物置小屋の中は、静まり返っていた。
空気は息苦しく湿っていて、腐ったジャガイモの発酵した酸っぱい臭いが混じっている。
古い携帯電話がスピーカーモードになっていて、男の投げやりな声がスピーカーから響く。
「本人と話させてくれ。」
携帯が斎藤理音の耳元に押し当てられる。
彼女は両足がぐちゃぐちゃになったポテトサラダに沈み込み、震えを必死にこらえてかすれた声を絞り出した。
「康平、私トラブルに巻き込まれたの。」
電話の向こうで一瞬だけ沈黙があったが、不意に低い笑いが聞こえた。
「もう十分遊んだんじゃないの、理音?今日は何の日か覚えてる?」
「ふざけてないわ。」
理音の声は力がなかった。
「本当に危ないの、信じて!」
携帯は急に取り上げられ、斎藤康平の声が少し遠ざかりながらも、はっきりと耳に届いた。
「理音はしぶといゴキブリじゃなかったっけ?本当に死んだら、俺も一緒に逝ってやるよ。」
物置小屋は一瞬で完全な暗闇に包まれた。唯一の出口は分厚いカーテンで塞がれ、外から何かを押し付ける音と共に、石まで積まれているようだった。
誰かが自分の命を狙っているのに、生きて帰ることを望む人間など、一人もいない。
二十年ほど付き合った幼馴染で、三年連れ添った夫さえも。
雪岡町は有名なスキーリゾート地だ。理音が無様な姿で宿に戻ると、宿の主人は驚きの声を上げた。
「どうしたんですか?こんな姿で……」
理音は説明したくなくて、無理に笑顔を作った。
主人はじっと理音を見つめる。
「ピアスは?それに、来たとき首にかけてた勾玉のお守りは?」
目の前の彼女はここの常連客で、二歳の頃から両親と一緒にこの宿に泊まり、スキーを楽しんでいた。最初は両親と、後には祖父と、そしてここ最近は一人きりで訪れるようになった。
理音は口元にわずかに笑みを浮かべる。
「人にあげちゃったの。」
客のプライバシーもあるので、いくら親しくてもそれ以上は聞けない。主人は理音にお風呂に入るよう促し、台所に葛湯を作るように指示した。
部屋は二階にあり、年季の入った木の床がぎしぎしと音を立てる。ドアを閉めて外の世界を遮断し、理音は背中をドアに預け、力が抜けてそのまま床に滑り落ちた。
冬の夕陽が山の端に沈み、部屋の中は格別に静かだった。理音は顔を膝に埋め、不安と生還の安堵が入り混じり、涙が静かに汚れたジーンズを濡らした。
ソファの上の携帯が何度も鳴っていた。
理音は涙を拭い、手探りで電話に出る。親友の高橋夏実の慌てた声が飛び込んできた。
「一体何してるのよ!あんた、旦那の誕生日にどこ行ってるの!?知らない人が見たら麻衣が斎藤家の奥さんだと思うわよ!」
理音は疲れた声で答えた。
「何かあったの?」
「何回電話したか分かってる?斎藤麻衣、妊娠したんだって!」
「康平の子?」
「……」
夏実が絶句する。
「まさか、それはないでしょ。もしそんなことしたら、義父母に何されるか分からないじゃない。」
「そう。」
「ちょっと、あんたどうしたの?」
夏実は焦れったそうに続けた。
「このニュース、あんたの旦那の誕生日パーティーで発表されたんだよ。康平の反応見たら、みんな子どもが彼のだって勘違いしそうな雰囲気だったし……」
理音は窓の外、消えかけた夕暮れを見つめながら言った。
「夏実、シャワー浴びたい。寒いの。」
「分かった分かった。あとでメッセージ送るから絶対見てね!」
「うん。」
浴室の鏡の前で、理音は汚れた服を脱ぎ、まとめてゴミ箱に捨てた。
湯気で鏡が曇り、姿がぼんやり映る。物置小屋に放り込まれて、服が汚れただけで無事に戻ってこれたのは、喜ぶべきか悲しむべきか分からない。
部屋のドアがノックされ、スタッフが葛湯を持ってきた。礼を言い、理音は汚れた服が入ったゴミ袋を手渡す。
「これ、捨ててもらってもいいですか?」
「どうぞお気になさらずに。」
スタッフは笑顔で答えた。
「主人が聞いてほしいそうなんですが、お正月もこのままご滞在ですか?シーズン中で混み合いますから、ご希望ならお部屋を確保しておきますよ。」
理音はうなずく。
「お願いします。」
「かしこまりました。何かあればいつでも呼んでください。」
もうすぐ年の瀬。来週には正月がやってくる。部屋の暖房はしっかり効いていて、理音はゆったりとしたバスローブ姿で、窓の外夜のライトに浮かぶ真っ白な雪山を眺めた。世界が一瞬、完全に静寂に包まれたようだった。
再びドアがノックされた。
理音は主人だと思い、ドアを開けながら言った。
「田中さん、本当にお気遣いなく……」
その続きを飲み込んだ。
ドアの外に立っていたのは、鋭い目元と高い鼻立ちの男だった。何度も彼女にキスをしてきた薄い唇が不満げに引き結ばれ、黒いコートからは冷たい風と雪の気配が漂っている。
理音は一瞬たじろいだ。
「どうして来たの?」
「どうしてだと思う?」
康平は皮肉っぽく笑ってみせる。
「助けてって言ったのは君だろ?こっちは宴会を途中で抜けて来たんだよ。それで、どうやって助ければいい?」
「もう帰っていいわ。」
康平の目が冷たかった。
「理音、いい加減にしろよ。」
「私がまともだったことなんてないでしょ!」
理音は怯えたハリネズミのように身構える。
「できるもんなら殺してみなさいよ!」
「……」
康平は大きく息を吐き、怒りを必死に抑える。
「何かあったのか?怪我は?病院には行ったのか?」
「死んでないから大丈夫。あなたが一緒に死ぬ必要なんてないわ、残念だった?」
康平は顎をぎゅっと引き締めた。
しばらく沈黙の後、ゆっくりと口を開く。
「俺の誕生日、覚えてた?こんな時にいないで、ここでふざけてるなんて、面白い?」
「最高に面白かった!」
理音は涙が止まらず溢れた。
「私は昔も、今も、これからも遊び続ける!全部あなたのせいよ!」
康平の体が固まった。
何度繰り返しても、どんなに酷いことをされても、彼女の涙だけはいつも彼の心を一瞬で崩してしまう。でも、彼が好きなのは、ベッドの中で「康平」と泣いて縋るときだけの涙で、今みたいなものじゃない。
どれだけ怒っていても、それだけで怒りの半分以上は消えてしまう。
「もういいだろ。」
康平は部屋のドアを開ける。
「今度は何が気に入らないんだ?俺が悪かったよ。宝石でも車でも好きなものやるから、いいだろ?」
理音はドアを押さえた。
「出て行って。」
「どこに?」
康平は軽く理音の力を外し、体を捻って中に入ると、ドアを閉めた。
「俺は君の夫だ。」
部屋は少し散らかっていて、開いたスーツケースや、スキンケア用品、充電器があちこちに転がっている。
これが彼女のいつものスタイルだ。細かい片付けが何より苦手なのだ。
康平はコートを脱ぎ、自然な動作で一つ一つ片付け始める。
「プレゼント、用意してくれてるんだろ?」
まだ少し不機嫌そうな口調で言う。
「プレゼントがあれば、今日のことは……」
理音はドアのそばで、ふいに尋ねた。
「麻衣、妊娠したんだって?」
「……何?」
康平はしゃがんだまま、しなやかな背中を見せる。
「羨ましいの?じゃあ、俺たちも子ども作ろうか。」
そう言って、彼女を振り返り、珍しく優しい笑みを見せた。
「親たちもずっと気にしてるし、そろそろどう?」
「私には産めない。」
「……」
理音は皮肉な笑みを浮かべた。
「麻衣が産むんであげるでしょう?ちょうどいいじゃない。次もその次もあなたの子ども、彼女に産んでもらえばいい。きっと喜んでやるわ。」
康平の笑みは、瞬時に凍り付いた。