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(①)公園Ⅱ



 足音に顔を上げた僕は、反射的に立ち上がった。ゆっくりと歩み寄ってきたのは――紛れもなく先生だったからだ。二年という歳月が経過しても、僕は片時も畦浦先生の顔を忘れた事は無い。先生は、微笑を湛えながら、僕の方へとやってきた。


「先生……」

「杉井――少し大人っぽくなったな」

「……約束、守ってくれたんですね。覚えていてくれたんですね」


 僕は内心で歓喜し、涙ぐみそうになった。大人っぽく、か。やはり嘗ての僕は、子供じみていたのだろうか。


「勿論だ。忘れた事なんて一度も無いぞ」


 その言葉が嬉しすぎた。先生の流麗な声を聞きながら、僕は先生を見上げる。僕は逆に、本心から、先生が今日というこの日に、公園へと訪れた事に、驚いていた。僕は、僕だけが信じていると思っていたし、どこかで諦観していたのだと思う。


「僕も先生の事を忘れた事はありません」

「そうか。嬉しいな」

「今も……先生の事が大好きです」


 僕は思い余って気持ちを述べた。すると先生が微苦笑した。


「――良家の御子息のオメガと、ベータの一教師では、釣り合わないとは思わないのか?」

「関係ないです。そういう……性差とか、上辺の事じゃなくて、僕は先生が好きなんです」


 最初に見たあの日から、ずっと。


 僕は過去からずっと抱いている胸の痛みに耐えかねて、細く長く吐息した。


 約束を守って来てくれたからとは言え、先生は僕に、『二年経ったら付き合う』と言ったわけではないのだ。あの日先生は、『きちんと考える』と話してくれたに過ぎない。それだけであっても、僕には十分すぎたのだけれど。


 僕は先生の表情を見るのが怖くなって、思わず俯いた。正直、振られる未来を思い描いていた。僕がいくら好きであり、何も気にしないとしても、先生はオメガである僕を好いてはくれない可能性――僕の心が重くなる。


「知ってる」


 その時、どこか笑みを含んだ声が響いた。酷く優しげな先生の声だった。僕は驚いて目を見開き、反射的に顔を上げる。


「え?」

「実を言えばな――俺も一目見た時から気になっていたんだ。無性に惹かれていたんだ」


 続いて放たれた言葉を、僕は最初、上手く理解出来なかった。瞠目していると、その時ふわりと良い匂いがした。僕は、先生の腕の感触で、漸く自分が抱きしめられていると気がついた。先生の力強い腕が、僕の背中に回っている。僕は、状況認識が上手く出来ない。


 先生は、僕の肩に顎を乗せると、指先で、僕の右耳の後ろをなぞった。


「本当に、家だとかを捨てて、俺と共に生きるというのであれば――次は、お前の誕生日の日に、この公園に来てくれ。二十歳の誕生日のその日に」

「!」

「今度は俺が、杉井を待っているからな」


 僕はその言葉を何度も脳裏で反芻し、ようやく理解してから、涙ぐんだ。頬が熱い。兎に角、嬉しい。僕は目を伏せ、先生の胸板に額を押し付けた。


「絶対に来ます」

「そうか」


 先生はそれから、僕の双肩に両手を乗せると、じっと僕を覗き込んだ。そして唇が触れ合いそうな距離まで顔を近づけると、あんまりにも綺麗な顔で微笑んだ。


「待っている」






 その日からの僕の気分は一転した。これまで手が届かないと確信していた恋が、あるいは叶うのかもしれない。いいや、既に、叶ったのかもしれない。僕が上機嫌で公園の出口へと向かうと、要が苦笑していた事をよく覚えている。


 残り、約二ヶ月と半月程度。六月六日が待ち遠しい。自分の誕生日の到来を、これほど待った記憶は無い。過去に一度も無い。早く、先生に会いたい。そして、先生のきちんとした気持ちを聞きたい。僕に惹かれていたというのは、本当なのだろうか? 僕は先生の事ばかり考えて、過ごしている。


 この日も僕は、薄手の毛布にくるまりながら、眠るまで先生の事を考えていた。最近では、寝る事が嬉しくもあり、怖くもある。寝て目覚めて、全てが夢だったらと想像すると怖くなるのだが、起きればその分、誕生日が近づいてくるからだ。


 翌日――土曜日の朝を迎えた僕は、欠伸をしてから、身支度をして、階下へと降りた。そして朝食の席に着くと、ニコニコしている彰父さんと新聞を広げているお父様の姿が視界に入った。そこに漂う空気に、僕は身構えた。


「涼介、今日はこの後、十時から食事に出かけるように」

「素敵なお相手で、今度こそ涼介さんも気に入るはずですよ」


 父は僕を見ず、彰父さんは意気込んでいる状態で告げられたのは――見合い話だった。事前に伝えられていると、僕が拒否する事を既に二人は理解しているらしい。僕が逃げる事の無いように、このようにして、最近では当日に言い渡されるようになった。


 先生の事しか考えられない僕は、お見合いの話がきても、大学を理由に断っていたのだが、断れない状態で連れて行かれる事になると、食事だけでもしなければならない。顔を合わせたとしても、僕からは断りの言葉しか出ては来ないのだが。家族がそれに呆れている事も、十分僕は理解している。


「涼介さんは、杉井家のオメガなのですから、そこまで焦る必要はありませんが――きちんと考えるのですよ? 将来の事を。もうすぐ、二十歳になるのですから」

「……はい」


 頷いた僕は、食卓に座り、本日用意されていた洋食を見た。スクランブルエッグを口へと運びながら、俯く。用意されている品数は、いつもより少ない。すぐに食事会となるからだろう。


 その後、新しい服を彰父さんに渡された。手配していてくれたらしい。一度自室へと向かい、僕は手触りの良いネクタイを身につける。姿見の前で見た己の姿は、学院時代よりは確かに少し大人びたようにも思えた。上質なスーツを身に纏ってから、僕は再度階下へと降り、要に付き添われて玄関から外へと出た。彰父さんが付き添いをしてくれるとの事で、先に車の後部座席に乗っていた。その隣に座りながら、僕は溜息を押し殺す。


 大学に進学してから、月に一度か二度、多い時は三度は、お見合いをしている。しかし、先生と公園で顔を合わせてからは、初めてのお見合いだった。僕が罪悪感を抱く事は間違っているのかもしれないが、浮気をしているような心地になってしまう。同時に、そう思える状況にある現在に舞い上がりそうにもなる。先生は、僕が他者とお見合いをしたら、気にしてくれるだろうか? 逆の立場であるならば、絶対に嫌だ。


 そう空想して自分を慰めるのだが、現実は酷だ。僕はきっと、先生と付き合い出すまでは、少なくともお見合いを断る事が出来ない自信がある。現在は、三月の終わり、僕の誕生日までは、あと二ヶ月と少しだ。どころか、先生と仮に付き合えたとしても、それを理由に見合いを拒めるのかもまだ分からないでいる。伝えれば逆に、強制的にどこかのアルファと結婚をさせられる可能性が高いのでは無いかと感じている。


 僕は――教員になって、自立し、先生と暮らしたい。オメガとベータでも、結婚自体は法律で可能だ。同性婚も認められている。確かに一般的ではないし、先生がそれを望むとは限らないのだが……。


 その日向かったレストランにいたのは、丸い眼鏡をかけた、優しげなアルファだった。名前をその場では覚えたが、僕は帰宅する車内の中では既に忘れていた。我ながら冷たいかもしれないが、意識的に存在を閉め出す。家族以外の場合、アルファというだけで、放たれているフェロモンを嗅ぎ取ってしまい、時に目眩がしそうになる事がある。不思議と、ベータであるはずの先生の匂いや気配が過り、その他の気配が気持ち悪く思えるのだ。決して悪い人では無かったと理解してはいる。ただ、僕には先生しかいない。悪いのは、僕なのだと思う。


「良かったですね、涼介さん。先方は乗り気だそうですよ?」


 彰父さんにそう言われたのは、三日後の朝の事だった。しかし僕は苦笑して、首を振るしか出来ない。


「お断りして下さい」

「……涼介さん」

「僕は、あの方とは結婚出来ません」


 僕がきっぱりと述べると、彰父さんが目を細めた。


「何が気に入らないのですか? 本当に優しそうなお人柄で、家柄も十分です」

「……申し訳ありません。僕の問題です」


 本心から僕が謝ると、彰父さんが沈黙した。それから、食卓へと振り返り、一歩進むと、封筒を一つ手に取り、僕へと差し出した。


「浅香家のご子息からの、招待状です。ご結婚なさるようですね」

「浅香が……」

「涼介さん。貴方の同級生の中でも、まだ婚姻をしていない者は少数なのでは? 焦る事を覚えて下さい。確かに、そこまで焦る必要は無いとは言え……もう少しは、周囲と比較する事を覚えて下さい」

「……」

「浅香家はさすがに名門だけあって、相手選びに慎重だったのでしょうが、その甲斐あって、非常に優れたアルファの家柄との婚姻のようですね」

「……」

「比民(ひたみ)化学の御曹司とのご結婚だとか。比民化学といえば、あの絹賀崎製薬とも関係が深い大企業です。絹賀崎製薬が出資した研究所を、この前構えたばかりで勢いに乗っているというお話ですね」


 彰父さんはそう言ってから嘆息すると、華奢な手を白い頬に添えた。


「式は五月との事です。それまでにはせめて、涼介さんも婚約者を」

「……それは……あの、式への参加は断って――」

「なりません。浅香家とは、相応の付き合いがあります。お互いに名門のオメガ輩出家として、今後も関係を維持していかなければならない相手でもあります」


 僕は浅香が相手では、まともに関係など築ける気はしなかったが、何も返す言葉も持たなかった。その日から、僕は毎週一度は、講義の合間や休日に、お見合いをさせられる事となった。浅香の結婚の知らせを聞いて、目に見えて彰父さんが焦り始めたからだ。


 しかし普段の僕は、先生の事ばかり考えて過ごしていた。あるいはそれは、現実逃避なのかもしれなかったが――僕の頭の中は、先生でいっぱいなのだ。瞬きをする度に、先生の瞳や優しく笑う口元が浮かんでくる。僕の瞼の裏には、先生の顔が刻み込まれているかのようだった。






 こうして――五月が訪れた。第一週目の土曜日のその日、浅香の結婚式が港にほど近い丘の上の結婚式場で執り行われる事になっていた。老舗ホテルの経営する、格式ある式場だ。先に教会での式が行われるという事で、僕は会場に入った。ちらほらと懐かしい顔がある。多くは、浅香の近しい取り巻きだった者達だ。その大部分は、既に配偶者のアルファを得ていて、夫を伴って参加していた。僕は、片隅にポツンと立っていた。披露宴にはベータも呼ばれているようだが、式自体には、アルファとごく少数のオメガしかいない様子だ。


 指輪の交換をしている新郎と浅香の姿を目にしながら、僕は式の終わりを待っていた。浅香に挨拶する事になったのは、披露宴が始まってからの事だった。入り口脇の壁際に立ち、立食式の会場を見回していた僕へと、浅香が歩み寄ってきたのだ。


「杉井くん」

「おめでとう、浅香」

「――僕、これからは、比民の人間なんだよ? 分かってる?」

「ああ……そうだった。お幸せに」

「杉井くんは、どうなの? 行き遅れてるみたいだけど」

「……」

「まだ婚約者すらいないんじゃないの?」


 浅香のイヤミは健在だった。僕を見て勝ち誇ったような顔をしている。仁王立ちしている浅香の周囲にいた元取り巻き達も、みんな僕を見てニヤニヤしていた。


「花嫁の愛らしい顔が台無しだぞ」


 その時、唐突に声がかかった。狼狽え過ぎて、僕は目を見開いたまま硬直した。息が出来ない。聞き間違えるはずもなく、それは、畦浦先生の声だった。視線が釘付けになる。浅香が僕と先生の中間で、羞恥に駆られたように真っ赤になってから、ぎこちなく振り返った。


「おめでとう、浅香。いいや、比民、か」

「雪野先生……あ、あの」

「みんなも久しぶりだな」


 先生が微笑した。すると全員がそちらを見て頷いた。僕は、イヤミから解放されて助かったという思い――先生が助けてくれたという思いもあったが、何より先生に会えた事が嬉しくてならなかった。六月まで会えないと信じきっていた。浅香は披露宴に先生を呼んでいたらしい。


「あまり新婦を借りても悪いからな。そろそろ他の挨拶回りをしてきたらどうだ?」


 先生がそう言った時、浅香が満面の笑みで頷いた。その場に和やかな空気が漂っている。僕と対峙していた時とは異なり、心から浅香は幸せそうな顔に変わっていた。


「僕、行ってきます――じゃあね、杉井くん。杉井くんも、元気で」


 最後に浅香は僕にそう告げてから、元取り巻き達と別の方向へと歩いて行った。すると、先生が近くのノンアルコールのシャンパンが並ぶテーブルへと近づいていくのが見えた。僅かな時間でも会えただけで嬉しい。だが……本音を言えば、話しかけたい。話がしたい。そう思い、僕が勇気を出して歩み寄ろうとした時、先生がグラスを二つ手に取り振り返った。視線がぶつかる。それだけで、僕の心臓がドクンと啼いた。先生が、その時、ふわりと微笑した。すると動悸がいよいよ激しくなった。


 先生が僕へと歩み寄ってくる。僕は硬直したままで、動けない。


「――相変わらず、杉井は目立つな」

「え……?」


 かけられた言葉の意味が上手く理解出来ず、僕は聞き返す。だが先生は苦笑してみせると、僕にグラスを差し出した。


「良かったら」

「あ、有難うございます」


 受け取って僕は一礼した。先生が僕の隣に立っている。距離が近い。先生から漂ってくる香りが心地良くて、それまで噎せ返る人々のフェロモンに悪酔いしそうになっていた僕の体が、一気に楽になっていく。先生はベータであるのだし、精神的な問題なのかもしれないが。


「この会場にも、杉井を見ている人間は多いな」

「オメガだから……」

「そうじゃない。杉井が美人だからだろうな」

「……」


 僕は先生の言葉に、真っ赤になって俯いた。お世辞なのだとは思うが、先生の声が嬉しくてならない。先生に、美人だと思ってもらえたら、嬉しい。


「元気だったか?」

「は、はい……先生は?」

「――そうだな。最近は、一日が長く感じるようになった」

「そうなんですか? ええと、単調……とか……?」


 いつも明るい先生の口から出る言葉としては珍しいなと感じて、僕で良ければ支えになりたいと思った。すると先生が小さく吹き出した。


「六月六日が待ち遠しいという意味だ」

「っ」

「まさか、忘れていたのか?」

「ち、違――」

「待っているからな」


 先生は僕と視線を合わせると、悪戯っぽく笑った。真っ赤になった僕は、瞳が潤みそうになった。頬が熱く火照ってきたので、ノンアルコールのシャンパンを飲み込む。炭酸が心地良い。


「僕、絶対に行きます」

「そうか」


 小さく頷いた先生は、それから微笑を深めると、僕をじっと見た。そのまま僕達は、ポツリポツリと会話をした。披露宴が終わらなければ良いのにと僕は思っていたが、一次会終了の時刻は、あっという間に訪れた。ただ先生がその間、ずっと僕のそばにいてくれた事が嬉しかった。僕達は揃って一次会の会場から出て、視線を合わせた。


「また」

「はい!」


 こうして僕は、先生との僅かな再会を果たしたのだった。残り、もう一ヶ月も無い。僕は誕生日が本当に待ち遠しかった。







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