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春がくるまで

第41話「狂信と誓い」

 冷たい海水が顔面にぶちまけられた。

 息が詰まり、鼻腔にしみる塩の匂いが、喉の奥を焼いた。


「――げほっ、ぐ……はっ」


 溺れる夢から引きずり出されるように、俺は目を覚ました。

 頭がぐらぐらする。

 手足がしびれて、体が動かない。

 照明のない、薄暗い部屋。

 鉄の床は冷たく、湿っている。

 どこか遠くで波の音が聞こえるような気がした。

 鼻を突く海水の匂いと錆の臭い。

 照明の代わりに、強い光がいくつも、俺の顔をまっすぐに照らしていた。


「目覚めたか。冒涜者」


 低く、どこか狂気を含んだ声が、光の先から聞こえる。

 目を細めると、光の向こうに銀色の長いローブを纏った男が立っていた。

 髪は乱れ、目には狂気の光が宿っている。

 背後には数人、同じような格好の人影が見える。

 全員、顔をマスクで隠しているのが、気持ち悪かった。

 その男は、にじり寄ってしゃがみ、俺の顔を覗き込む。


「神の使いを、己の穢れた手で汚した罪。わかっているな?」


「……は?」


 意味がわからなかった。

 体を起こそうとしたが、腕が後ろに縛られていることに気づく。

 足も動かない。

 しびれていると思った手足は、細いロープで完全に拘束されていた。


「キサマは、触れてはならん神の使いに触れた。キサマのせいで神は地に堕ちたのだ。償え、穢れた咎人とがびとよ」


 その言葉で、ようやく理解した。

 この男たちは――セレーネ人を「神」と信じる新興宗教の信者だ。

 その“神”と近しい関係にある俺は、彼らにとって許されざる存在、らしい。

 息を整え、俺は絞り出すように言った。


「……俺は、あいつらを……汚したりなんて、してない」


 口の中に血の味が混じっていた。

 俺は、それでも目をそらさずに言葉を続けた。


「俺が守るって、あいつに誓ったんだ」


 その瞬間、男の顔が歪んだ。


「嘘をくなぁッ!」


 叫び声と同時に、顔面に強烈な衝撃が走った。

 ほほに食い込むつま先。

 視界がぐらつく。

 口の中に再び血がにじむ。

 さらに腹部に蹴りが入って、肺から空気が一気に抜けた。

 息が、できない。

 世界が遠ざかる。


「おやめなさい!」


 別の声が響いた。

 後ろにいたマスクの男の一人が、そいつの腕をつかんでいた。


「セレーネの神は、争いを禁じておられます……」


「だがこいつは!」


「――教義を忘れましたか」


 しばらくの沈黙のあと、そいつは息を荒げながら手を引いた。


「……そうだったな」


 俺の顔に唾を吐き捨て、心底疎ましいものを見る目で見下ろす。


「感謝しろ。セレーネの神の慈悲にな」


 口の中で意味のわからない祈りの言葉をつぶやき、男は言い捨てた。


「殺しはしない。ただ、お前が二度と神を冒涜できぬように――明朝、生配信の場で、その愚劣な生殖器を切り取ってやる。それまでの時間、お前は自らの罪を静かに省みるがいい」


 その笑顔に、狂気の宿った顔に、ぞっとした。

 冗談ではない。

 そいつの目は、まるで明朝が待ちきれないとでも言うように、燃えていた。

 そのまま一同は出て行く。

 重たい扉が閉まり、足音が去って行く。


――完全な暗闇が訪れた。


 目の前の床すら見えない空間。

 聞こえるのは、自分の呼吸と、遠くの波の音だけだった。


 寒い。

 痛い。

 怖い。


 息をするのも辛い。

 喉がカラカラで、さっき浴びせられた塩水が、余計に喉を焼いた。

 俺は膝を抱えるように身を縮め、ただ一人、暗闇に取り残された。


 暗闇に、リュシアの顔が思い浮かぶ。

 いつものように微笑んで、やさしく寄り添ってくれる彼女の姿。

 俺はもう二度とリュシアに会えないまま……こんなところで、終わるのか。

 そう思うと悔しくて、苦しくて、どうしようもなかった。

 だけど――それでも、闇の中に、あの光を思い出せた。


『大丈夫です』


 彼女の声が、笑顔が、俺のすべてを解放してくれる。

 その瞬間。

 ギィ……と、扉の開く音がした。

 まぶしい逆光が、俺を照らす。


「――ユウリっ!」


 声が聞こえた。

 夢なんかじゃない、本物の声。


「リュ……シア……?」


 顔を上げたその先に、暗闇の中で立つ少女の姿があった。

 瞳に涙を浮かべ、でも力強く、俺の名を呼び、抱きかかえる。

 その声とぬくもりに包まれて――俺はもう一度、生まれ直したような気がした。

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