、私は山道を駆け降りた。
これは夢? それとも昔の記憶?
◆◆◆
【にんそく げんよき
たばたの べにに
たらくの いどよ
たかみの べにに
たこうの いどに
はがくれ やをつぎ
くものした こちふくかぜは
いとのさき】
これは
「先生、何ですかその歌……。意味、わかるようでわからないですね」
汐里は最終締切が近づいてイラつきつつも完成しそうにない原稿を催促する声を中断して問いかける。寧々は眠たげに答えた。
「ん~? 僕の故郷の村で流行っていた歌だよ。これを歌うと『善いこと』が起こるんだって」
彼の故郷であるH県X市の山奥にある
村で数年に一度、開かれる【
「おみこまつり?」
問い返すと、寧々は答える。
「そう。御神子祭で
どんな願いも?
寧々が言うには、金も美貌も地位も名誉も御神子になれば得られると言う。
伝説の中では死者の蘇生すらも可能だと……。
◆◆◆
「そんなの、行くしかないじゃないですか!」
汐里は愛車のハンドルを切りつつ、目を輝かせる。
助手席には連行した寧々がアイマスクをした状態で優雅に長い足を組んで寝ていた。
信号待ちの合間に寧々をちらりと見た汐里は溜息を漏らす。
(これで寧々先生の執筆意欲が戻ってくれれば良いんだけど……)
作家・弟切 寧々という男は不思議な男だ。
彼を一言で表すなら『変人』だろう。
外見は、光に溶けるような金髪に、透けるような白い肌。そして碧い瞳。
日本人ばなれした美貌の持ち主だが、身だしなみにはまったく頓着しない。
今日も汐里が止めなければ、1週間着続けたジャージで車に乗ろうとしたくらいなのだ。
しかも筆が乗ると寝食どころか入浴も排泄すら忘れてしまう為、担当編集の汐里が様子を見に自宅を訪れなければ、放っておけば、ワンルームで何度か本当に死んでたかもしれない。
気まぐれな性格で、小説の為なら何処にでも行くし何でもするが、小説が関係しないことには一切ノータッチという、正に『書く為に生まれてきた猿』と表現しても良かった。
こんな奇人だが、ベストセラーや重版常連の売れっ子である為、出版社も扱い難さは汐里に丸投げしつつも、囲い込みたいのだろう。
寧々が今書いている和風ホラー小説の舞台にぴったりなのではと思って汐里は彼を口説き落としたのだが……。
(寧々先生にとっては故郷だし、ホラー小説のイメージわくかもですねなんて失礼だったかな……)
そう考えていると、不意に寧々が起き上がった。
「わ! 寧々先生、どうしたんですか?」
「……」
寧々は周囲をキョロキョロと伺うと、目を細めていた。
編集部で『弟切先生は霊感がある』と、もっぱらの噂だったことを思い出す。
少し背筋が寒くなるのを感じながら、彼の言葉を待ってみる。
寧々はシートに背を戻して目を閉じると、ぽつりと告げた。
「しおりん、信号、青だよ」
「あ」
慌てて発進し、今夜の宿を目指す。
そして汐里は、ふぅと溜息を漏らした。
(でも寧々先生、変人だけど作品は最高なんだよね……)
◆◆◆
鈍色の雲が広がり、湿気で空気がベタつくような夜、ようやく汐里と寧々は今夜の宿に到着した。
古民家を改築したような、何処か懐かしさが漂う造りの宿は、温かな電灯が度の疲れを癒すようで嬉しい。
フロントで恋人同士に間違われたので即座に訂正したりしつつ、汐里は二部屋を借り受ける。
部屋の準備が整うまでのあいだ、汐里は寧々と並んでフロント前の休憩所でひと息つき、明日の進路をもう一度確認しておくことにした。
「先生、故郷にご家族とかいらっしゃらないんですか?」
今更だが寧々にも家族がいるだろうと思い、土産のひとつでも持って行った方がいいかと思ったのだ。
だが寧々はソファにだらしなく腰をかけたまま、地図を顔にのせた状態で、ひょいと首を振る。
「いないよ~」
「え?」
「全員、死んだからね~」
その口ぶりには悲壮感のひとつもなかった。ただの世間話のように軽くて、かえって背筋が冷えた。
(――まずいこと、聞いたかも)
汐里はあわてて話題を変える。
「そ、そういえば先生、わらべ歌って不思議ですよね。先生の村に伝わる歌は、私、今まで聞いたことがなくて……。何でしたっけ、えと『にんそく、げんよき、たばたの べにに――』」
カシャ――ンッ!
何かが派手に割れる音がした。
思わず振り返ると、フロントにいた若い女性の従業員が、花瓶を落としていた。
だが、それだけではない。
女は真っ青な顔で、今にも泣き出しそうな声で叫んだのだ。
「女将さん! 旦那さん! 大変です!」
それからは、あれよあれよという間の出来事だった。
宿の主人や女将は一切の説明をせず、ただ一言「何も言わずに、すぐに出て行ってくれ」とだけ繰り返した。
突然のことで訳がわからず、汐里は何とか食い下がり、新しい宿を探そうとしたが、町は小さくてどこも空いていなかった。
しかし主人たちは、まるで何かに怯えるかのように背後や外を何度も振り返りながら、「出て行け」の一点張りで話にならない。
その恐怖じみた様子に、汐里も薄ら寒いものを感じた。
揉めに揉めている最中、寧々が静かに立ち上がり、車のキーをぽんと投げてくる。
「しおりん、車中泊って、僕、やったことないんだよね」
理由もわからぬまま、こうして汐里と寧々は、今夜を車の中で過ごすことになったのだった。