区役所の入口には湿った風が流れ、森本桃子の頬を優しく撫でた。
「本当にいいのか? 一歩踏み入れたら、俺たち他人同士が正式な夫婦になるんだぞ。」小野寺智司は階段の上にすっと立ち、低い声で問いかけた。
桃子の目元は少し赤く、黄色いワンピースが細い腰を引き立てていた。膨らんだ小さなバッグの中の書類をぎゅっと握りしめ、視線は真っ直ぐ前を向いていた。
「二十代ももうすぐ終わるし、家でご飯ばかり食べているなんて…。ゆかりはもう子供もいるのに、あんたは全然ダメね…。実家に甘えてばかりで――」
今朝、叔母の多恵子に浴びせられた冷たい言葉が、まだ耳に残っていた。両親を事故で亡くしてから、桃子は叔父の森本健一の家に身を寄せていた。社会人になってからは毎月生活費を入れてきたが、家事は全部引き受け、従姉の由香里のお下がりの服を着て、ひっそりと暮らしていた。
従姉が結婚して夫と子供を連れて戻ってきてからは、ますます家が狭くなり、桃子は三畳ほどのベランダを改造したスペースで寝るしかなかった。
息苦しさは日々積もっていった。今朝も洗濯物を干し忘れたことで叔母に怒鳴られ、家を飛び出したその時、彼女は心に決めた。今日のお見合い、相手が普通で自分を嫌がらなければ、その場で婚姻届を出して、この家から逃げ出そうと。
思いがけなかったのは、お見合い相手の智司が、普通どころか驚くほど素敵だったこと。仲人の田中花子からは、ITエンジニアで大企業に勤めていて、仕事が忙しすぎて結婚が遅れていると聞いていた。
でも、カフェに現れた彼は、背筋が伸びていて、清潔感があり、まるでアイドルのような整った顔立ちだった。手も白くて長い、こんな人と自分が結婚できるなんて、信じられなかった。
「小野寺さん、中に入りましょう。」桃子の声には迷いがなかった。躊躇するべきなのは、むしろ彼の方だろう。
智司の目に一瞬、何かがよぎった。二人は黙って区役所へ向かった。
手続きの窓口で、智司はもう一度確認した。「女性にとって結婚は、人生が二度目に生まれ変わるくらい大きなことだ。今日が初対面で、お互い何も知らない。俺に過去がないとも限らない。森本さん、間違った結婚は苦しい。今ならやめてもいい。」
桃子は苦笑した。苦しい?これまでの窮屈な生活に比べれば、何だって大したことない。ためらわずに書類を職員に差し出した。
手続きは驚くほどあっという間に終わった。
婚姻届の証明書を受け取った瞬間、桃子の胸につかえていたものがふっと消えた。
――もう、あの家の一員じゃなくなったんだ。
「落ち着いたら、家族に報告して、一緒に食事でもしよう」区役所を出て、証明書を大事にしまいながら桃子は言った。
「まだ報告しないのか」智司が眉を上げた。今すぐ家を抜け出したがっていた彼女なら、すぐにでも連れて帰ると思っていたのに。
「ちゃんと別れの挨拶をしたくて」桃子が答えた。ふと道端の古いバイクに目を向け、「良かったら…送っていこうか?さっきタクシーで来たよね。」
智司は一瞬驚きを隠せなかった。何年も社長や御曹司として生きてきたが、女性から「送るよ」と言われたのはこれが初めてだった。彼の視線が、何年も使い込まれたバイクに向かった。「免許は持ってるの?もし欲しい車があるなら、買ってあげる。」
「いえ、大丈夫だ!」桃子は意外そうな顔をした後、すぐに首を振った。オンラインショップで手描きのイラストや配信講座で何とか月20万円ほど稼いでいる。安い車を買おうと貯めていたお金も、従姉の娘・花の急な入院費で消えてしまった。今回の結婚も、単に助け合って生きていくため。何かを期待しているわけじゃない。
「まずは賃貸で、家賃は割り勘でいいか?」
「わりかん?」智司がほんの少しだけ眉をひそめた。「せっかく結婚したんだ。俺が出すよ。もうそういう話はやめてく。」その口調は穏やかだが、反論を許さない。「住む場所は後で連絡する。会社に行くから、先に失礼する。」
桃子はうなずき、ふと大事なことを思い出す。「あ、ちょっと待って!LINE交換してくれる?」
智司ははっとし、新婚の二人がまだ連絡先すら知らなかったことに気づいた。LINEを交換し終えると、彼は路肩へと歩いていった。
桃子はバイクにまたがり走り去った。智司はお見合いで使ったカフェの前に戻り、待機していた黒いロールスロイスに乗り込んだ。
「社長、会社に戻りますか?それとも成城ヒルズへ行きますか?」運転手が丁寧に尋ねた。
「会社だ。四時から会議がある。」
智司の本当の姿は、財閥一族の後継者・小野寺貴裕。資産は数千億。両親がスイスに移住した後は、家のことをすべて任されている。
スマホがけたたましく鳴り、母親からの国際電話がかかってきた。普段は品のある声が、今日は怒りを隠せない。
「智司!どういうこと?お見合いはちゃんとするって約束したでしょ?白鳥家の若葉さんは、あなたに会ってないって言ってるわ!」
公の場では「小野寺貴裕」として通している。母親が本名で呼ぶのは、よほど怒っている証拠だ。
「白鳥さんの方が時間にルーズだったんだ。十分待っても来なかった。」
「彼女はあなたに会うために念入りにお化粧してただけよ!もう一度ちゃんと会いなさい…。」
「必要ない。」智司が遮った。「もう婚姻届を出した。」
数秒間、電話の向こうは静まり返った。「……婚姻届って何?」
「小野寺家には、今さら政略結婚なんて必要ない。白鳥家とは釣り合わないし。もしどうしても白鳥さんと縁を結びたいなら、下の弟たちでどうぞ。」
「でもお相手はあなたがいいって…!」
「俺は興味ない。」智司は強く言い切った。「時代錯誤だよ、親の言いなりで結婚相手を決めるなんて。」
「……せめて、どこの誰かだけでも教えてちょうだい。」母親の声は少し弱まった。
「そのうち、ちゃんと紹介するから。」
電話を切ると、智司はシートに身を預け、深く目を閉じた。スマホの画面には、新しいLINEの友達「夏のレモネード――森本桃子」が表示されていた。