僕は一度、杉井家に戻る事になった。既に、先生のお祖父様とお父様には挨拶を済ませているし、家族同士の顔合わせも終わっている。僕と雪野先生は、明確に婚約者となった。先生は研究室付きの別宅をもう一つ購入するとし、僕達は結婚後はそこで暮らす事に決まった。
入籍したのは、新居の改装が終わった日の事である。地下付きの、外観は古いが上品な洋館で、地下を研究室に改装したのだという。広大な敷地の中央にある、西洋から移築された建造物だ。
結婚式は、子供が産まれてから行う事に決まっている。僕は大学を正式に休学し、学院を退職した先生は、研究と経営の仕事をしている。いつも九時頃先生は帰宅し、朝は七時頃家を出る。料理は使用人さんが作ってくれる。元々絹賀崎家の使用人だったらしい。先生には秘書さんがいて、執事のように働いている。在宅勤務なのだと言う。
他にはハウスキーパーであるメイドさんのような服を着た女性が数人、他に使用人の中には料理人と運転手さんがいる。庭師さんもいる。杉井家よりも数がずっと多い。
家具も全てが選び抜かれたものらしく、高級感が漂っている。僕は与えられた自室か、隣接している温室にいる事が多い。時折腹部を撫でながら、花を愛でたり、大学のテキストや書籍を読んだりしている。飼い始めた猫が、僕の膝の上にのっている事も増えた。
やってきた新しい日常の中で、僕はいつも先生の帰りを待っている。
「ただいま」
この日も帰ってきた先生を玄関で出迎えると、優しく抱きしめられて、額に、そして唇に、触れるだけのキスをされた。胸がトクンと疼く。
「愛しているぞ、涼介」
「雪野先生……僕も、先生が好きです」
先生が僕の頬に手を添え、柔和に微笑した。先生の優しい表情を見ているだけで、僕は満ち足りた気分になる。先生は僕の腰に手を添え、促すようにしながら歩き始めた。二人でリビングへと向かうと、控えていた使用人達が、恭しく頭を垂れた。
並んでソファに座った僕達の前に、珈琲とノンカフェインの紅茶が置かれる。先生は珈琲の浸るカップを持ち上げると、僕を見て唇で弧を描いた。
「今日は何をしていたんだ?」
「先生の帰りを待ってた」
「それは知っている。嬉しい事だな。他には?」
「久しぶりに、星の王子様を読んでいました」
先生との間の思い出の本だ。子供が生まれたら、僕はそれを教えてあげたい。
「先生は、お仕事どうでしたか?」
「早く涼介に会いたくて、時折気がそぞろになった」
「知ってます」
そんな事を言い合って、僕らは揃って吹き出した。使用人達は、僕達を微笑ましそうに見ている。僕が唯一杉井家から連れてきた要は、本日はお休みだ。何でも、妹さんのお見舞いに行くらしい。僕は、要に妹がいる事を知らなかったのだが、結婚後に雪野先生から聞いた。何でも先生の会社の傘下の病院にいるから、知っていたらしい。
――子供が生まれたのは、僕と先生が愛を交わした翌年、四月の事だった。また、春が訪れた。昨年は六月が待ち遠しかったのだが、今年は四月をずっと待っていた。出産はすんなりと済み、僕も子供も共に健康体だ。僕の第一子であるから、恐らくアルファなのだろうなと漠然と考える。
出産には、雪野先生の他、お父様や彰父さんも駆けつけてくれた。少しして、赤ちゃんと共に退院した僕は、昨年から暮らしている先生と僕の家へと戻った。新たに乳母さんが雇われていて、妊娠中から何度も顔を合わせている。僕だけの手ではなく、乳母さんが面倒を見るのを手伝ってくれる事になっていた。
名前は洋野(ひろの)と名付けた。元気な男の子だ。小さな手で、僕の指に時折触れる。柔らかな頬を僕は指でつついてみる。ゆりかごの中の洋野は、本当に愛らしい。
夜について、お医者様の許可が出たのは、それから少ししての事だった。
二ヶ月が経過し、僕の二十一歳の誕生日が訪れた夜、その日は絹賀崎家主催のパーティが行われた。僕はもう逃げ出したりはせず、先生の隣に立って、立食パーティに臨んだ。最近では、僕はこういったフォーマルな場では、和服を着用する事が多い。少しだけシャンパンを飲んだ僕の耳元で、この日先生は言った。
「涼介」
「なんですか?」
「涼介が欲しい」
それを聞いて、僕は赤面した。僕は大学の後期から再び出席する事に決まっているので、九月から学生に戻る。だから結婚式は、その前の八月に行う予定だ。最近はその準備もあって、夜の許可が下りてからも、先生とは体を重ねていなかった。
チラリと先生を見れば、その黒い瞳に、久方ぶりに見る獰猛な光が宿っていた。
この夜――パーティの終了後、帰宅した僕達は、いつも一緒に眠っている寝室に、二人で向かった。それぞれ入浴し、着替えてから、僕達は抱き合った。立っていた僕を、先生が抱きすくめたのだ。
最近は触れるだけだったキスが、今日は深い。
「今日はずっと抱きしめていたい」
「僕もです」
宣言通りこの夜は、ずっと交わっていた。先生は夜が白ける頃になって漸く僕を解放してくれたのだった。
そんな日が毎夜続き、結婚式当日まではあっという間だった。間には、先生の誕生日もあった。
式の当日――父は満面の笑みだったが、彰父さんは涙ぐんでいた。感極まっていたらしい。それを海都兄さんが慰めていたのが印象的だった。二人が会話を交わす姿を、僕は初めて見た。またこの日は、兄は、弟の湊とも話をしていた。少しずつ、杉井の家の空気も変わった気がする。
それにしても――やっぱり、先生はアルファだ。
だけど、まさかアルファだとは思ってもいなかった。そんな学院時代を振り返りながら、僕は大学に復学した。秋になり、薄手のコートを羽織りながら、僕は乳母さんに洋野を預けて、要に送られ大学へと行く。要も僕に合わせて休学していたから、二人で今回も同じカリキュラムとなった。
「洋野様は本当に愛らしいですね」
講義の合間、不意に要が言った。視線を向けると、先ほどの講義のレジュメを要は見ていた。幼児教育についての講義だった。僕も聞きながら、洋野の事を思い出していたので、思わず笑顔になってしまった。
「うん。幸せだよ」
「本当に幸いです。涼介様の幸せは、私にとっても幸せですから。ただ、いくら幸せになるからと言って、もう私目をおいて姿を消したりはしないで下さいね」
「ほ、本当にごめん」
「――良いのです。雪野様ならば、涼介様をきっと幸せにしてくれるだろうとは考えていましたから。本当に恋が叶い、良かったですね」
要はそう言って苦笑してから、僕の肩をポンと叩いた。
その後の大学生活は順調で、僕は四年次には、稲崎学院へと教育実習に行った。先生方は僕の事を懐かしんでくれたし、校長先生に至っては、是非採用試験を受けて欲しいと言ってくれた。それが僕は嬉しい。
雪野先生は実際には教師が本業では無かったが、それでも紛れもなく、僕にとっては恩師だ。僕は先生に助けられた。だからやはり僕は、雪野先生のような教師になりたい。
絹賀崎家の次期当主の配偶者が働くというのはいかがなものかと、父は苦笑していたが、意外にも彰父さんが応援してくれた。
僕が、校長先生の勧めの通り、稲崎学院の教師となる道を選ぶ事に決めたのは、卒業間際の事だった。二十四歳となった僕は、もう出会った時の先生よりも、年上である。だが、大人っぽい先生を見ていると、己が子供に思えて、些か不安になる。けれど僕は決めたのだ。
「ねぇ、雪野先生」
「なんだ?」
「僕、絶対に雪野先生みたいに、生徒を助けられる教師になる」
僕がそう述べると、虚を突かれたような顔をしてから、先生が破顔した。
「俺は最初から、涼介に対しては下心しかなかったけどな」
「な、何言ってるの?」
「最初から、愛していた」
このようにして――僕は幸せになった。稲崎学院の教師は、発情期休暇が認められるため、僕は抑制剤を服用しないようになった。代わりに発情期が来ると、一週間程度は家から出ない。使用人達は皆ベータであるから問題は無い。なおこれは、雪野先生の希望だ。
自然と僕に発情期が来ると、先生は優しい顔の中、瞳にだけ獰猛な光を宿して僕を抱く。何でも、無理に薬で抑制するよりも、自然発情の方が体に良いらしい。
その後、第二子と第三子が生まれた時は、産休も取った。僕は乳母さんと共に三人の子供を育てながら、教員として、それを生きがいとして、日々を過ごしている。
現在の僕は、本当に幸せだ。
僕は紅茶のカップに両手を添えて、積み木で遊ぶ子供達を眺める。
いつまでもこの幸せが続きますように。
そう祈りながら、僕は静かに目を閉じた。
【完】