冷たい海水が顔面にぶちまけられた。
息が詰まり、鼻腔にしみる塩の匂いが、喉の奥を焼いた。
「――げほっ、ぐ……はっ」
溺れる夢から引きずり出されるように、俺は目を覚ました。
頭がぐらぐらする。
手足がしびれて、体が動かない。
照明のない、薄暗い部屋。
鉄の床は冷たく、湿っている。
どこか遠くで波の音が聞こえるような気がした。
鼻を突く海水の匂いと錆の臭い。
照明の代わりに、強い光がいくつも、俺の顔をまっすぐに照らしていた。
「目覚めたか。冒涜者」
低く、どこか狂気を含んだ声が、光の先から聞こえる。
目を細めると、光の向こうに銀色の長いローブを纏った男が立っていた。
髪は乱れ、目には狂気の光が宿っている。
背後には数人、同じような格好の人影が見える。
全員、顔をマスクで隠しているのが、気持ち悪かった。
その男は、にじり寄ってしゃがみ、俺の顔を覗き込む。
「神の使いを、己の穢れた手で汚した罪。わかっているな?」
「……は?」
意味がわからなかった。
体を起こそうとしたが、腕が後ろに縛られていることに気づく。
足も動かない。
しびれていると思った手足は、細いロープで完全に拘束されていた。
「キサマは、触れてはならん神の使いに触れた。キサマのせいで神は地に堕ちたのだ。償え、穢れた
その言葉で、ようやく理解した。
この男たちは――セレーネ人を「神」と信じる新興宗教の信者だ。
その“神”と近しい関係にある俺は、彼らにとって許されざる存在、らしい。
息を整え、俺は絞り出すように言った。
「……俺は、あいつらを……汚したりなんて、してない」
口の中に血の味が混じっていた。
俺は、それでも目をそらさずに言葉を続けた。
「俺が守るって、あいつに誓ったんだ」
その瞬間、男の顔が歪んだ。
「嘘を
叫び声と同時に、顔面に強烈な衝撃が走った。
ほほに食い込むつま先。
視界がぐらつく。
口の中に再び血がにじむ。
さらに腹部に蹴りが入って、肺から空気が一気に抜けた。
息が、できない。
世界が遠ざかる。
「おやめなさい!」
別の声が響いた。
後ろにいたマスクの男の一人が、そいつの腕をつかんでいた。
「セレーネの神は、争いを禁じておられます……」
「だがこいつは!」
「――教義を忘れましたか」
しばらくの沈黙のあと、そいつは息を荒げながら手を引いた。
「……そうだったな」
俺の顔に唾を吐き捨て、心底疎ましいものを見る目で見下ろす。
「感謝しろ。セレーネの神の慈悲にな」
口の中で意味のわからない祈りの言葉をつぶやき、男は言い捨てた。
「殺しはしない。ただ、お前が二度と神を冒涜できぬように――明朝、生配信の場で、その愚劣な生殖器を切り取ってやる。それまでの時間、お前は自らの罪を静かに省みるがいい」
その笑顔に、狂気の宿った顔に、ぞっとした。
冗談ではない。
そいつの目は、まるで明朝が待ちきれないとでも言うように、燃えていた。
そのまま一同は出て行く。
重たい扉が閉まり、足音が去って行く。
――完全な暗闇が訪れた。
目の前の床すら見えない空間。
聞こえるのは、自分の呼吸と、遠くの波の音だけだった。
寒い。
痛い。
怖い。
息をするのも辛い。
喉がカラカラで、さっき浴びせられた塩水が、余計に喉を焼いた。
俺は膝を抱えるように身を縮め、ただ一人、暗闇に取り残された。
暗闇に、リュシアの顔が思い浮かぶ。
いつものように微笑んで、やさしく寄り添ってくれる彼女の姿。
俺はもう二度とリュシアに会えないまま……こんなところで、終わるのか。
そう思うと悔しくて、苦しくて、どうしようもなかった。
だけど――それでも、闇の中に、あの光を思い出せた。
『大丈夫です』
彼女の声が、笑顔が、俺のすべてを解放してくれる。
その瞬間。
ギィ……と、扉の開く音がした。
まぶしい逆光が、俺を照らす。
「――ユウリっ!」
声が聞こえた。
夢なんかじゃない、本物の声。
「リュ……シア……?」
顔を上げたその先に、暗闇の中で立つ少女の姿があった。
瞳に涙を浮かべ、でも力強く、俺の名を呼び、抱きかかえる。
その声とぬくもりに包まれて――俺はもう一度、生まれ直したような気がした。